第三話 三 井戸のまわり
井戸を囲んでいたのは、十人ほどだった。
屋根の下に立つ者もいれば、濡れた道へ膝をついている者もいた。
誰も明かりを持っていない。
家の窓から漏れる弱い光が、濡れた地面と、人々の輪郭をかすかに照らしている。
「先生」
真由は道へ下りた。
誰も振り返らなかった。
「宮内先生」
滑車が軋んだ。
縄が擦れ、桶が井戸の中へ落ちる。
その周りから、水を啜る音がいくつも聞こえた。
真由は携帯電話のライトをつけた。
医師は井戸の柱へ身体を預けていた。
昼間と同じ上着を着ている。
片手に金属のコップを持っていたが、腕は垂れ、水が指先から落ち続けていた。
「先生」
真由が近づく。
宮内の頭が、ゆっくりと動いた。
顔がこちらへ向くまでに、長い時間がかかった。
目は開いていた。
口元から水が垂れ、顎の下で細い糸を引いている。
「悠介が息をしていません。脈もないんです」
宮内の唇が開いた。
声は出なかった。
喉の奥で、湿った音が一度鳴った。
「早く来てください」
真由が腕をつかもうとした。
宮内の身体が柱から傾く。
足がついてこない。
肩が井戸の縁へぶつかり、そこで止まった。
めくれた袖の下に、傷が見えた。
肘の内側の皮膚が黒く裂けている。
赤い血はなかった。
宮内はコップを持ち上げようとした。
腕は途中で止まった。
もう一方の手を添え、身体を何度か揺らして、ようやく水を傷へかける。
「何をしてるんですか」
返事はなかった。
井戸の反対側に奈緒がいた。
桶の前へ両膝をつき、上半身を縁へ預けている。
濡れた手を顔へ持ち上げる。
腕が途中で止まる。
しばらくしてから頬へ届き、水を擦りつけた。
また手を桶へ戻す。
同じ動きを、ゆっくりと繰り返していた。
「奈緒さん」
奈緒の手が止まった。
顔は伏せられたままだった。
「悠介が死んだんです」
言葉にした途端、真由の脚が震えた。
「先生を連れてきてください」
奈緒の頭が少し持ち上がった。
濡れた髪の間から、開いた目が見えた。
真由の吐く息だけが、二人の間を白く流れた。
「奈緒さん」
口が開いた。
「……あさ」
息のない、掠れた声だった。
「何ですか」
「……あさ」
それ以上は続かなかった。
奈緒の手が桶の中へ落ち、水が小さく跳ねた。
真由は周囲を見回した。
昼間、水路で一緒に作業した男が、道へ座り込んでいる。
上着の肩をずらし、そこにあった傷へ、金属の器から水をかけていた。
一度では腕が上がりきらない。
何度か持ち直し、少しずつ水を流している。
別の老人は、傷ついた指を桶へ沈めたまま動かない。
女が一人、桶の縁へ顔を伏せていた。
口だけが水面へ触れている。
水を飲んでいるのか、顔を浸しているだけなのか分からなかった。
誰も真由へ近づかなかった。
誰も、助けようともしなかった。
水を汲む音と、喉の奥から漏れる濡れた音だけが続いている。
真由は一歩下がった。
踵が何かへ触れた。
振り返る。
正吉が、道へ倒れ込むように座っていた。
片脚を前へ伸ばし、もう片方は身体の下へ折れ曲がっている。
胸元まで濡れ、口の周りにも水がついていた。
「正吉さん」
正吉の目が動いた。
真由の顔へ合うまでに、長い時間がかかった。
「悠介が死んだんです」
正吉の顎がわずかに動いた。
「息をしてないんです。先生も動いてくれない」
「……寝とる」
「寝てるんじゃありません」
「寝とって」
声が途切れた。
正吉の頭が下がる。
「みんな……」
続きは聞き取れなかった。
空き家のほうで音がした。
木へ硬いものがぶつかる。
真由は振り返った。
開いた玄関の奥に、人影があった。
「悠介?」
柱へ身体を預けながら、誰かが廊下を進んでくる。
片方の足を前へ出す。
身体が傾く。
倒れかけてから、遅れてもう一方の足がついてくる。
悠介だった。
寝間着のまま、玄関から外へ出てきた。
胸元は汗と水で濡れている。上着の裾から裸足がのぞき、濡れた土の上へ置かれた。
口は半ば開き、透明なものが顎から垂れていた。
「悠介」
真由は家へ戻ろうとした。
悠介は真由を見なかった。
一歩ごとに身体を傾け、足を引きずりながら、井戸へ向かってくる。
「私だよ」
反応はない。
真由の横を通り過ぎる。
肩へ手を伸ばした。
悠介の腕に触れた。
冷たかった。
真由は手を離した。
悠介の胸は動いていなかった。
吐く息も見えない。
「悠介、待って」
井戸へ向かう足は止まらなかった。
正吉の口が動いた。
「呼ぶ……な」
「何を言ってるんですか」
「まだ」
正吉の目は悠介ではなく、暗い山のほうへ向いていた。
「まだ……ちがう」
「何が違うんですか」
答えはなかった。
悠介は井戸の前まで進んだ。
村人たちは道を空けなかった。
動けない身体同士がぶつかり、ゆっくりと傾く。
悠介もその中へ押し込まれた。
井戸の縁へ手を伸ばす。
指先が届かない。
奈緒が顔を上げた。
悠介を見る。
しばらくして、桶へ沈めていた手が持ち上がった。
腕は途中で止まり、また下がる。
もう一度持ち上げる。
ようやく桶の縁へ指がかかった。
奈緒は身体ごと後ろへ倒れながら、桶を悠介のほうへ引いた。
水が地面へこぼれた。
悠介は膝から崩れた。
両手を桶へ入れる。
水を掬おうとしても、指の間からほとんど流れ落ちた。
やがて顔を桶へ近づけた。
口が水面へ触れる。
長く、濡れた音がした。
「悠介」
真由は呼んだ。
顔は上がらなかった。
「悠介」
正吉の声が、背後から聞こえた。
「朝に……なれば」
真由は振り返った。
正吉は顔を伏せたまま、顎だけを動かしていた。
「顔が、戻る」
頭が胸へ落ちた。
それきり動かなかった。




