第三話 四 朝の顔
真由は井戸から離れた。
家へ戻るのではなく、村の中央へ走った。
集会所の固定電話を使えば、町へ連絡できる。
濡れた道で何度も足を滑らせた。振り返るたび、井戸の屋根と、その周りに集まった影が見えた。
集会所は暗かった。
玄関の引き戸へ手をかける。
動かない。
両手で強く引いたが、内側から鍵がかかっていた。
「誰かいませんか」
戸を叩く。
「開けてください」
返事はなかった。
建物の横へ回り、別の入口も確かめた。
そこにも鍵がかかっている。
窓から中をのぞくと、電話機らしい白いものが机の上に見えた。ガラスを叩いても、建物の中に人が動く気配はない。
真由は携帯電話を取り出した。
画面には電波が一本だけ立っていた。
もう一度、緊急通報を試す。
呼び出し中の表示が出た。
「お願い」
耳へ押し当てる。
音は鳴らなかった。
しばらくして、接続できないという表示へ変わった。
真由は集会所の前に立ち尽くした。
背後で、井戸の滑車が鳴った。
長く軋む音が、村の中を通ってきた。
真由は走って戻った。
井戸の周りでは、人々が先ほどと同じように動いていた。
一人が滑車の縄へ手をかける。
少し引く。
腕が止まる。
別の者が同じ縄へ手を重ねる。
また少しだけ引く。
長い時間をかけて、桶が井戸の中から上がってくる。
悠介は桶の前へ座ったままだった。
「悠介」
真由が呼んでも、顔は上がらなかった。
集会所へ行っているあいだに、どこかへ消えていなくてよかった。
そう思った直後、自分が何に安心したのか分からなくなった。
真由は空き家の玄関へ戻った。
戸は閉めなかった。
携帯電話を握ったまま、井戸にいる悠介を見た。
もう一度集会所へ行っても、電話には手が届かない。
山道を一人で下りることもできない。
医師は、井戸の柱へ身体を預けたままだった。
玄関へ座り込み、膝を抱えた。
雨が弱くなった。
水路の音に、鳥の声が混じり始める。
空の色が、黒から灰色へ変わっていった。
井戸の周りには、まだ村人たちがいる。
夜と同じ場所へ座り込み、動かない者もいた。
山の端が白くなった。
最初の光が、井戸の屋根へ当たった。
濡れた木が白く浮かぶ。
光は少しずつ下がり、人々の肩や背中へ届いた。
水路で作業をしていた男が、両手を膝へついた。
ゆっくりと腰を上げる。
夜のあいだ、地面へ座ったままだった身体が、自分の力で立ち上がった。
別の女が顔を上げた。
目を何度か瞬かせる。
白い息が口元から漏れた。
奈緒が桶から手を抜いた。
顔へ張りついていた髪を払い、自分の濡れた袖を見た。
「また、ここに来てたんですね」
昼間と変わらない声だった。
宮内も井戸の柱から身体を起こした。
袖を下ろし、濡れた髪を手で整える。
「冷えますよ」
周囲へ声をかけた。
「家へ戻りましょう」
村人たちは、眠りから起きたように周りを見た。
誰かが桶を伏せた。
別の者が滑車の縄を柱へ掛ける。
一人ずつ、自分の家へ戻り始めた。
悠介は桶の前に座っていた。
真由は立ち上がった。
「悠介」
悠介の頭が上がった。
すぐに真由を見た。
「真由」
いつもの声だった。
悠介は立ち上がった。
少しふらついたが、足は遅れずについてきた。
「どうしたの」
真由は答えられなかった。
「顔、真っ青だよ」
悠介が家へ向かって歩いてくる。
背筋は伸びていた。
目は真由を見ている。
胸がゆっくり上下し、口元から白い息が出ていた。
玄関へ入る。
真由は一歩下がった。
「熱は?」
「熱?」
「昨日、三十九度を超えてた」
悠介は額へ手を当てた。
「そうだったっけ」
「覚えてないの?」
「寒かったのは覚えてる」
首を回し、腕を動かす。
「もう下がったみたいだな」
真由は悠介の胸を見た。
今は動いている。
昨夜は、何度押しても動かなかった。
「どうして外にいたの」
「外?」
悠介は井戸を振り返った。
「俺、あそこにいたのか」
「覚えてないの?」
「喉が渇いてたから、出たのかな」
悠介は困ったように笑った。
「熱でぼんやりしてたんだろ」
台所へ向かう。
「何してるの」
「水」
「飲まないで」
真由の声が大きくなった。
悠介が振り返る。
「どうしたんだよ」
「それを飲まないで」
真由は持参したボトルを差し出した。
悠介は蓋を開け、一口含んだ。
すぐに眉を寄せる。
「やっぱり、まずい」
水を流しへ吐き出した。
真由が止める前に、蛇口をひねる。
コップへ水を注いだ。
「悠介」
一杯を飲み干す。
喉が何度も動いた。
悠介は息を吐き、目を細めた。
「うまい」
朝の光が、台所へ差し込んだ。
悠介は、もう一杯水を注いだ。




