第四話 一 生きている
悠介が二杯目の水を口へ運んだ。
「やめて」
真由は腕を掴んだ。
コップが傾き、水が流しへこぼれる。
「何するんだよ」
「もう飲まないで」
「喉が渇いてるんだ」
悠介は真由の手を外した。
指はすぐに動いた。力もある。
胸も、服の下でゆっくり上下している。
白い息が、朝の台所へ短く漏れた。
「昨夜、息が止まったんだよ」
悠介の動きが止まった。
「何?」
「脈もなかった。身体も冷たくなってた」
「真由」
「何度呼んでも動かなかった。胸も押した」
悠介はコップを流しへ置いた。
自分の胸へ手を当てる。次に、首筋へ指を置いた。
「今は動いてる」
「今はね」
「俺、死んでたってこと?」
「分からない」
真由は答えた。
「でも、止まってた」
悠介は首筋へ指を当てたまま、真由を見た。
「そのあと、外に出てきた。私の横を通って、井戸へ行った」
「覚えてない」
「みんなと一緒に水を飲んでた」
悠介は窓の外を見た。
井戸の屋根には朝の光が当たり、村人の姿はもうほとんどなかった。
「本当に何も覚えてないの?」
「寒かったのと、水が欲しかったのは覚えてる」
寝間着の袖を見下ろす。
胸元と裾には、乾ききっていない染みが残っていた。
「俺、これで外にいたんだよな」
「裸足で」
悠介は足元を見た。
踵と爪の間に、乾いた泥が残っている。
しばらく黙ったあと、流しへ手をついた。
「帰ろう」
真由は顔を上げた。
「今日、役場に連絡しよう。迎えを早めてもらう」
「信じるの?」
「分からないよ」
悠介は濡れた指を見た。
「昨夜、何が起きたのかは分からない。でも、真由が見たことまで、なかったとは言えない」
真由は何も言わなかった。
「分からないけど、ここにいたくないっていうのは分かった」
玄関の戸が叩かれた。
奈緒と宮内が立っていた。
「様子を見に来ました」
宮内は悠介を居間へ座らせた。
体温を測り、聴診器を胸と背中へ当てる。手首へ指を置き、時計を見た。
「熱は下がっています。脈も少し遅いですが、乱れてはいません」
「昨夜は止まっていました」
真由が言った。
宮内の手が悠介の手首から離れた。
「呼吸もありませんでした。胸を押しても、何度呼んでも動かなかったんです」
「私が診たときには、呼吸も脈もありました」
「そのあとです」
「何時ごろですか」
「四時くらいです」
宮内は悠介の瞼を見た。
「井戸まで歩いたことも覚えていないそうです」
「発熱中の記憶が抜けることはあります」
「死んでいても?」
宮内はすぐには答えなかった。
「今の杉本さんには、呼吸も脈もあります」
「昨夜のことを聞いてるんです」
「私には、昨夜の杉本さんを確認できていません」
宮内は聴診器を鞄へ戻した。
「真由さんが見たことを否定するつもりはありません。ただ、今の状態から、亡くなっていたとは判断できません」
「先生も井戸にいました」
宮内の手が止まった。
「腕に傷があって、そこへ水をかけていました」
宮内は自分の袖へ目を落とした。
布の上から肘の内側へ触れる。
「覚えていないんですか」
「夜中に外へ出たことは、断片的にしか」
「奈緒さんもですか」
奈緒は膝の上で両手を重ねた。
「正吉さんを連れて帰ったことは覚えています。井戸にいたことは、よく分かりません」
「朝になるまで、みんなあそこにいました」
奈緒は何も言わなかった。
真由は悠介を見た。
朝の光の中では、昨日までと同じ顔をしている。
「町へ戻ったら、病院で診てもらってください」
宮内が言った。
「昨夜のことも、そのまま話したほうがいいでしょう」
「先生は、おかしいと思わないんですか」
「分からないことはあります」
宮内は真由を見た。
「だから、外で診てもらったほうがいいと思います」
嘘をついているようには見えなかった。
奈緒も、悠介も、今ここにある朝の身体を見ていた。
玄関の外で、砂利を踏む音がした。
正吉が戸口から中をのぞいた。
右手には包帯が巻かれている。
「正吉さん」
奈緒が立ち上がった。
「先生に診てもらったばかりでしょう」
正吉は奈緒を見ず、悠介へ顔を向けた。
「起きたか」
悠介が眉を寄せる。
「何がですか」
「おまえも」
正吉は口を動かした。
「起きた」
奈緒が正吉の腕を取った。
「朝ご飯にしましょう」
「正吉さん」
真由は玄関へ近づいた。
「昨日、悠介がどうなったか知ってるんですか」
正吉は真由を見た。
何かを言おうとして、口を閉じた。
「水を飲んだ」
奈緒に腕を引かれ、玄関を下りる。
「それで、起きた」
正吉と奈緒は道を歩いていった。
悠介が立ち上がった。
「電話しに行こう」
真由は頷いた。




