第四話 二 迎え
集会所の戸は開いていた。
昨夜、いくら引いても動かなかった戸だった。
中では老女が机を拭いている。
「電話を借りてもいいですか」
悠介が尋ねた。
「役場かね」
「はい」
固定電話は窓際の机に置かれていた。
悠介が受話器を上げる。
発信音が聞こえた。
真由は隣で、役場から渡された紙を開いた。
番号を押すと、数回の呼び出し音のあとで職員が出た。
『杉本さんですか。何かありましたか』
「予定を早めて、帰りたいんです」
悠介が言った。
『体調が悪いんですか』
「昨日、熱を出しました。今は下がっていますけど、病院で診てもらいたくて」
悠介は真由を見た。
「妻も、滞在を続けるのは難しいと言っています」
受話器の向こうで、紙を動かす音がした。
『分かりました。体験はここで終わりにしましょう』
職員はすぐに答えた。
『申し訳ないんですが、今日はこちらの車が町外へ出ています。今から戻しても、そちらへ着くころには暗くなります』
「明日ですか」
『朝一番で迎えに行きます。七時半ごろには着けると思います』
真由は窓の外を見た。
日が出たばかりだった。
もう一度、夜を越えなければならない。
『急ぐ事情があるなら、村の方に町まで送ってもらうよう頼むこともできます』
真由は井戸のほうを見た。
水路で作業を始めた村人たちがいる。
昨日、一緒に水路へ入った岩田の姿もあった。
昨夜は井戸のそばへ座り込み、肩の傷へ何度も水をかけていた。
今は上着を着て、ほかの者と話しながら流木を運んでいる。
「役場の方に来てほしいです」
真由が言った。
悠介が受話器を少し離し、真由を見る。
「明日の朝で大丈夫です」
真由は続けた。
村人の車へ乗り、長い山道を下りることは考えられなかった。
職員は、明朝の天候を確認してから出発すると言った。
『体調が変わったら、宮内先生に相談してください。必要なら救急へ連絡してもらいます』
「分かりました」
『こちらからも、夕方にもう一度電話します』
悠介は礼を言い、受話器を置いた。
「本当によかったの?」
「何が?」
「村の人に送ってもらえば、今日帰れた」
「誰の車に乗るの」
「岩田さんとか」
昨日、一緒に水路へ入った男の顔が浮かんだ。
「明日でいい」
真由は紙を畳んだ。
「一晩だけだから」
空き家へ戻り、荷物をまとめ始めた。
洗面道具、充電器、残った食料。初日に持ち込んだものを、鞄へ戻していく。
悠介は濡れた寝間着を脱ぎ、袋へ入れた。
布地から、井戸の水と汗の臭いがした。
「これは捨てようか」
「持って帰って。病院で何か調べてもらえるかもしれない」
「服まで調べるかな」
「分からないけど」
悠介は袋の口を閉じた。
真由は、昨夜使ったタオルを持ち上げた。
悠介の汗や唾液、井戸水が染み込んでいる。
端をつまんだだけなのに、冷たい水が手首へ伝った。
真由は慌てて洗面所へ行った。
蛇口をひねり、手を洗う。
何度も石鹸をつけた。
「そんなに洗ったら荒れるよ」
悠介が後ろから言った。
「昨日、ずっと触ってた」
「何を?」
「あなたの身体も、布団も」
真由は手の甲を擦った。
「口から息も入れた」
水が指の間を流れる。
「それでも、今まで何ともなかっただろ」
「まだ分からない」
蛇口を閉める。
真由はタオルへ手を伸ばさず、服の裾で水を拭いた。
「帰ったら、二人とも検査しよう」
悠介が言った。
「何も見つからなくても?」
「それでも行こう」
悠介は真由の肩へ手を置こうとした。
真由の身体が先に強張った。
伸びてきた手が止まる。
「ごめん」
真由が言った。
「触らないほうがいい?」
「分からない」
悠介は手を下ろした。
「分からないなら、今は触らないでおく」
責める様子はなかった。
真由は台所へ戻った。
鞄へ入れるために、持参した水を箱から出す。
一本持ち上げたとき、身体の奥を冷たいものが通った。
真由は腕を止めた。
「どうした?」
「何でもない」
ボトルを鞄へ入れる。
もう一本持ち上げた。
今度は肩から背中まで震えた。
ボトル同士がぶつかり、小さな音を立てる。
「寒い?」
悠介が聞いた。
「少し」
「今日は暖かいよ」
窓から日が差している。
真由は両腕を擦った。
「寝てないからだと思う」
「少し休もう」
「荷物を先に終わらせる」
鞄のファスナーを閉じようとした。
指に力が入らない。
金具を何度つまんでも滑った。
悠介がそばへ来た。
「真由」
「大丈夫」
立ち上がると、畳が傾いた。
悠介の腕を避ける余裕もなく、肩へつかまった。
その手は温かかった。




