↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/41

第十話 三 火

 どれほど経ったのか分からなかった。


 道の方から、複数の足音が聞こえた。


 何人かが行き来している。


 乾いた枝を引きずる音がした。


 地面へ置かれる。


 足音が離れ、しばらくして戻ってくる。


 何か重いものを置く音。


 小さな金属音。


 声はほとんど聞こえなかった。


 誰かが指示を出している様子もない。


 枝が、小屋の周りへ積まれていった。


 壊れた壁の前。


 残った戸の下。


 屋根が落ちた側にも、枝が重ねられる。


 立ち上がろうとした。


 腕が動かない。


 脚に力を入れてから、身体が反応するまで時間がかかった。


 ようやく立った。


 灯りが向けられた。


 道の上に、村の男たちが並んでいた。


 皆、口元を布で覆い、長い柄の鍬や棒を持っている。


 岩田さんのそばには、灯油の缶が置かれていた。


 何をするのか聞こうとした。


 口だけが動いた。


 岩田さんが缶を持ち上げた。


 枝へ液体をかける音がした。


 斉藤さんが顔を背けた。


 ほかの者は、誰もこちらを見なかった。


 俺は一歩進んだ。


 棒の先が、一斉に上がった。


 止まった。


 岩田さんが缶を地面へ置いた。


 灯りの向こうで、目が合った。


「すまん」


 岩田さんが目を逸らした。


 誰かが枝の束へ火を近づけた。


 最初は、細い煙だけが上がった。


 濡れた枝が鳴り、白い煙が地面を這う。


 別の場所にも火がつけられた。


 灯油をかけられた枯れ草が、低い音を立てて燃え上がる。


 炎が枝へ移った。


 身体の奥で、濡れたものが身をよじった。


 指先が動いた。


 もう一度、手を動かす。


 指が曲がった。


 腕を持ち上げた。


 今度は、途中で止まらなかった。


 足へ力を入れる。


 膝が曲がった。


 喉へ力を入れた。


「待ってください」


 声が出た。


 掠れてはいたが、言葉になった。


 岩田さんが顔を上げた。


「朝になれば、戻ります。昨夜もそうだったでしょう」


 誰も動かなかった。


「先生に聞いてください」


「先生は起きん」


 誰かが言った。


 炎が戸の下へ回った。


 黒くなった木は、火に触れるとすぐに崩れた。


 床へ手をついた。


 片膝を立てる。


 もう片方の脚を引き寄せ、ゆっくりと立ち上がった。


「俺を焼いても、熱は止まりません」


 棒の先が、一斉に上がった。


 誰も答えなかった。


 火が寝間着の裾へ触れた。


 反射的に足を引いた。


 布へ火が移った。


 手で叩いた。


 炎は消えなかった。


 袖口にも火がついた。


 外へ出なければならない。


 崩れた壁の間へ向かった。


 男たちが道を塞いだ。


「どいてください」


 棒の先が胸へ当たった。


 押し返される。


 足元の床が割れ、身体が傾いた。


 残っていた柱につかまる。


 柱は手の中で崩れた。


 屋根の端が落ちた。


 背中へ何かが当たり、前へ倒れた。


 肩から地面へ落ちる。


 顔の横で、燃えた木が跳ねた。


 起き上がった。


 腕の袖が燃えている。


 手の甲まで炎が広がっていた。


 叩いて消そうとした。


 火は皮膚へ移っていた。


 それでも、熱くなかった。


 手を止めた。


 炎が指の間を通っている。


 皮膚が黒く縮み、爪の脇が裂けた。


 痛みはなかった。


 煙が顔を覆った。


 息を止めた。


 目の前が白くなり、男たちの姿が見えなくなる。


 いつまで待っても、苦しくならなかった。


 煙の中を進んだ。


 咳も出ない。


 胸へ手を当てた。


 動いていなかった。


 息を吸おうとした。


 空気は入らない。


 それでも、何も起こらなかった。


 炎の向こうから、棒が伸びてきた。


 脇腹を突かれた。


 先の割れた木が、服と皮膚を裂いた。


 血は出なかった。


 傷口の中には、黒く濡れたものが重なっていた。


 奈緒の顔が浮かんだ。


 暗い寝室。


 胸へ置かれた手。


 ――息、してる?


 そのあと、廊下で俺を見た顔。


 後ろへ下がり、来ないで、と繰り返した。


 奈緒は、俺が何になったのか分かっていた。


 山の小屋。


 突然途切れた苦しさ。


 朝まで動かなかった手足。


 治ったのではなかった。


 あの夜に、死んでいた。


 燃えた梁が落ちた。


 肩から背中へ当たり、身体が地面へ倒れた。


 炎が全身を包んだ。


 立ち上がろうと、腕で地面を押した。


 皮膚が剥がれ、手の形が崩れた。


 それでも、身体はゆっくり持ち上がった。


 男たちが後ろへ下がった。


 燃えた皮膚の裂け目から、透明なものが垂れた。


 水ではなかった。


 細長いものが一本、黒く濡れた傷口から覗いていた。


 炎が揺れるたび、輪郭が見えた。


 その横から、もう一本が押し出される。


 腕を振った。


 透明なものが手の甲へ落ちた。


 口の奥でも何かが動いた。


 濡れた糸のような先端が、唇から垂れる。


 腕の皮膚が小さく波打った。


 手首から肩へ、いくつもの筋が走る。


 脇腹の傷の奥でも、黒く濡れたものが盛り上がっていた。


 頭の中で聞こえていた羽音が、大きくなる。


 正吉さんと沼へ入った夜から、ずっと聞こえていた音だった。


 炎が肩まで上がった。


 服が焼け落ちる。


 その下で、皮膚があちこち膨らんでいた。


 腕の裂け目から、細長いものが次々に押し出される。


 透明なぬめりの中で、何本もの身体が絡まっていた。


 胸が大きく膨らんだ。


 一度持ち上がり、そのまま縮まなかった。


 身体の奥で、濡れたものが一斉に動いた。


 胸の皮膚が裂ける。


 黒く濡れた内側から、透明な塊が溢れ出した。


 無数の細い虫が、乳白色のぬめりに絡まっている。


 束になって胸を伝い、腹へ垂れた。


 同時に、口からも溢れた。


 濡れた髪を吐き出すように、喉の奥から虫の束がこぼれ落ちる。


 顔や服の隙間からも、透明なものが押し出された。


「出たぞ」


 誰かが叫んだ。


「祟りが出とる」


 男たちが後ろへ下がった。


 胸から垂れた塊が、自らの重みでちぎれた。


 地面へ落ちる。


 透明な液が、湿った土へ広がった。


 その下から、土の色が黒く変わっていく。


 染みは身体の周囲へ広がり、炎の届いていない草まで根元から萎れた。


 葉が伏せ、茎が黒く縮む。


 積まれた枝にも黒い筋が入り、表面が湿って崩れ始めた。


「灯油をかけろ」


 地面へ油がまかれた。


 炎が黒い染みの上を走る。


 身体からは、まだ虫が溢れていた。


 腕を上げようとした。


 さっきまでは動いた腕が、途中で止まった。


 指を曲げようとする。


 一本だけが震えた。


 胸の膨らみが潰れた。


 腹も落ちた。


 膝が折れた。


 地面へ手をついた。


 焼けた掌の下からも、透明なものが這い出した。


 村へ続く道を見た。


 男たちの向こうに、家々の屋根が並んでいる。


 奈緒のいる家も、その中にあった。


「奈緒」


 声が出たのかは分からなかった。


 足を前へ出した。


 一歩だけ進んだ。


 男たちが棒を構えた。


 もう一方の足は動かなかった。


 身体が傾いた。


 胸から垂れていた塊がちぎれ、黒くなった土へ落ちた。


 膝をついた。


 続いて、腕から力が抜けた。


 頬が地面へ落ちた。


 炎はまだ揺れていた。


 奈緒の声を思い出した。


 雨のやんだ朝。


 玄関の前で、懐中電灯と水を渡された。


「見つからなくても戻ってきてね」


 呼ぼうとした。


 口は動かなかった。


 水の音がした。


 家の裏の水路か、山の沼かは分からなかった。


 炎が揺れた。


 それも、見えなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。