第十話 三 火
どれほど経ったのか分からなかった。
道の方から、複数の足音が聞こえた。
何人かが行き来している。
乾いた枝を引きずる音がした。
地面へ置かれる。
足音が離れ、しばらくして戻ってくる。
何か重いものを置く音。
小さな金属音。
声はほとんど聞こえなかった。
誰かが指示を出している様子もない。
枝が、小屋の周りへ積まれていった。
壊れた壁の前。
残った戸の下。
屋根が落ちた側にも、枝が重ねられる。
立ち上がろうとした。
腕が動かない。
脚に力を入れてから、身体が反応するまで時間がかかった。
ようやく立った。
灯りが向けられた。
道の上に、村の男たちが並んでいた。
皆、口元を布で覆い、長い柄の鍬や棒を持っている。
岩田さんのそばには、灯油の缶が置かれていた。
何をするのか聞こうとした。
口だけが動いた。
岩田さんが缶を持ち上げた。
枝へ液体をかける音がした。
斉藤さんが顔を背けた。
ほかの者は、誰もこちらを見なかった。
俺は一歩進んだ。
棒の先が、一斉に上がった。
止まった。
岩田さんが缶を地面へ置いた。
灯りの向こうで、目が合った。
「すまん」
岩田さんが目を逸らした。
誰かが枝の束へ火を近づけた。
最初は、細い煙だけが上がった。
濡れた枝が鳴り、白い煙が地面を這う。
別の場所にも火がつけられた。
灯油をかけられた枯れ草が、低い音を立てて燃え上がる。
炎が枝へ移った。
身体の奥で、濡れたものが身をよじった。
指先が動いた。
もう一度、手を動かす。
指が曲がった。
腕を持ち上げた。
今度は、途中で止まらなかった。
足へ力を入れる。
膝が曲がった。
喉へ力を入れた。
「待ってください」
声が出た。
掠れてはいたが、言葉になった。
岩田さんが顔を上げた。
「朝になれば、戻ります。昨夜もそうだったでしょう」
誰も動かなかった。
「先生に聞いてください」
「先生は起きん」
誰かが言った。
炎が戸の下へ回った。
黒くなった木は、火に触れるとすぐに崩れた。
床へ手をついた。
片膝を立てる。
もう片方の脚を引き寄せ、ゆっくりと立ち上がった。
「俺を焼いても、熱は止まりません」
棒の先が、一斉に上がった。
誰も答えなかった。
火が寝間着の裾へ触れた。
反射的に足を引いた。
布へ火が移った。
手で叩いた。
炎は消えなかった。
袖口にも火がついた。
外へ出なければならない。
崩れた壁の間へ向かった。
男たちが道を塞いだ。
「どいてください」
棒の先が胸へ当たった。
押し返される。
足元の床が割れ、身体が傾いた。
残っていた柱につかまる。
柱は手の中で崩れた。
屋根の端が落ちた。
背中へ何かが当たり、前へ倒れた。
肩から地面へ落ちる。
顔の横で、燃えた木が跳ねた。
起き上がった。
腕の袖が燃えている。
手の甲まで炎が広がっていた。
叩いて消そうとした。
火は皮膚へ移っていた。
それでも、熱くなかった。
手を止めた。
炎が指の間を通っている。
皮膚が黒く縮み、爪の脇が裂けた。
痛みはなかった。
煙が顔を覆った。
息を止めた。
目の前が白くなり、男たちの姿が見えなくなる。
いつまで待っても、苦しくならなかった。
煙の中を進んだ。
咳も出ない。
胸へ手を当てた。
動いていなかった。
息を吸おうとした。
空気は入らない。
それでも、何も起こらなかった。
炎の向こうから、棒が伸びてきた。
脇腹を突かれた。
先の割れた木が、服と皮膚を裂いた。
血は出なかった。
傷口の中には、黒く濡れたものが重なっていた。
奈緒の顔が浮かんだ。
暗い寝室。
胸へ置かれた手。
――息、してる?
そのあと、廊下で俺を見た顔。
後ろへ下がり、来ないで、と繰り返した。
奈緒は、俺が何になったのか分かっていた。
山の小屋。
突然途切れた苦しさ。
朝まで動かなかった手足。
治ったのではなかった。
あの夜に、死んでいた。
燃えた梁が落ちた。
肩から背中へ当たり、身体が地面へ倒れた。
炎が全身を包んだ。
立ち上がろうと、腕で地面を押した。
皮膚が剥がれ、手の形が崩れた。
それでも、身体はゆっくり持ち上がった。
男たちが後ろへ下がった。
燃えた皮膚の裂け目から、透明なものが垂れた。
水ではなかった。
細長いものが一本、黒く濡れた傷口から覗いていた。
炎が揺れるたび、輪郭が見えた。
その横から、もう一本が押し出される。
腕を振った。
透明なものが手の甲へ落ちた。
口の奥でも何かが動いた。
濡れた糸のような先端が、唇から垂れる。
腕の皮膚が小さく波打った。
手首から肩へ、いくつもの筋が走る。
脇腹の傷の奥でも、黒く濡れたものが盛り上がっていた。
頭の中で聞こえていた羽音が、大きくなる。
正吉さんと沼へ入った夜から、ずっと聞こえていた音だった。
炎が肩まで上がった。
服が焼け落ちる。
その下で、皮膚があちこち膨らんでいた。
腕の裂け目から、細長いものが次々に押し出される。
透明なぬめりの中で、何本もの身体が絡まっていた。
胸が大きく膨らんだ。
一度持ち上がり、そのまま縮まなかった。
身体の奥で、濡れたものが一斉に動いた。
胸の皮膚が裂ける。
黒く濡れた内側から、透明な塊が溢れ出した。
無数の細い虫が、乳白色のぬめりに絡まっている。
束になって胸を伝い、腹へ垂れた。
同時に、口からも溢れた。
濡れた髪を吐き出すように、喉の奥から虫の束がこぼれ落ちる。
顔や服の隙間からも、透明なものが押し出された。
「出たぞ」
誰かが叫んだ。
「祟りが出とる」
男たちが後ろへ下がった。
胸から垂れた塊が、自らの重みでちぎれた。
地面へ落ちる。
透明な液が、湿った土へ広がった。
その下から、土の色が黒く変わっていく。
染みは身体の周囲へ広がり、炎の届いていない草まで根元から萎れた。
葉が伏せ、茎が黒く縮む。
積まれた枝にも黒い筋が入り、表面が湿って崩れ始めた。
「灯油をかけろ」
地面へ油がまかれた。
炎が黒い染みの上を走る。
身体からは、まだ虫が溢れていた。
腕を上げようとした。
さっきまでは動いた腕が、途中で止まった。
指を曲げようとする。
一本だけが震えた。
胸の膨らみが潰れた。
腹も落ちた。
膝が折れた。
地面へ手をついた。
焼けた掌の下からも、透明なものが這い出した。
村へ続く道を見た。
男たちの向こうに、家々の屋根が並んでいる。
奈緒のいる家も、その中にあった。
「奈緒」
声が出たのかは分からなかった。
足を前へ出した。
一歩だけ進んだ。
男たちが棒を構えた。
もう一方の足は動かなかった。
身体が傾いた。
胸から垂れていた塊がちぎれ、黒くなった土へ落ちた。
膝をついた。
続いて、腕から力が抜けた。
頬が地面へ落ちた。
炎はまだ揺れていた。
奈緒の声を思い出した。
雨のやんだ朝。
玄関の前で、懐中電灯と水を渡された。
「見つからなくても戻ってきてね」
呼ぼうとした。
口は動かなかった。
水の音がした。
家の裏の水路か、山の沼かは分からなかった。
炎が揺れた。
それも、見えなくなった。




