第十話 二 二晩目
日が落ちた。
壁の隙間から入る光がなくなる。
道の上にいる見張りの灯りが、壊れた壁からわずかに差していた。
指先が濡れていた。
水をこぼした覚えはなかった。
袖で拭う。
少し粘りがあった。
爪の隙間から、透明な液が滲んでいる。
指を曲げた。
動かなかった。
力を入れ直す。
人差し指が曲がり、そのあとに中指と薬指が動いた。
手を膝へ置いた。
身体の重さが、腰から上へ広がっていた。
横になった。
胸へ手を当てる。
動いているのか分からなかった。
息を吸おうとした。
空気は入らなかった。
それでも苦しくはない。
昨夜と同じだった。
朝になれば戻る。
そう思い、目を閉じた。
小屋の外で、砂利を踏む音がした。
「起きとるか」
遠くから岩田さんが呼んだ。
返事をしようとした。
口が開かなかった。
「おい」
声は、さっきより近かった。
目を開ける。
身体を起こそうとした。
肘が床へついた。
腕に力が入るまで、少し時間がかかった。
ようやく上半身を起こす。
壊れた壁の向こうで、見張りの灯りが揺れていた。
「聞こえとるなら、何か鳴らせ」
手を伸ばした。
指先が瓶に触れた。
持ち上げようとしたが、つかめない。
手の甲で押した。
瓶が床を転がった。
もう一度押そうと、身体を前へ出した。
床が抜けた。
右脚が膝まで落ちた。
身体が傾き、肩が壁へぶつかった。
板が裂けた。
壁の一部が外へ倒れた。
冷たい空気が入ってきた。
外から灯りが向けられた。
「出るな」
斉藤さんの声だった。
岩田さんと二人、道の上に立っている。
手には長い棒を持っていた。
「床が」
言おうとした。
唇だけが動いた。
喉から、濡れた音が出た。
脚を穴から抜いた。
立ち上がろうと、残った壁へ手をつく。
触れた場所が崩れた。
もう一枚、板が外へ倒れる。
身体が前へ出た。
「来るな」
斉藤さんが棒を構えた。
止まろうとした。
右脚が先に出た。
遅れて左脚がついてくる。
口の端から液が落ちた。
顎を伝い、寝間着の胸を濡らした。
岩田さんの持つ灯りが、顔から肩へ下がった。
肩の服が裂けていた。
布の下で皮膚が開いている。
血は流れていなかった。
透明な液だけが、傷の縁から垂れていた。
「岩田さん」
掠れた音が出た。
岩田さんが後ろへ下がった。
「そこで止まれ」
棒の先が、こちらへ向いた。
足を止めようとした。
身体が一歩進んだ。
斉藤さんが棒を突き出した。
先が胸へ当たる。
押し返された。
痛みはなかった。
足元の板が崩れ、膝をついた。
小屋の屋根が低く鳴った。
梁の端が外れ、後ろへ落ちた。
残っていた壁が傾く。
二人が道の方へ走った。
俺は膝をついたまま、崩れていく小屋を見た。
「出ません」
口を動かした。
音は出なかった。
その場に座った。
朝まで、ここにいればいい。
灯りが遠ざかった。
暗闇の中に、壊れた小屋と俺だけが残った。




