第一話 四 井戸の音
空き家へ戻ると、役場の職員が連絡先を書いた紙を机へ置いていた。
「集会所の固定電話は使えます。携帯も、この家なら窓際で入ります」
悠介が自分の携帯電話を確かめた。
画面には二本、アンテナが立っている。
「予定どおり、一週間後ですか」
「昼前に迎えに来ます。天候によって時間を変える場合は、前日までに連絡します」
職員は玄関へ向かったあと、振り返った。
「今から戻りたいということでも構いませんよ」
真由は悠介を見た。
悠介もこちらを見て、小さく頷いた。
「いえ。予定どおり、一週間お願いします」
「分かりました」
職員は車へ乗った。
公用車が道を下っていく。
水路をさらっていた男が一度だけ顔を上げ、また熊手を動かした。
車が木々の向こうへ消えると、悠介は家の前に立ち、屋根を見上げた。
「明日は畑をもう少し見たいな」
「雨がひどくなければね」
「奈緒さんに聞いてみる」
二人は荷物を居間へ運んだ。
箱の水を台所へ置き、着替えを隣の部屋へ移す。
悠介は役場から渡された資料を机へ広げ、家の改修費や農地の貸し借りについて読み始めた。
夕方、奈緒が食事を運んできた。
大きな鍋と重箱を持ち、後ろには昼間の老女がいた。
「多すぎないようにって、奈緒さんに減らされたんよ」
老女が言った。
「それでも十分あります」
炊き込みご飯、煮物、漬物、焼いた川魚。汁物は小さな鍋に入っていた。
「残しても気にしないでください」
奈緒は台所へ並べながら言った。
「明日の朝も食べられますから」
「奈緒さんも一緒にどうですか」
悠介が尋ねた。
「家に用意してあります」
奈緒は首を振った。
「亡くなったご主人も、農業をしていたんですか」
真由が聞いた。
「はい」
奈緒は空になった盆を持った。
「自分の畑だけじゃなくて、村の人の修理や買い物もしていました」
「この家も?」
「ここも、前から直す話をしていました」
奈緒は居間を見回した。
「縁側を替えれば、もっと使いやすくなるって、夫が言っています」
奈緒は盆を持ち直した。
「言っていました」
真由も居間を見回した。
「いい家ですね」
「古いですけどね」
奈緒は小さく笑った。
老女が玄関から奈緒を呼んだ。
奈緒は二人へ頭を下げた。
「夜でも、何かあったら呼んでください。診療所も、うちもすぐそこです」
「ありがとうございます」
二人が帰ったあと、悠介と食事をした。
料理は普通においしかった。
真由は汁物を少し飲んだあと、持参した水へ手を伸ばした。
悠介は汁まで飲み切った。
「これなら、食べ物には困らなさそうだな」
「毎日持ってきてもらうわけにはいかないよ」
「分かってる。明日からは自分たちで作ろう」
「何を持ってきたか、覚えてる?」
「麺と缶詰」
「それを作るとは言わない」
悠介は炊き込みご飯をもう一杯よそった。
食事のあと、真由は持参した水で歯を磨いた。
手は蛇口の水で洗った。
夜になるにつれ、雨が少し強くなった。
古い家は風が吹くたびに鳴ったが、雨漏りはしなかった。新しく入れられた床板も、昼と同じ乾いた音を返した。
悠介は布団へ入ってからも、役場の資料を見ていた。
「改修の補助、思ってたより大きいな」
「まだ住むって決めてないよ」
「見てるだけだよ」
悠介は資料を閉じた。
「一週間あれば、朝と夜の感じも分かるだろ」
「明日は雨かもしれないけど」
「雨の日も住むことになるんだろ」
昼間に真由が言った言葉を、そのまま返した。
真由は布団を顎まで引き上げた。
悠介が照明を消した。
障子の向こうで雨が降っている。
風が吹くたび、廊下や柱が小さく鳴った。
隣では、悠介が規則正しく息をしていた。
真由は古い家の音に慣れず、しばらく目を開けていた。
雨脚が弱まるにつれ、家の裏を流れる水路の音が近くなった。
ようやく目を閉じかけたころ、硬い音がした。
木と金属の擦れる、長く低い音だった。
少しして、何かが水へ落ちた。
真由は目を開けた。
携帯電話の画面を見る。
午前一時を過ぎていた。
もう一度、木と金属の擦れる音がした。
井戸の滑車だと分かった。
真由は布団から身体を起こした。
悠介は眠っている。
廊下へ出て、窓へ近づいた。
家々の間に、井戸の屋根が見えた。
外灯は少ない。雲の切れ間から届く薄い光で、屋根と柱の形だけが浮かんでいる。
その下に、人影が二つあった。
一人は井戸の縁へ身体を預けている。
もう一人は、その肩へ手を回していた。
顔は見えない。
支えている人影が、片手で桶を傾けた。
水を飲ませているように見えた。
飲んでいる人影の頭がゆっくり持ち上がり、また下がった。
二人は何も話さなかった。
長い時間をかけて、位置を入れ替えた。
先ほど水を飲んでいた者が、今度はもう一人の腕を支える。
人影の一つが顔を上げた。
真由のいる窓へ向いたように見えた。
真由は動かなかった。
人影もしばらく動かなかった。
やがて隣の者へ向き直り、その肩へ腕を回した。
家々の間で戸が開いた。
濡れた道を歩く音がする。
一歩ごとの間が長い。
足音は井戸へ向かい、屋根の下の影が三つになった。
真由は窓から離れた。
布団へ戻ると、悠介は同じ姿勢で眠っていた。
声をかけようか迷い、やめた。
具合の悪い人がいるのかもしれない。
奈緒も、直接水を汲む人がいると言っていた。
真由は布団へ入り、目を閉じた。
滑車が鳴った。
縄が擦れ、桶が水へ落ちる。
音が止むまで待った。
やがて、井戸の周りが静かになった。
眠りかけたころ、別の家で戸が開いた。
また、濡れた足音が井戸へ向かった。




