第一話 三 一晩寝れば
家を見終えたあと、三人で村を歩いた。
雨はほとんど止んでいた。
道の脇を流れる水路には澄んだ水が走り、落ち葉や細い枝が引っかかっている。村人が長い熊手でそれを引き上げ、脇へ積んでいた。
「おう、来たか」
男が奈緒へ声をかけた。
「今日から一週間です」
「こんな雨のときに来んでもええのにな」
男は真由と悠介を見て笑った。
「晴れたら、もう少しましなところに見えるぞ」
「雨の日も住むことになるので」
真由が答えると、男は何度も頷いた。
「そりゃそうじゃ」
男は熊手を水路へ戻し、引っかかっていた枝を引き上げた。
別の家の前では、老女が豆の鞘を籠へ分けていた。真由たちを見ると手を止め、今夜のおかずを少し持っていくと言った。
「食べきれないほどは困ります」
奈緒が言う。
「若い二人なら食べる」
「一週間いますから、明日でも大丈夫です」
奈緒は老女と相談し、量を半分にしてもらっていた。
道沿いの家には、それぞれ直した跡があった。
新しい雨樋。色の違う板。積み替えられた薪。畑の畦には、流された土を戻した跡が残っている。
「写真で見るより、ずっと手が入ってるな」
悠介が小声で言った。
「去年から直してきたんだろうね」
道の下に段々畑が広がっていた。
半分ほどは草地になっていたが、残りには大根や白菜が植えられている。
「この辺りも借りられますか」
悠介が聞いた。
「持ち主の方と相談になります。自分で作れなくなっても、荒れるのは嫌だという人が多いので」
「農機具は?」
「共同のものがあります。古いですけど、耕運機と草刈り機は動きます」
悠介は畑の広さを見渡した。
「このくらいなら、二人でもできるかな」
「最初から全部は無理じゃない?」
「借りるとしても一部だよ」
「使っていないところから、少しずつ始める人が多いです」
奈緒が言った。
「草を刈るだけでも助かるって、皆さん言いますから」
道を曲がった先に、平屋の建物があった。
壁は塗り直され、玄関脇に小さな診療所の札が掛かっている。窓の内側には白いカーテンが引かれ、軒下には医師のものらしい車が止まっていた。
「前は閉まっていた診療所です」
奈緒が言った。
「先生が、去年から使っています」
玄関が開き、五十代ほどの男が出てきた。
白衣ではなく、灰色のシャツの上へ濃い色の上着を着ている。手には往診用らしい鞄を持っていた。
「杉本さんご夫妻ですね」
医師は階段を下り、二人へ頭を下げた。
「村で診療をしている宮内です。滞在中、体調に変化があれば来てください」
「住んでいらっしゃるんですか」
「診療所の奥を使っています」
医師は建物を振り返った。
「昔の設備なので、できることは限られます。重い病気や怪我なら、町へ運ばないといけません」
「一夜熱について、聞いてもいいですか」
真由が尋ねた。
「もちろんです」
医師は軒下へ二人を招いた。
奈緒も横へ立った。
「去年の大雨のあと、急に高い熱を出す人が続きました。寒気や身体の痛みがあって、ひどく喉が渇く人もいました」
「一晩寝れば治るんですよね」
悠介が聞いた。
「朝には熱が下がる人が多かったです。長い人は、何日か眠ったままでしたが」
「原因は分かったんですか」
「分かっていません。山の水や泥、虫も調べてもらいましたが、これだというものは出ませんでした。井戸も同じです」
「先生も、かかったんですか」
「ええ。私も何日か寝込みました」
「それから新しい患者は?」
「一年、出ていません。役場や工事の人も何度も来ています」
医師は真由と悠介を交互に見た。
「水が気になるなら、持ってきたものを使ってください」
「先生は飲んでいるんですよね」
「私は飲んでいます」
「身体にいいんですか」
「一夜熱のあと、飲むと楽になると言う人はいます。私もそう感じますが、理由は分かりません」
「先生なら、この村へ移住しますか」
真由が聞いた。
奈緒がわずかに顔を向けた。
「一週間過ごすことと、住むと決めることは別です」
医師は雨の残る空を見た。
「私なら、今回の雨が落ち着いてから決めます。急ぐ必要はないでしょう」
そのとき、背後から足音がした。
振り返ると、老人が一人、道を歩いてきた。
背中は曲がっているが、足取りは確かだった。濡れた作業着を着て、傘は差していない。
「正吉さん」
奈緒が呼んだ。
老人は奈緒を見ず、真由の前で止まった。
顔から首、手元へ、ゆっくり視線を下ろす。
「正吉さん、こちらは今日から泊まる杉本さんです」
奈緒が言った。
正吉は聞いていないようだった。
真由の手へ、自分の手を近づけた。
触れはしなかった。
雨に濡れた指先が、手の甲の少し上で止まる。
「まだ温かい」
正吉が言った。
「正吉さん」
奈緒がもう一度呼んだ。
正吉は次に悠介を見た。
「飲んだか」
「井戸水なら、少し」
悠介が答えた。
正吉の眉が寄った。
「水は飲むな」
奈緒が正吉の腕へ手を添えた。
「今日はもう帰りましょう」
正吉は井戸のある方角を見た。
「あれは、わしの畑じゃ」
「畑には行きませんよ」
「取らせんぞ」
「誰も取りません」
奈緒は正吉の腕を取り、道の先へ歩き始めた。
正吉は一度だけ振り返った。
真由ではなく、悠介を見ていた。
そのまま奈緒に連れられ、家々の間へ消えた。
「いつも、あんな感じなんですか」
真由が聞いた。
「以前から認知症がありました」
医師が答えた。
「去年の熱のあと、畑と井戸と山を混同することが増えたんです」
「水を飲むな、というのも?」
「何度か言っています」
「どうしてですか」
「本人に聞いても、話が続かないんです」
医師は時計を見た。
「往診がありますので、私はこれで。何かあれば来てください」
医師は鞄を持ち直し、道を下っていった。
真由は、奈緒と正吉の消えた道を見た。
水路を流れる音が、家々の間で続いていた。




