第一話 二 空き家
悠介が先に車を降りた。
真由も鞄を持って外へ出た。
雨は細かかった。傘を開くほどではないと思ったが、女性は真由のそばまで歩いてくると、自分の傘を少し傾けた。
「坂井奈緒です」
女性は頭を下げた。
「一週間、よろしくお願いします」
「杉本真由です。こちらが夫の悠介です」
「よろしくお願いします」
奈緒は三十歳前後に見えた。
黒い髪を後ろで一つに束ね、薄い上着の袖を肘までまくっている。真由と目が合うと、穏やかに笑った。
「中を見てください。気になるところがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
職員と悠介が荷物を下ろすあいだに、奈緒が玄関を開けた。
家は古かった。
土間の脇に低い靴箱があり、その上へ新しい布が敷かれている。上がり框も廊下も磨かれ、長く空いていた家には見えなかった。
「前に住んでいた方は、いつごろ出たんですか」
「六年くらい前です。町にいる息子さんのところへ移りました」
奈緒はスリッパを二足並べた。
「去年の雨で少し傷みましたけど、春からみんなで直しました」
「村の人たちで?」
「できるところだけです。屋根と電気は業者さんに頼みました」
廊下の途中に、色の違う板が二枚入っていた。
真由が足を止めると、奈緒も振り返った。
「そこは床下に水が入ったので、替えました」
真由が踏むと、乾いた音がした。
隣の古い板は、少し低く鳴った。
「居間はこちらです」
八畳ほどの和室だった。
南側の窓から、段々になった畑と、その向こうの山が見える。曇っていても、部屋の中は写真で見たより明るかった。
畳は古いが、傷んだものだけ替えられている。壁も一部が塗り直され、低い机と座布団が置かれていた。
「いいな」
悠介が窓際へ立った。
「畑が近い」
真由も窓へ寄った。
家の前の小さな畑には何も植えられていない。土は雨を吸って黒く、周囲の草だけ短く刈られていた。
「ここは、この家についている土地ですか」
「はい。向こうの広い畑は別の方のものですけど、使う人がいないので、相談できると思います」
「日当たりもよさそうですね」
「冬は山の影に入るのが早いです」
奈緒は窓の外を指した。
「朝も霜が残りますし、道も凍ります。買い物や通院には、車がないと不便です」
「買い物は、どこまで行くんですか」
「一番近い店で、車で三十分くらいです。皆で頼んで、まとめて買ってきてもらうこともあります」
「病院は?」
「町まで一時間くらいです。今は先生が村にいますけど、大きな病気や怪我は町へ行かないと」
「そういうことも、実際に暮らしてみないと分からないね」
真由が言うと、悠介も頷いた。
「台所も見ますか」
古い流し台と小さなガス台があり、冷蔵庫だけ新しかった。棚には滞在に必要な皿や鍋が並んでいる。
「冷蔵庫は役場で?」
「村で用意しました。前のものは使えなかったので」
「まだ住むかも分からないのに、すみません」
「住まなくても使いますから」
奈緒は気にしていないように答えた。
「親戚が帰ってきたときにも泊まれますし」
職員が荷物を運び終え、台所の入口に立った。
「私はこのあと、集会所の電話を確認してきます。暗くなる前に下りたいので、お茶はいただかずに戻ります」
「分かりました」
職員は、村の案内が終わるころにもう一度寄ると言って外へ出た。
奈緒は食器棚を開けた。
「温かいものを入れますね」
「お気遣いなく」
「私も飲みたいので」
奈緒は湯呑みを机へ運んだ。
一つ、二つ、三つ。
そのあと、もう一つ置いた。
奈緒は並んだ湯呑みを見た。
四つ目を持ち上げ、何も言わず棚へ戻した。
「お茶で大丈夫ですか」
「はい」
奈緒は急須へ茶葉を入れた。
湯は電気ポットのものだった。
三人分の茶を注ぐ。
「水は井戸ですか」
真由が聞いた。
「ポットの水は、一度沸かしています」
奈緒は答えた。
「井戸から各家へ引いていますけど、気になるなら、持ってきた水を使ってください」
「検査では問題なかったと聞きました」
「そうです。でも、原因は分からなかったので」
真由は湯呑みを持った。
湯気からは普通の茶の匂いがした。
一口飲む。
悠介も茶を飲み、居間へ目を向けた。
「水道も見ていいですか」
「もちろんです」
奈緒が蛇口をひねった。
管の奥で音がしてから、透明な水が流れ始めた。
真由は手のひらへ受けた。
冷たい水だった。
色も濁りもない。
顔へ近づけると、濡れた土のような臭いがかすかにした。
「少し臭いますね」
「雨が続くと、そう言う人はいます」
奈緒は蛇口の水を手に受けた。
「村の者は慣れているのか、分からないんですけど」
「飲んでも?」
悠介が流しへ近づいた。
「気になるなら、持ってきた水のほうがいいと思います」
奈緒は流しの脇にあったコップをすすいだ。
「せっかくだから、少し飲んでみる」
悠介はコップを受け取り、水面を確かめた。
真由は、蛇口から漂う濡れた土の臭いに眉を寄せた。
悠介は一口飲んだ。
口の中で確かめるようにしてから、もう一口含む。
「普通だな」
「臭わない?」
「少しは。でも、井戸水ならこんなものじゃないか」
残りも飲み切った。
「冷たくてうまいよ」
奈緒は空のコップを受け取った。
「昔から、水だけは褒められる村なんです」
蛇口を閉める。
真由は濡れた手を、持参したハンカチで拭いた。
台所の窓から、家と家の間に低い屋根が見えた。
「あれが井戸ですか」
「はい。水道は引いてありますけど、今でも直接汲む人がいます」
「どうしてです?」
「汲みたてのほうがうまいって」
奈緒は窓の外を見た。
井戸の横には、桶がいくつか伏せられていた。
屋根の下は暗く、水面は見えなかった。




