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一夜熱  作者: 古江 門
第一部 真由

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2/12

第一話 二 空き家

 悠介が先に車を降りた。


 真由も鞄を持って外へ出た。


 雨は細かかった。傘を開くほどではないと思ったが、女性は真由のそばまで歩いてくると、自分の傘を少し傾けた。


「坂井奈緒です」


 女性は頭を下げた。


「一週間、よろしくお願いします」


「杉本真由です。こちらが夫の悠介です」


「よろしくお願いします」


 奈緒は三十歳前後に見えた。


 黒い髪を後ろで一つに束ね、薄い上着の袖を肘までまくっている。真由と目が合うと、穏やかに笑った。


「中を見てください。気になるところがあったら、遠慮なく言ってくださいね」


 職員と悠介が荷物を下ろすあいだに、奈緒が玄関を開けた。


 家は古かった。


 土間の脇に低い靴箱があり、その上へ新しい布が敷かれている。上がり框も廊下も磨かれ、長く空いていた家には見えなかった。


「前に住んでいた方は、いつごろ出たんですか」


「六年くらい前です。町にいる息子さんのところへ移りました」


 奈緒はスリッパを二足並べた。


「去年の雨で少し傷みましたけど、春からみんなで直しました」


「村の人たちで?」


「できるところだけです。屋根と電気は業者さんに頼みました」


 廊下の途中に、色の違う板が二枚入っていた。


 真由が足を止めると、奈緒も振り返った。


「そこは床下に水が入ったので、替えました」


 真由が踏むと、乾いた音がした。


 隣の古い板は、少し低く鳴った。


「居間はこちらです」


 八畳ほどの和室だった。


 南側の窓から、段々になった畑と、その向こうの山が見える。曇っていても、部屋の中は写真で見たより明るかった。


 畳は古いが、傷んだものだけ替えられている。壁も一部が塗り直され、低い机と座布団が置かれていた。


「いいな」


 悠介が窓際へ立った。


「畑が近い」


 真由も窓へ寄った。


 家の前の小さな畑には何も植えられていない。土は雨を吸って黒く、周囲の草だけ短く刈られていた。


「ここは、この家についている土地ですか」


「はい。向こうの広い畑は別の方のものですけど、使う人がいないので、相談できると思います」


「日当たりもよさそうですね」


「冬は山の影に入るのが早いです」


 奈緒は窓の外を指した。


「朝も霜が残りますし、道も凍ります。買い物や通院には、車がないと不便です」


「買い物は、どこまで行くんですか」


「一番近い店で、車で三十分くらいです。皆で頼んで、まとめて買ってきてもらうこともあります」


「病院は?」


「町まで一時間くらいです。今は先生が村にいますけど、大きな病気や怪我は町へ行かないと」


「そういうことも、実際に暮らしてみないと分からないね」


 真由が言うと、悠介も頷いた。


「台所も見ますか」


 古い流し台と小さなガス台があり、冷蔵庫だけ新しかった。棚には滞在に必要な皿や鍋が並んでいる。


「冷蔵庫は役場で?」


「村で用意しました。前のものは使えなかったので」


「まだ住むかも分からないのに、すみません」


「住まなくても使いますから」


 奈緒は気にしていないように答えた。


「親戚が帰ってきたときにも泊まれますし」


 職員が荷物を運び終え、台所の入口に立った。


「私はこのあと、集会所の電話を確認してきます。暗くなる前に下りたいので、お茶はいただかずに戻ります」


「分かりました」


 職員は、村の案内が終わるころにもう一度寄ると言って外へ出た。


 奈緒は食器棚を開けた。


「温かいものを入れますね」


「お気遣いなく」


「私も飲みたいので」


 奈緒は湯呑みを机へ運んだ。


 一つ、二つ、三つ。


 そのあと、もう一つ置いた。


 奈緒は並んだ湯呑みを見た。


 四つ目を持ち上げ、何も言わず棚へ戻した。


「お茶で大丈夫ですか」


「はい」


 奈緒は急須へ茶葉を入れた。


 湯は電気ポットのものだった。


 三人分の茶を注ぐ。


「水は井戸ですか」


 真由が聞いた。


「ポットの水は、一度沸かしています」


 奈緒は答えた。


「井戸から各家へ引いていますけど、気になるなら、持ってきた水を使ってください」


「検査では問題なかったと聞きました」


「そうです。でも、原因は分からなかったので」


 真由は湯呑みを持った。


 湯気からは普通の茶の匂いがした。


 一口飲む。


 悠介も茶を飲み、居間へ目を向けた。


「水道も見ていいですか」


「もちろんです」


 奈緒が蛇口をひねった。


 管の奥で音がしてから、透明な水が流れ始めた。


 真由は手のひらへ受けた。


 冷たい水だった。


 色も濁りもない。


 顔へ近づけると、濡れた土のような臭いがかすかにした。


「少し臭いますね」


「雨が続くと、そう言う人はいます」


 奈緒は蛇口の水を手に受けた。


「村の者は慣れているのか、分からないんですけど」


「飲んでも?」


 悠介が流しへ近づいた。


「気になるなら、持ってきた水のほうがいいと思います」


 奈緒は流しの脇にあったコップをすすいだ。


「せっかくだから、少し飲んでみる」


 悠介はコップを受け取り、水面を確かめた。


 真由は、蛇口から漂う濡れた土の臭いに眉を寄せた。


 悠介は一口飲んだ。


 口の中で確かめるようにしてから、もう一口含む。


「普通だな」


「臭わない?」


「少しは。でも、井戸水ならこんなものじゃないか」


 残りも飲み切った。


「冷たくてうまいよ」


 奈緒は空のコップを受け取った。


「昔から、水だけは褒められる村なんです」


 蛇口を閉める。


 真由は濡れた手を、持参したハンカチで拭いた。


 台所の窓から、家と家の間に低い屋根が見えた。


「あれが井戸ですか」


「はい。水道は引いてありますけど、今でも直接汲む人がいます」


「どうしてです?」


「汲みたてのほうがうまいって」


 奈緒は窓の外を見た。


 井戸の横には、桶がいくつか伏せられていた。


 屋根の下は暗く、水面は見えなかった。


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