第一話 一 焼け跡
車が継ぎ目を越え、小さく揺れた。
真由は膝の上の鞄を押さえ、窓の外を見た。
山腹に沿う道は狭かったが、舗装されていた。谷側には新しいガードレールが続き、その下を濁った川が流れている。山側の斜面は金網で覆われ、ところどころに積み直された石が見えた。
「ここが、去年いちばん大きく崩れたところです」
運転席の職員が言った。
「春に工事が終わりました。今回の雨で少し土が出ましたけど、通る分には問題ありません」
路肩に濡れた砂と小石が細く溜まっていた。
職員はそこを避け、速度を落として進んだ。
フロントガラスには、細かな雨粒が当たり続けている。
昼を過ぎたばかりだったが、山の中は暗かった。木々の間を白い霧が流れ、谷の底から水の音が上がってくる。
「帰る日は大丈夫そうですか」
悠介が聞いた。
「今の予報なら。ただ、台風が東へずれると雨が増えるかもしれません。その場合は、迎えの時間を変えます」
「道が塞がることもあります?」
「小さい崩れならあります。何かあれば村から連絡をもらいます」
職員はバックミラー越しに二人を見た。
「途中で帰りたくなったときも、遠慮なく言ってください。無理に一週間いる必要はありませんから」
「分かりました」
真由が答えた。
足元には着替えと保存食、それに箱で買った水が置かれていた。
水を持っていこうと言ったのは悠介だった。
前年、この村では原因の分からない熱病が流行していた。山の水や泥が疑われたが、結局、原因は特定されなかった。
村の井戸も調べられ、飲用に問題となるものは見つからなかったと聞いている。それでも、一週間泊まるなら念のため持っていったほうがいいと悠介は言った。
真由も、そのほうがよいと思った。
「一夜熱でしたっけ」
悠介が言った。
「はい。この辺りで昔から使われていた呼び名だそうです」
「それからは、出てないんですよね」
「役場には報告されていません」
職員は前を向いたまま答えた。
「体験移住の受け入れも一年止めていました。道路の工事が終わって、村の生活も落ち着いたので、今回から再開したんです」
「泊まるのは、私たちが最初ですか」
「去年の件のあとは、そうなります」
職員は言いにくそうにすることもなく答えた。
真由は窓の外へ目を戻した。
この村を見つけたのは真由だった。
空き家の広さと家賃、使われていない畑、町までの距離。これまで調べた候補の中では、いちばん現実的に見えた。
便利な暮らしを捨て、自給自足を始めたいわけではない。
今より住居費を抑え、仕事以外の時間を増やしたかった。畑も、生活のすべてを賄うほどでなくてよい。自分たちで食べるものを少し作れれば、それで十分だった。
一夜熱のことを知り、申し込みを取り下げることも考えた。
それでも、一年後の今も候補から外すことができず、悠介と相談して見に来ることにした。
「写真で見たより、山が近いな」
悠介が言った。
「まだ村にも着いてないよ」
「でも、思ってた感じに近い」
「どんな感じ?」
「もっと開けてると思ってた」
「それは近くないんじゃない?」
悠介が笑った。
「家を見るのは楽しみだよ」
「畑も?」
「見てから決める」
車が大きく曲がった。
木々の間に低い屋根が見え始めた。
集落へ入る少し前、道の右側だけ草の色が違っていた。
平らにならされた土地に、黒い基礎が残っている。焦げた柱が一本、腰ほどの高さで途切れ、その周りを伸びた草が囲んでいた。
道路との境には、新しい木の杭と細い縄が張られている。
「ここです」
職員が速度を落とした。
「去年、火事があった場所です」
真由は窓越しに焼け跡を見た。
雨を受けた草が、黒い基礎の上へ倒れ込んでいる。焦げた木の間にも草が生え、火事のあった場所というより、長く使われていない土地に見えた。
「亡くなった人がいたんですよね」
「ええ。当時、村で唯一の若い夫婦だったうちの、ご主人です」
職員は前を見たまま言った。
「一夜熱のあと、混乱した状態が続いていたそうです。本人が周りへ病気をうつすことを心配して、小屋で休んでいた。その夜に火事が起きました」
「原因は分かったんですか」
「分かっていません。警察と消防も調べましたが、当時は村の方も何人も寝込んでいて、はっきりしたことは聞けなかったそうです」
「奥さんは、今も村に?」
真由が聞いた。
「今日、お二人の世話をしてくださる坂井さんです」
真由はもう一度、焼け跡を見た。
車はすでにその横を通り過ぎていた。
「私たちの世話を頼んで、大丈夫なんでしょうか」
「こちらからも確認しました。坂井さん本人が引き受けると言ってくれています」
集落へ入ると、道の両側に家が並び始めた。
古い家が多かった。
屋根の一部だけ新しい瓦に替えられた家、壁へ明るい色の板を打った家、水路の脇に切りそろえた薪を積んだ家がある。
畑には大根や白菜が並び、雨の中で水路の落ち葉をさらっている人がいた。
車へ気づいた老人が腰を伸ばした。
こちらへ手を上げる。
職員も窓越しに手を上げた。
「今日来ることは、皆さん知ってるんですか」
「小さな村ですから」
道の脇で板を切っていた男も、車が近づくと顔を上げた。
悠介が頭を下げると、男も笑って応じた。そのまま板へ目を戻し、鋸を引き始める。
車は集落の中ほどで止まった。
一軒の古い家の前に、女性が立っていた。
傘を差し、こちらを見ている。




