第九話 三 小屋
農機具小屋は、村の端からさらに少し下った場所にあった。
畑へ続く道からも外れ、周囲には使われなくなった田と雑木林しかない。
何年か前まで、耕運機や籾摺り機が置かれていた。
屋根の一部が傷んだとき、俺が板を張り替えたことがある。
その板だけが、今も周りより白かった。
戸の前には、古い椅子が置かれていた。
岩田さんが戸を開ける。
中は片づけられ、中央へ布団が敷かれていた。
毛布が二枚。
水の入った瓶。
蓋をした鍋と、箸。
隅には桶が置かれている。
「急だったから、これくらいしか用意できんかった」
「十分です」
「寒くなったら毛布を重ねろ」
「はい」
岩田さんは中へ入らず、戸口に立っていた。
「食事は、うちのが作った。食べ終わった食器は桶へ入れておけ」
「分かりました」
「水が足りなくなったら呼べ」
「はい」
「見張りは、岩田さんが?」
「今夜はな」
「ほかの人は」
岩田さんは村の方を見た。
「自分の家で手いっぱいじゃ」
先生は一人で、熱を出した家を回っている。
村で一番若い俺が、ここに閉じ込められる。
「やっぱり、俺も手伝った方が」
「今は、ここにおるのがお前の仕事じゃ」
以前なら、何かあれば俺が動いた。
今は、何もしないことを求められている。
「戸は、外から閉めるぞ」
「はい」
「完全には塞がん。中から叩けば分かる」
「分かりました」
岩田さんは、俺を見た。
「病人を置くためじゃ。罪人を入れるんじゃない」
小屋の中へ入った。
戸が閉められた。
外で金具が動き、縄がかけられる音がした。
岩田さんの足音は離れなかった。
椅子が鳴る。
戸のすぐ外へ座ったらしい。
鍋の蓋を開けた。
芋の煮物と、握り飯が入っていた。
一口食べた。
味は分からなかった。
半分ほどでやめ、水を飲んだ。
冷たいものが喉を通り、身体の奥へ広がった。
もう一口飲んだ。
食事より、水の方がよかった。
日が落ちると、小屋の中は暗くなった。
懐中電灯をつける。
光の輪の外は何も見えない。
遠くで、誰かの声がした。
先生を呼ぶ声。
戸を叩く音。
俺がここにいる間にも、熱は広がっている。
家の床から始まった黒い染みを思い出した。
俺がここへ来たことで、家の腐敗が止まるかもしれない。
奈緒のそばからも、村からも、山のものを遠ざけられる。
それだけを考えた。
毛布をかぶった。
身体は、夕方から少しずつ重くなっていた。
目を閉じた。
外で、岩田さんが咳をした。
椅子が小さく鳴った。
しばらくして、声がした。
「起きとるか」
返事をしようとした。
口が動かなかった。
「おい」
もう一度呼ばれた。
目を開けようとすると、瞼が遅れて持ち上がった。
小屋の中は暗かった。
懐中電灯は消えている。
いつ消したのか覚えていなかった。
戸が叩かれた。
「聞こえとるか」
喉へ力を入れた。
空気は出なかった。
胸も動かなかった。
それでも、息苦しくはなかった。
外で縄が解かれた。
金具の外れる音がした。
戸が少し開く。
ランタンの光が床を横切った。
岩田さんが隙間から中を見た。
「おい」
光が俺の顔を照らす。
岩田さんの視線が、胸へ下がった。
「お前、息をしとるか」
動けることを見せようと、腕を上げた。
少し遅れて指が動いた。
手首が上がり、最後に腕が布団から離れた。
岩田さんが後ろへ下がった。
肩が戸へぶつかる。
「岩田さん」
掠れた音が、喉から漏れた。
岩田さんは答えなかった。
戸が閉められた。
外で金具がかかる。
足音が、村の方へ走っていった。
身体を布団へ戻した。
しばらくして、複数の足音が近づいてきた。
「ここじゃ」
岩田さんの声がした。
「呼んでも返事がなくて」
戸が開いた。
先生と斉藤さんが立っていた。
先生は口元を布で覆い、手袋をはめて中へ入った。
小さな灯りを顔へ近づける。
片方ずつ、目を照らされた。
光が入るたび、視界がわずかに狭くなった。
「瞳孔は反応してる」
「じゃが、息をしとらん」
岩田さんが言った。
先生は俺の手首へ指を当てた。
長く触れたあと、手を離す。
「脈は、はっきり取れない」
「それじゃ」
「瞳孔は反応している。死亡とは判断しない」
先生が俺の名を呼んだ。
「腕を動かせるか」
右手を動かそうとした。
少し遅れて、指が曲がった。
「聞こえてはいる」
先生は立ち上がった。
「朝まで見る。何か変わったら呼んで」
三人は外へ出た。
戸は閉められたが、縄はかけられなかった。
外で椅子を動かす音がした。
何度か名前を呼ばれた。
声は聞こえていたが、返事はできなかった。




