第九話 四 黒い筋
板壁の隙間が、少しずつ白くなった。
床へ伸びた光が、指先へ触れた。
手を動かす。
今度はすぐに動いた。
胸が大きく膨らみ、空気が喉へ入った。
身体を起こした。
腕にも脚にも、昨夜の重さは残っていなかった。
外で椅子が倒れた。
「岩田!」
斉藤さんが叫んだ。
戸が開いた。
岩田さんと先生も駆けてきた。
三人とも、戸口から俺を見ていた。
「おはようございます」
誰も返さなかった。
「昨夜のことは覚えているか」
先生が聞いた。
「呼ばれていたのは分かりました」
「身体が動かなかった?」
「はい」
「呼吸は」
「浅かったんだと思います」
岩田さんと斉藤さんが顔を見合わせた。
「まったく動いとらんように見えた」
斉藤さんが言った。
「暗かったからでしょう」
立ち上がった。
足元は揺れなかった。
「今は、昨日より楽です」
先生は何も言わなかった。
岩田さんが床を見ていた。
「これは、昨日からあったか」
布団の下を指している。
床板の隙間に、黒い筋が浮いていた。
俺が寝ていた場所から、何本も外へ伸びている。
毛布の端も濡れていた。
持ち上げると、透明な液が床へ落ちた。
鍋の蓋には、薄い膜が張っている。
「昨日は何もなかった」
岩田さんが言った。
「俺が一晩いただけで」
誰も答えなかった。
「やっぱり、俺についてきてるんです」
道の方から、砂利を擦る音がした。
「生えとる」
正吉さんが立っていた。
誰も動かなかった。
開いたままの目と、土のような色になった頬が浮かんだ。
白い布に包まれ、戸板に載せられていった人が、裸足で道に立っていた。
服も足も泥にまみれている。
片方の足から血が流れ、腕には白い布の切れ端が絡んでいた。
「……正吉さん」
岩田さんの声が掠れた。
正吉さんは答えなかった。
小屋の床から伸びる黒い筋を指している。
「黒いのが生えとる」
斉藤さんが一歩下がった。
先生も動かなかった。
「集会所におったはずじゃ」
岩田さんが言った。
正吉さんは首を傾けた。
「暗かった」
「どうやって出た」
「戸が開いとった」
答えになっているのか分からなかった。
「正吉さん」
俺が呼ぶと、ゆっくりこちらを見た。
「お前も入ったか」
「何にですか」
「箱じゃ」
正吉さんは口元を緩めた。
すぐに床へ目を戻す。
「腐っとる」
「正吉さん、こっちへ来い」
岩田さんは近づこうとして、足を止めた。
「奈緒も寝とる」
正吉さんが村の方を指した。
「白いのをかぶって」
「奈緒さんの家へ行ったんか」
「朝になったら起きる」
正吉さんは、何でもないことのように言った。
先生がようやく近づいた。
正吉さんは逃げなかった。
目へ灯りを当てられると、瞳が小さく縮んだ。
先生は灯りを下ろした。
岩田さんが正吉さんの腕を取る。
「戻るぞ」
正吉さんは抵抗しなかった。
数歩進み、一度だけ振り返った。
「夜は、みんな静かじゃ」
笑ったように見えた。
次に瞬きをしたときには、もう何の表情も残っていなかった。
先生は、正吉さんが消えた道を見たまま動かなかった。
やがて両腕を抱えた。
肩が小さく震えている。
「寒いんですか」
「寝てないからだ」
言った直後、歯が鳴った。
斉藤さんが先生を見た。
「熱じゃないんか」
「決めつけるな」
先生は鞄を持ち上げた。
持ち手を一度つかみ損ねる。
村の方から男が走ってきた。
「先生、電話がまた切れた」
「何を伝えた」
「熱の者が増えたところまでじゃ」
「向こうからは」
「道路を確認すると言っとった。そこで切れた」
先生は目を閉じた。
「もう一度かける」
「少し休んだ方がええ」
岩田さんが言った。
「先生まで倒れたら、誰が診る」
先生は鞄を見た。
「……どうすればいいんだ」
誰も答えなかった。
先生は鞄を持ち直した。
「戻らないと」
歩き出した。
二歩目で身体が傾いた。
男が手を差し出すと、先生は反射的に避けた。
「触らなくていい」
その声だけは、また医者のものに戻っていた。
先生たちが村へ戻っていった。
岩田さんだけが、小屋の前に残った。
「俺も戻った方がいいんじゃないですか」
「ここにおってくれ」
「今なら動けます」
「昨夜のお前を見た」
岩田さんは、床の染みへ目を落とした。
「家も、小屋も、お前の寝たところから腐っとる」
「だから、ここにいるんです」
「ああ」
岩田さんは戸へ手をかけた。
「食事と水は持ってくる」
戸が閉じた。
外で縄を結ぶ音がした。
一度止まり、もう一度、金具が鳴った。
昨日より、きつく締められていた。




