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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第九話 二 家を出る

 先生と岩田さんが戻ったのは、昼を過ぎてからだった。


 先生は鞄を下ろし、長く息を吐いた。


「古川さんは」


「熱が高い。斉藤さんの奥さんと似ている」


「一夜熱ですか」


「まだ分からない」


 先生の額には汗が浮いていた。


「寝室を見てください」


 襖を開けた。


 外した畳の下で、床板の黒い染みが広がっていた。


 昨日は布団の形ほどだった。


 今は部屋の半分近くまで伸び、板の隙間から透明な水がにじんでいる。


 箪笥の脚も、床へ沈み始めていた。


「昨日、ここへ寝ていた?」


「はい」


「山から戻った日も」


「ここです」


「奈緒さんは」


「隣にいました」


「染みは」


「俺が寝ていたところからです」


 先生は床へ近づいたが、触れなかった。


「裏の階段も見てください」


 裏口を開ける。


 階段の上半分が崩れ、折れた踏み板と手すりが斜面に散らばっていた。


 昨日打ちつけた板も、釘を残したまま割れている。


 木の断面は、中まで黒く変わっていた。


「昨日は、ここまでじゃなかったんです」


 岩田さんが断面を見た。


「ほかの家にも、こんな傷み方はあるか」


「ない。雨漏りした家はあるが、こんなふうには腐っとらん」


「服を置いた軒下も同じでした」


 俺が言った。


「寝室も、俺が寝ていたところからです」


 岩田さんが俺を見た。


 その視線は、昨日までとは違っていた。


「俺がいるからです」


「まだ分からん」


「この家だけなんでしょう」


「お前の服や布団へ、沼のものがついとったのかもしれん」


「服は外に出しました」


「床には残っとる」


「今朝、居間の布団を上げたら、そこにも同じ染みが出ていました」


 岩田さんが目を逸らした。


「俺を別の場所へ移してください」


「どこへ」


「村外れの農機具小屋なら、今は何も置いてない」


「あそこは寒いぞ」


「構いません」


 奈緒のそばにいたかった。


 だが、同じ家にいるだけで、床も階段も腐っていく。


「俺がここにいたら、もっと広がるかもしれない」


 先生が椅子へ腰を下ろした。


「隔離すれば安全だとは限らない」


「少なくとも、村の人から離せます」


「見張る人間がいる」


「戸を外から閉めればいい」


 岩田さんが顔を上げた。


「お前を閉じ込めろと言うんか」


「俺が出ないようにしてください」


「何かあったらどうする」


「呼びます」


「夜に呼べるのか」


 奈緒の話を思い出しているのだと分かった。


 何度呼んでも、俺は目を開けなかった。


「朝になれば動けます」


 口にしてから、その言葉の奇妙さに気づいた。


 先生も岩田さんも黙っていた。


「熱のあとだから、夜は身体が動きにくいだけです」


 先生がゆっくり立ち上がった。


「小屋を先に見る」


「使えそうなら」


「一晩だけだ」


「分かりました」


「食事と水は外へ置く。中には誰も入らない」


「はい」


「お前も外へ出ない」


「分かってます」


 岩田さんは、まだ迷っていた。


「これは病気の隔離だ」


 先生が言った。


「祟りを閉じ込めるためじゃない」


 岩田さんは答えなかった。


 俺も答えられなかった。


 病気なら、家だけが腐る理由が分からない。


 奈緒が俺を見て叫んだ理由も分からない。


 山から何かがついてきた。


 それが俺のそばにいる。


 そう考えた方が、すべてがつながった。


 先生と岩田さんが小屋を見に出た。


 荷物をまとめた。


 着替えを一組。


 毛布。


 懐中電灯。


 湯冷ましを入れた瓶。


 奈緒が枕元へ置いていた茶碗を手に取った。


 しばらく持ったあと、元へ戻した。


 代わりに、台所の棚から古い湯呑みを出した。


 岩田さんが戻ってきたのは、日が傾き始めたころだった。


「小屋を片づけた。今から移れる」


「先生は」


「また患者のところへ行った」


「熱を出した人は」


 岩田さんは答える前に、外を見た。


「もう一人、増えた」


 荷物を持って玄関へ出た。


 道の端に、先生が立っていた。


「歩けそうか」


「大丈夫です」


「ふらついたら、すぐ言え」


 先生はそれだけ確かめると、次の家へ向かっていった。


 奈緒のいる部屋を振り返った。


 襖は閉じられている。


 岩田さんの奥さんが、廊下に立っていた。


「奈緒のこと、お願いします」


「ああ。ここにおるから」


 頭を下げた。


 家を出た。


 玄関の戸が閉まる。


 奈緒と暮らしていた家が、戸の向こうへ隠れた。


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