第九話 一 残された家
先生は、奈緒のいる部屋から出てきた。
夜のあいだに何度も洗ったのか、手は赤く荒れていた。上着の袖口には、乾いた黒い染みが残っている。
「起きたのか」
「奈緒に会わせてください」
立ち上がり、奥の部屋へ向かった。
先生が前へ出た。
「待て」
「顔を見るだけです」
先生はすぐには答えなかった。
奥の部屋を振り返る。
「明け方まで診ていた」
「それで」
「息が止まった」
分かっていた。
白い布の下で動かない姿を見た。
それでも、先生の口から聞くと、胸の奥へ何かが落ちた。
「会わせてください」
「転落の傷がある」
「それでもいい」
先生は俺を見たあと、襖へ手をかけた。
「布には触らないでくれ」
奥の部屋には、岩田さんの奥さんがいた。
奈緒は布団へ寝かされ、顔まで白い布を掛けられている。
布団の端から髪が出ていた。
そばへ膝をつく。
先生が白い布を下ろした。
奈緒の額と頬には、転落したときの傷が残っていた。口元の血は拭われている。
目は閉じていた。
「奈緒」
呼んだ。
返事はなかった。
頬へ手を伸ばした。
「触らないでくれ」
先生の声で、手を止めた。
最後に見た顔を思い出した。
俺を見て、怯えていた。
来ないで、と繰り返していた。
「どうして逃げたんだ」
奈緒は答えなかった。
顔を見れば、何か分かると思っていた。
分かったのは、もう何も聞けないということだけだった。
先生が布を戻した。
「今度は、お前を診る」
「俺は大丈夫です」
「昨夜、お前も階段から落ちた」
先生は俺の前へしゃがんだ。
瞼を持ち上げ、手首へ指を当てる。肩の痣を見たあと、腕と脚を動かすよう言った。
「骨は折れていないと思う。熱と脈も、昨日と大きく変わらない」
「なら、もう大丈夫でしょう」
「弱ってはいる。今日は動くな」
先生は手首から指を離した。
「運ばれてきたとき、お前には目立った傷がなかった。呼べば、わずかに反応もあった」
白い布のかかった奈緒を見る。
「奈緒さんは呼吸が弱く、腹を強く打っていた。そちらを先に診た。明け方にお前を診たときも、脈と呼吸はあった」
「奈緒は、苦しみましたか」
「分からない」
先生は、分からないことを分からないまま答えた。
「昨夜、何があった」
「目が覚めたら、廊下に立っていました。床を拭いてたんです」
「覚えていないのか」
「はい。奈緒が出てきて、俺を見て叫びました」
「何と」
「来ないで、と」
先生は黙って続きを待った。
「奈緒は裏口から外へ出ました。階段が危なかったから、止めようと思って追いました。奈緒が先に落ちて、そのあと床が抜けて、俺も落ちました」
「奈緒さんへ触った?」
「触ってません」
「押したり、腕をつかんだりは」
「してません」
声が強くなった。
先生は表情を変えなかった。
「確認しているだけだ。身体には、つかまれた痕も殴られた痕もなかった。傷は階段と斜面でできたものだと思う」
奈緒は、俺を見て叫んだ。
何度呼んでも、俺の声を聞こうとしなかった。
岩田さんは玄関の近くに立っていた。
昨夜から、ほとんど休んでいないはずだった。
外から、誰かが戸を叩いた。
「先生、おるか」
男の声だった。
岩田さんが戸を少し開ける。
「どうした」
「古川さんが、急に寒いって言い出した。布団を何枚かけても震えが止まらん」
先生が鞄を持った。
「いつから」
「ついさっきじゃ。さっきまで何ともなかった」
「先に行って。すぐ追う」
男が走っていった。
先生は立ち上がったが、壁へ一度手をついた。
「先生」
「寝てないだけだ」
そう言って、鞄の口を閉じた。
「今日はこの家から出ないでくれ」
「俺も手伝えます」
「動くなと言った」
「でも、また熱が」
「だから出るな」
先生は玄関へ向かった。
「奈緒さんには触らないで」
「分かっています」
先生と岩田さんが外へ出た。
戸が閉まり、家の中が静かになった。
奥の部屋には、岩田さんの奥さんが残っていた。
昨夜からずっと、奈緒についてくれている。
襖は閉じられていた。
その向こうに奈緒がいる。
俺は居間へ戻り、先生たちが帰るのを待った。




