↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/41

第八話 四 妻

 懐中電灯の光が顔へ当たった。


 目の奥に、白いものが広がった。


 口を動かす。


 すぐには声が出なかった。


「奈緒」


 奈緒は答えなかった。


 懐中電灯を握る手が揺れている。


「床が」


 言葉が途切れた。


 もう一度、口を動かす。


「濡れてる」


 布を持ち上げて見せようとした。


 腕は途中までしか上がらなかった。


 奈緒が、俺の胸を見た。


 目が大きく開く。


「息」


 奈緒の唇が震えた。


「してない」


 俺は息を吸おうとした。


 胸が動いたかどうか、自分でも分からなかった。


「寝てたから」


 声が出るまでに間があった。


 奈緒が短い悲鳴を上げた。


「どうした」


 奈緒は襖へ背中をぶつけた。


 そのまま後ろへ下がる。


「奈緒」


 右手を畳へつく。


 身体を持ち上げようとする。


 膝が床を擦った。


 立とうとしたが、脚は身体についてこなかった。


「来ないで」


 奈緒が言った。


「俺だ」


 もう一度、悲鳴が上がった。


 懐中電灯の光が大きく揺れる。


 顔から光が外れた瞬間、口が動かなくなった。


 奈緒は居間を抜けた。


 光が廊下の奥へ遠ざかる。


 俺は壁へ手をついた。


 天井の照明から離れると、身体はさらに動かなくなった。


 廊下の床へ膝をつく。


 奈緒の懐中電灯が、こちらへ向いた。


 光が胸から顔へ当たる。


「そっち」


 声を出す。


「危ない」


 奈緒は振り返らなかった。


 裏口の戸を開ける。


 外の暗さが口を開けた。


 軒下の小さな灯りが、階段の上だけを照らしていた。


 奈緒が最初の段へ足を置く。


 俺は壁や柱へ手をつき、少しずつ近づいた。


「待て」


 声が掠れた。


 奈緒は階段を下りながら、一度だけ振り返った。


 懐中電灯の光が俺へ向く。


 奈緒の目が大きく開いた。


 俺を見ながら、俺から逃げていた。


 後ろ向きに、次の段へ足を下ろす。


「前を見ろ」


 近づこうとした。


「来ないで!」


 奈緒が手すりをつかんだ。


 木が低く鳴った。


 昼に打ちつけた板が傾く。


「手すりから離れろ」


 奈緒の身体が、さらに後ろへ下がった。


 柱が根元から剥がれた。


 踏み板が割れる。


 奈緒の身体が、階段の外へ消えた。


 短い声がした。


 枝の折れる音が続く。


「奈緒!」


 考えるより先に、身体を前へ出そうとした。


 軒下の灯りへ腕を伸ばす。


 柱をつかみ、階段へ身体を寄せる。


 脚は思ったように動かなかった。


 一歩遅れて出た足が、最初の段へ掛かる。


 板が大きく沈んだ。


 黒い木屑が隙間から噴き出した。


 足を引こうとした。


 間に合わなかった。


 踏み板が抜ける。


 身体が前へ傾いた。


 腕を伸ばしたが、何もつかめない。


 階段の角へ肩が当たった。


 そのまま斜面へ落ちた。


 空と家の明かりが、一度だけ入れ替わった。


 地面へ身体がぶつかる。


 痛みはなかった。


 奈緒が近くにいた。


 横向きに倒れ、片腕を身体の下へ巻き込んでいる。


「奈緒」


 近づこうとした。


 軒下の灯りは、ここまでは届かなかった。


 身体が動かない。


 奈緒の懐中電灯が、少し離れた地面へ落ちていた。


 横倒しの光が、奈緒の顔と俺の右腕を照らしている。


 光の中へ手を伸ばす。


 指が土を掻いた。


 少しだけ身体が動いた。


 奈緒の口元に、暗いものがにじんでいた。


 目は開いている。


 俺を見る。


 唇が動いた。


「来ないで」


 ほとんど息だけの声だった。


「助ける」


 声が出るまでに時間がかかった。


 奈緒は首を動かそうとした。


 身体がわずかに震える。


 俺はもう一度、光の中で腕を伸ばした。


 指先は届かなかった。


 奈緒の目は、最後まで俺を見ていた。


 家の前から声がした。


「何だ!」


 岩田さんだった。


 懐中電灯の光が、斜面の上を動く。


「奈緒さん!」


 いくつもの足音が近づいた。


 光が奈緒へ集まる。


 宮内先生が斜面を下りてきた。


 奈緒の首へ指を置き、顔を口元へ近づける。


「息がある」


「戸板を持ってこい!」


「腹を打ってるかもしれない。動かすときはゆっくりだ」


 奈緒の身体が持ち上げられる。


 宮内先生が頭と首を支え、岩田さんたちが斜面の上へ運んでいく。


 俺の名も呼ばれた。


 懐中電灯が顔へ向けられる。


 まぶたが動いた。


「こっちも反応はある」


「怪我は?」


「見える範囲にはない」


「奈緒さんを先に運べ」


 光が遠ざかる。


 身体が再び動かなくなった。


 しばらくして、誰かが俺の肩と腕をつかんだ。


 地面から持ち上げられる。


 奈緒がどこへ運ばれたのかは、もう見えなかった。


 家へ運ばれ、布団へ下ろされた。


 近くで人が行き来している。


 宮内先生の声がした。


 水を沸かせ。


 布を持ってこい。


 灯りを増やせ。


 奈緒の名が何度も呼ばれた。


 俺は返事をしようとした。


 喉の奥で、低い音が鳴った。


 誰もこちらへは来なかった。


 水の音が遠くなった。


 目を開けると、障子が明るくなっていた。


 居間に敷かれた布団の中にいた。


 身体を起こす。


 腕は一度で動いた。


 脚にも力が入った。


 寝間着の袖に土がついている。


 右肩の布が裂け、細い木片が挟まっていた。


 昨夜、奈緒の悲鳴を聞いた。


 階段を追い、二人とも斜面へ落ちた。


 岩田さんたちが駆けつけた。


 夢ではなかった。


「奈緒」


 呼んだ。


 返事はない。


 奥の部屋との間の襖が閉じられていた。


 家の中に人の気配がある。


 低い話し声が聞こえた。


 立ち上がり、襖へ近づく。


「起きたか」


 廊下側から岩田さんの声がした。


 襖が少しだけ開く。


 岩田さんが隙間からこちらを見る。


「奈緒は?」


「横になっとる」


「怪我は」


 岩田さんは答えなかった。


「会わせてくれ」


「今は、そこにおれ」


「奈緒は俺の妻だ」


 襖へ手を掛ける。


 岩田さんが向こう側から押さえた。


「先生が、明け方まで診てくれた」


 手が止まった。


「それで、奈緒は」


 岩田さんは下を向いた。


「家へ運んだときは、まだ息があった」


「なら」


「明け方に、止まった」


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。


 襖の向こうで、女の泣く声がした。


「見せてくれ」


 岩田さんはしばらく動かなかった。


 やがて、襖から手を離した。


 奥の部屋の戸が少し開く。


 昨日、奈緒が一人で寝るために敷いた布団が見えた。


 その上に、誰かが横たわっている。


 顔には白い布が掛けられていた。


 布団の端から、奈緒の髪が出ている。


 部屋へ入ろうとした。


「近づくな」


 岩田さんが言った。


「触るだけだ」


「駄目じゃ」


 奈緒の最後の顔を思い出した。


 俺を見て、怯えていた。


 来ないで、と繰り返していた。


 家の裏から、折れた木が風に揺れる音がした。


 正吉さんは、沼で俺の肩越しを見ていた。


 ――あれのせいじゃ。


 あのときは、何もいないと思った。


 だが、奈緒には何かが見えた。


 白い布の下で、奈緒は動かなかった。


 俺が山から持ち帰ったものが、奈緒を殺した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。