第八話 四 妻
懐中電灯の光が顔へ当たった。
目の奥に、白いものが広がった。
口を動かす。
すぐには声が出なかった。
「奈緒」
奈緒は答えなかった。
懐中電灯を握る手が揺れている。
「床が」
言葉が途切れた。
もう一度、口を動かす。
「濡れてる」
布を持ち上げて見せようとした。
腕は途中までしか上がらなかった。
奈緒が、俺の胸を見た。
目が大きく開く。
「息」
奈緒の唇が震えた。
「してない」
俺は息を吸おうとした。
胸が動いたかどうか、自分でも分からなかった。
「寝てたから」
声が出るまでに間があった。
奈緒が短い悲鳴を上げた。
「どうした」
奈緒は襖へ背中をぶつけた。
そのまま後ろへ下がる。
「奈緒」
右手を畳へつく。
身体を持ち上げようとする。
膝が床を擦った。
立とうとしたが、脚は身体についてこなかった。
「来ないで」
奈緒が言った。
「俺だ」
もう一度、悲鳴が上がった。
懐中電灯の光が大きく揺れる。
顔から光が外れた瞬間、口が動かなくなった。
奈緒は居間を抜けた。
光が廊下の奥へ遠ざかる。
俺は壁へ手をついた。
天井の照明から離れると、身体はさらに動かなくなった。
廊下の床へ膝をつく。
奈緒の懐中電灯が、こちらへ向いた。
光が胸から顔へ当たる。
「そっち」
声を出す。
「危ない」
奈緒は振り返らなかった。
裏口の戸を開ける。
外の暗さが口を開けた。
軒下の小さな灯りが、階段の上だけを照らしていた。
奈緒が最初の段へ足を置く。
俺は壁や柱へ手をつき、少しずつ近づいた。
「待て」
声が掠れた。
奈緒は階段を下りながら、一度だけ振り返った。
懐中電灯の光が俺へ向く。
奈緒の目が大きく開いた。
俺を見ながら、俺から逃げていた。
後ろ向きに、次の段へ足を下ろす。
「前を見ろ」
近づこうとした。
「来ないで!」
奈緒が手すりをつかんだ。
木が低く鳴った。
昼に打ちつけた板が傾く。
「手すりから離れろ」
奈緒の身体が、さらに後ろへ下がった。
柱が根元から剥がれた。
踏み板が割れる。
奈緒の身体が、階段の外へ消えた。
短い声がした。
枝の折れる音が続く。
「奈緒!」
考えるより先に、身体を前へ出そうとした。
軒下の灯りへ腕を伸ばす。
柱をつかみ、階段へ身体を寄せる。
脚は思ったように動かなかった。
一歩遅れて出た足が、最初の段へ掛かる。
板が大きく沈んだ。
黒い木屑が隙間から噴き出した。
足を引こうとした。
間に合わなかった。
踏み板が抜ける。
身体が前へ傾いた。
腕を伸ばしたが、何もつかめない。
階段の角へ肩が当たった。
そのまま斜面へ落ちた。
空と家の明かりが、一度だけ入れ替わった。
地面へ身体がぶつかる。
痛みはなかった。
奈緒が近くにいた。
横向きに倒れ、片腕を身体の下へ巻き込んでいる。
「奈緒」
近づこうとした。
軒下の灯りは、ここまでは届かなかった。
身体が動かない。
奈緒の懐中電灯が、少し離れた地面へ落ちていた。
横倒しの光が、奈緒の顔と俺の右腕を照らしている。
光の中へ手を伸ばす。
指が土を掻いた。
少しだけ身体が動いた。
奈緒の口元に、暗いものがにじんでいた。
目は開いている。
俺を見る。
唇が動いた。
「来ないで」
ほとんど息だけの声だった。
「助ける」
声が出るまでに時間がかかった。
奈緒は首を動かそうとした。
身体がわずかに震える。
俺はもう一度、光の中で腕を伸ばした。
指先は届かなかった。
奈緒の目は、最後まで俺を見ていた。
家の前から声がした。
「何だ!」
岩田さんだった。
懐中電灯の光が、斜面の上を動く。
「奈緒さん!」
いくつもの足音が近づいた。
光が奈緒へ集まる。
宮内先生が斜面を下りてきた。
奈緒の首へ指を置き、顔を口元へ近づける。
「息がある」
「戸板を持ってこい!」
「腹を打ってるかもしれない。動かすときはゆっくりだ」
奈緒の身体が持ち上げられる。
宮内先生が頭と首を支え、岩田さんたちが斜面の上へ運んでいく。
俺の名も呼ばれた。
懐中電灯が顔へ向けられる。
まぶたが動いた。
「こっちも反応はある」
「怪我は?」
「見える範囲にはない」
「奈緒さんを先に運べ」
光が遠ざかる。
身体が再び動かなくなった。
しばらくして、誰かが俺の肩と腕をつかんだ。
地面から持ち上げられる。
奈緒がどこへ運ばれたのかは、もう見えなかった。
家へ運ばれ、布団へ下ろされた。
近くで人が行き来している。
宮内先生の声がした。
水を沸かせ。
布を持ってこい。
灯りを増やせ。
奈緒の名が何度も呼ばれた。
俺は返事をしようとした。
喉の奥で、低い音が鳴った。
誰もこちらへは来なかった。
水の音が遠くなった。
目を開けると、障子が明るくなっていた。
居間に敷かれた布団の中にいた。
身体を起こす。
腕は一度で動いた。
脚にも力が入った。
寝間着の袖に土がついている。
右肩の布が裂け、細い木片が挟まっていた。
昨夜、奈緒の悲鳴を聞いた。
階段を追い、二人とも斜面へ落ちた。
岩田さんたちが駆けつけた。
夢ではなかった。
「奈緒」
呼んだ。
返事はない。
奥の部屋との間の襖が閉じられていた。
家の中に人の気配がある。
低い話し声が聞こえた。
立ち上がり、襖へ近づく。
「起きたか」
廊下側から岩田さんの声がした。
襖が少しだけ開く。
岩田さんが隙間からこちらを見る。
「奈緒は?」
「横になっとる」
「怪我は」
岩田さんは答えなかった。
「会わせてくれ」
「今は、そこにおれ」
「奈緒は俺の妻だ」
襖へ手を掛ける。
岩田さんが向こう側から押さえた。
「先生が、明け方まで診てくれた」
手が止まった。
「それで、奈緒は」
岩田さんは下を向いた。
「家へ運んだときは、まだ息があった」
「なら」
「明け方に、止まった」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
襖の向こうで、女の泣く声がした。
「見せてくれ」
岩田さんはしばらく動かなかった。
やがて、襖から手を離した。
奥の部屋の戸が少し開く。
昨日、奈緒が一人で寝るために敷いた布団が見えた。
その上に、誰かが横たわっている。
顔には白い布が掛けられていた。
布団の端から、奈緒の髪が出ている。
部屋へ入ろうとした。
「近づくな」
岩田さんが言った。
「触るだけだ」
「駄目じゃ」
奈緒の最後の顔を思い出した。
俺を見て、怯えていた。
来ないで、と繰り返していた。
家の裏から、折れた木が風に揺れる音がした。
正吉さんは、沼で俺の肩越しを見ていた。
――あれのせいじゃ。
あのときは、何もいないと思った。
だが、奈緒には何かが見えた。
白い布の下で、奈緒は動かなかった。
俺が山から持ち帰ったものが、奈緒を殺した。




