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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第八話 三 夜の身体

 夕方になっても、寝室の床は乾かなかった。


 窓を開けていても、甘い臭いが家の中へ残った。


 奈緒は台所で夕飯の支度をしていた。


 包丁がまな板へ当たる。


 以前と同じ音だった。


 その音を聞いていると、家の中も、俺たちも、まだ元のままでいるように思えた。


 玄関の戸が叩かれた。


 奈緒が手を止める。


「俺が出る」


「座ってて」


 奈緒は口元へ布を巻き、戸を少しだけ開けた。


 外に岩田さんが立っていた。


「先生は?」


「正吉さんと、熱のある家を診とる。今夜は村に残るそうじゃ」


「熱を出した人は?」


「うちの婆さんと古川さんは、まだ高い。それと、斉藤のところの奥さんも、さっき熱が出た」


 奈緒が振り返る。


 俺は立ち上がった。


「手伝いに行く」


「来るな」


「三軒になったんだろ」


「だからじゃ」


「人が足りない」


「お前が出てきたら、余計に人手がいる」


 岩田さんの声に迷いはなかった。


「先生にも、家から出すなと言われとる」


「俺はもう熱はない」


「分かっとる」


「なら、どうして出ちゃいけない」


「今は家におれ」


「正吉さんは?」


「家へ戻った。朝よりは動けとる」


「身体は、どうなんですか」


 奈緒が聞いた。


 岩田さんは、少し首を傾けた。


「それが、よう分からん」


「どういうことですか」


「朝は、身体がひどく傷んどると言っとっただろ」


「はい」


「黒い染みが広がっとるとか、触ると沈むところがあるとか」


 岩田さんは自分の腕を見た。


「さっき先生がもう一度見たら、どれも見当たらんそうじゃ」


「なくなったんですか」


「服を替えて、身体を拭いたからかもしれん。朝に見た者が慌てとっただけかもしれん」


「先生は?」


「分からんと言っとる」


 岩田さんは正吉さんのいる家のほうを見た。


「とにかく、今は朝より元気じゃ」


 奈緒が戸へ手を掛けた。


「何か必要なものはありますか」


「今は足りとる。何かあれば、こっちから来る」


「分かりました」


 戸が閉じた。


 鍵の掛かる音がした。


 夕飯は、芋と大根を煮たものだった。


 奈緒は俺の分を少なめに盛った。


 自分の椀にも、ほとんど手をつけない。


 俺が椀を下げようと手を伸ばすと、奈緒が先に取った。


 指が触れた。


 奈緒はすぐに手を離した。


「冷たい」


「部屋が冷えてるからだろ」


「ストーブの前にいたのに」


 奈緒は自分の指を握った。


  湯を飲む。


 朝と同じ、古い金属のような味がした。


 熱さに紛れれば、何とか喉を通る。


 それでも渇きは消えなかった。


「冷たい水のほうがいい?」


 奈緒が聞いた。


「昨日飲んだけど、飲めたものじゃなかった」


「じゃあ、もう一度沸かす?」


「ああ」


 空になった茶碗を置いた。


 口の中には、まだ嫌な味が残っていた。


 外の明るさが、少しずつ失われていった。


 腕が重くなる。


 指を動かすと、思ったより遅れて曲がった。


 立ち上がろうとして、畳へ手をつく。


 一度では腰が上がらなかった。


 奈緒がこちらを見る。


「また具合が悪いの?」


「疲れただけだ」


「先生を呼ぶ?」


「呼ばなくていい」


 もう一度力を入れる。


 今度は立てた。


 数歩進むうちに、脚の動きがさらに遅くなる。


「早く寝たほうがいいよ」


 居間の壁際には、俺の布団だけが敷かれていた。


 枕元には湯冷ましと茶碗が置かれている。


 天井の照明はついたままだった。


「電気は?」


「そのままにしておく」


「眠れないだろ」


「消さないで」


 奈緒の声が強かった。


「分かった」


 布団へ入る。


 身体の重さが増した。


 腕や脚へ、濡れた布を何枚も巻かれたようだった。


 奈緒は台所を片づけた。


 戸棚が開く音。


 水を流す音。


 椀が重なる音。


 やがて、奥の部屋の襖が閉じた。


 天井の照明を見た。


 光は届いている。


 それでも、昼のようには身体が動かなかった。


 顔や布団の外へ出した手には、まだ感覚がある。


 布団の中の脚は、どこにあるのか分かりにくかった。


 目を閉じた。


 眠ったのかどうかは分からない。


 水の落ちる音を聞いていた。


 床を叩くような音が混じった。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 目を開けた。


 照明はついている。


 布団の脇に、黒い水が溜まっていた。


 寝室から拭き取ったものと同じ染みが、居間の畳へ伸びている。


 布団の中から腕を出した。


 肘まで動いたところで止まる。


 もう一度力を入れる。


 掌が畳へついた。


 身体を横へ向ける。


 一度には起き上がれなかった。


 何度か腕の位置を変え、ようやく上半身を持ち上げる。


 膝を立てたつもりだった。


 片方だけが遅れて動いた。


 床へ手をつき、染みのそばまで身体を寄せる。


 置いてあった布を取った。


 黒い水へ押し当てる。


 布が湿る。


 染みは消えなかった。


 もう一度拭く。


 腕が床へ届くまでに時間がかかった。


 廊下の奥で、襖が開いた。


 奈緒が立っていた。


 片手に懐中電灯を持っている。


 光が床を照らした。


 黒い染み。


 畳へ手をついた俺の腕。


 布を握った指。


 光がゆっくり上がった。


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