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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第八話 二 腐る家

 正吉さんは、共同作業場の近くにある空き家へ移された。


 俺は再び家へ戻された。


「勝手に出ないで」


 奈緒が玄関の鍵を掛けた。


「正吉さんが起きたんだぞ」


「見たよ」


「死んでなかった」


「先生は、そうは言い切ってない」


「今は生きてるんだろ」


「そうだけど」


「俺も同じだったんだ」


 奈緒は鍵へ手を置いたまま、振り返らなかった。


「高い熱が出て、身体が動かなくなった。朝になって戻った」


「そうかもしれない」


「なら、昨夜のことも説明がつくだろ」


 奈緒は答えなかった。


 家の中には、朝から湿った臭いが残っていた。


 雨のあとの木や畳の臭いだと思っていたが、それだけではない。


 刈った草を濡れたまま積んだときのような、甘い腐臭が混じっていた。


「布団を片づけよう」


 奈緒が言った。


「俺がやる」


「先生は安静にしろって」


「俺が使ったものだろ」


 寝室へ入る。


 昨夜の布団は、敷いたままになっていた。


 掛け布団を持ち上げると、下から強い臭いが立った。


 敷布団の中央が灰色に変わっている。


 頭から腰の辺りまで、俺が寝ていた形に沿って濡れていた。


「汗か」


 指で押す。


 透明な水がにじんだ。


 奈緒が顔を近づけ、すぐに離した。


「こんな臭い、昨日はしなかったよ」


「熱があったからだろ」


「昨日の朝に敷いたばかりなのに」


 布団をめくった。


 下の畳にも、同じ形の染みがついていた。


 中央から細い筋が何本も伸びている。


 泥水が、木の根を伝って広がったように見えた。


 畳の縁で、白いものが動いた。


 糸くずだと思った。


 指を近づけると、板の隙間へ入り込んだ。


「虫がいる」


「どこ?」


「もう入った」


 奈緒が一歩下がった。


「山から持ってきたものかもしれない」


 宮内先生の言葉を思い出す。


 沼の水か。


 泥か。


 虫か。


「布団を外へ出して、床を拭く。触ったものも分けたほうがいい」


「あなたは触らないほうがいいんじゃないの」


「俺から出たものなら、今さらだろ」


 布団を丸めた。


 湿って重くなっているはずなのに、簡単に持ち上がった。


 奈緒が手を伸ばす。


「持つよ」


「いい」


 その手を避けた。


 奈緒のために言ったつもりだった。


 だが奈緒はその場に残り、俺が布団を運ぶのを見ていた。


 軒下へ出す。


 沼で着ていた服を入れた袋は、昨日、ほかの寝具と一緒に燃やしていた。


 それでも板の上には、濁った水の染みが残っていた。


 染みは壁際まで伸び、裏口の敷居へ届いている。


 布団を置くと、床板が低く鳴った。


「袋をもう一枚持ってくる」


 奈緒が裏口へ向かった。


「どこへ行く」


「納屋。大きい袋があるから」


 戸を開け、外階段へ足を置く。


 手すりが低く鳴った。


「待て」


 奈緒が振り返る。


 手すりの根元をつかむ。


 柱がわずかに動いた。


 階段の横板にも、寝室の床と同じ黒い染みが浮いている。


「前から、こんなだったか」


「雨で傷んだんじゃない?」


 柱を押した。


 表面は硬かった。


 それなのに力を入れると、内側だけが潰れるような感触がある。


「今日は使うな」


「袋は?」


「玄関から回る」


「でも」


「落ちたらどうする」


 奈緒は手すりから手を離した。


 納屋へは玄関側から回れる。


 道具を取りに行き、手すりの根元へ板を添えた。


 釘を打つ。


 ほとんど抵抗なく、木の中へ沈んだ。


 何本か打つと、揺れは小さくなった。


「これで大丈夫?」


「一時的にはな。体重は掛けるなよ」


 奈緒は補修した場所ではなく、俺の手を見ていた。


「どうした」


「何でもない」


 寝室へ戻り、畳を上げた。


 裏側まで黒く変わっている。


 畳の下の板も湿り、踏むとわずかに沈んだ。


「昨日までは何ともなかったよ」


「気づかなかっただけだろ」


「この部屋、雨漏りしたことないでしょう」


「今回の雨はひどかった」


「でも、濡れてるのは、あなたが寝てたところだけだよ」


 手が止まった。


 床には、布団の下から続く黒い染みが残っている。


「山から菌を持ち帰ったんだ」


 俺は言った。


「服や身体についていたんだろ。ここを片づければ、それで済む」


 奈緒は答えなかった。


 床を拭き、使った布を袋へまとめた。


 何もなくなった寝室は、以前より広く見えた。


「今夜は居間に寝る」


 俺が言った。


「私は奥の部屋で寝る」


 奈緒はすぐに答えた。


「別に寝るのか」


「先生も、寝具は分けろって言ってたでしょう」


「同じ部屋でも離せばいい」


「呼んでも起きなかったら、怖いから」


「昨夜は深く寝てただけだ」


「分かってる」


 そう言いながら、奈緒は俺を見なかった。


「病気かもしれないから。今夜だけ」


 奈緒は部屋を出ていった。


 襖の向こうで、布団を運ぶ音がした。


 昨日まで、二人で眠っていた。


 熱が下がれば、元に戻れると思っていた。


 床を見る。


 拭いたばかりの場所に、また薄い湿り気が浮いていた。


 昼を過ぎたころ、井戸の滑車が何度も鳴った。


 窓から外を見る。


 正吉さんが、井戸のそばへ座っていた。


 着替えた服の裾を濡らし、片方の足には草履だけを引っ掛けている。


 岩田さんが、桶から茶碗へ水を注いだ。


 正吉さんは両手で受け取り、すぐに飲み干した。


 空になった茶碗を差し出す。


 岩田さんがもう一杯注ぐ。


 それも飲んだ。


「ずっと飲んでるね」


 奈緒が言った。


「よほど渇いてるんだろ」


「先生は止めなかったのかな」


「何も飲まないよりはいいと思ったんじゃないか」


 正吉さんは三杯目を飲んだ。


 口元からこぼれた水が、顎と首を伝って服へ入る。


 濡れた両手で井戸の縁をつかみ、自分で立ち上がった。


 朝、棺の中で震えていた腕は、もう身体を支えていた。


 井戸の周りには、何度もこぼれた水が広がっていた。


 正吉さんは空の茶碗を置くと、今度は桶へ直接顔を近づけた。


 岩田さんが止める。


 正吉さんは顔を上げ、また茶碗を差し出した。


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