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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第八話 一 診察

 目を開けると、障子が明るくなっていた。


 隣の布団に奈緒はいなかった。


 身体を起こす。


 昨夜、胸の上から動かなかった腕が、今は一度で身体を支えた。指も思ったとおりに曲がる。


 立ち上がると、足元がわずかに揺れた。


 熱のあとだからだと思った。


 襖を開けた。


 奈緒は居間に座っていた。


 膝へ毛布を掛け、消えかけたストーブの前で湯を沸かしている。着ているものは昨夜と同じだった。


「早いな」


 声をかけると、奈緒の肩が動いた。


 振り返り、しばらく俺を見た。


「起きたの」


「ああ」


「身体は?」


「昨日より楽だ」


 居間へ入る。


 奈緒の視線が、俺の顔から胸へ下がった。


 すぐに、やかんへ戻る。


「寝てないのか」


「少し寝たよ」


「嘘つけ」


「先生が来るから、起きてようと思って」


 窓の外へ目を向けた。


 山の上にはまだ雲が残っていたが、昨日より空は明るかった。屋根から落ちる水の間隔も長くなっている。


「何時に来るんだ」


「向こうを出るときに電話するって」


「道は渡れるのか」


「岩田さんたちが迎えに行った」


 俺も行くべきだった。


 そう思ったが、昨日、岩田さんから家を出るなと言われている。


 奈緒が湯を茶碗へ注いだ。


「飲む?」


「ああ」


 受け取る。


 湯気が顔へ当たった。


 茶碗を口へ近づけ、一口飲む。


 古い金属に似た味がした。


 昨日飲んだ井戸水と同じ味だったが、熱さに紛れて少し薄く感じた。


「熱くない?」


「熱い」


「飲めそう?」


「まずいけど、昨日のよりはましだ」


 もう一口飲む。


 舌の上へ残る味は嫌だったが、吐き出すほどではなかった。


 茶碗の半分ほどを飲んだ。


 それでも喉の渇きは消えなかった。


 奈緒は、俺が茶碗を置くまで見ていた。


「何だよ」


「別に」


 外から声がした。


 何人かが道を上がってくる。


 奈緒が立ち上がった。


「来たのかも」


 玄関の戸が叩かれた。


「先生を連れてきたぞ」


 岩田さんの声だった。


 奈緒が戸を開けた。


 岩田さんの後ろに、宮内先生が立っていた。


 白いマスクを着け、いつもの黒い鞄を持っている。月に何度か村へ来て、足の悪い者や、薬を切らせない者を順番に診ている先生だった。


 宮内先生は俺を見ると、眉を寄せた。


「立っていて大丈夫なのか」


「もう平気です」


「それは診てから決める」


 いつもと同じ言い方だった。


 長靴の泥を落とし、家へ入る。


「奈緒さん、窓を少し開けてください」


「はい」


「岩田さんは外で待っていてください」


 岩田さんが戸を閉めた。


 宮内先生は手を消毒し、俺を居間へ座らせた。


「昨日は立てなかったんだろう」


「話が早いですね」


「来るまでに、岩田さんから同じ話を三回聞いた」


 熱が出た時間や、そのときの様子は奈緒が答えた。


 宮内先生は体温を測り、腕の傷を確かめ、胸と背中へ聴診器を当てた。


「体温は低いな」


「どのくらいですか」


「三十五度を少し超えたくらいだ」


 続いて手首をつかみ、長く指を当てる。


「脈も遅い」


「悪いんですか」


「それだけでは決められない。胸の音には、はっきりした異常はない」


 宮内先生は俺の顔を見た。


「食事は?」


「ほとんど食べてません。味も匂いも、分からないみたいで」


 奈緒が答えた。


「薄いだけだ」


「高熱のあとで鈍ることはある」


 宮内先生は道具を鞄へ戻しかけ、奈緒を見た。


「ほかに変わったことは?」


 奈緒が顔を上げる。


「昨夜、呼んでも返事がなくて」


「眠ってたんだろ」


「何度呼んでも、しばらく目を開けなかった」


 奈緒の視線が俺の胸へ落ちた。


「胸が動いているのか、分からなくて」


 居間が静かになった。


「触って確かめた?」


「胸に手を置きました。顔へ近づいても、息が分からなくて」


「灯りをつけてからは?」


「声をかけたら、返事はしました」


 宮内先生は一度頷いた。


「高熱のあとで眠りが深くなり、呼吸がかなり浅くなっていた可能性はある」


 奈緒は黙っていた。


「先生」


「うん」


「一夜熱なんですか」


 宮内先生の手が止まった。


「岩田さんも、同じことを言っていた」


「先生は知ってるんですか」


「一夜熱という名前の病気は聞いたことがない」


 奈緒の肩から、わずかに力が抜けた。


「ただ、名前がないから、病気もないということにはならない」


 奈緒が先生を見る。


「同じ山へ入った二人が、同じ晩に高い熱を出した。その一人は亡くなり、触れた人にも熱が出ている。沼の水か、泥か、虫かは分からないが、山にある何かを村へ持ち込んだ可能性はある」


「昔から言われていたことは?」


「過去にも、似たことが起きたのかもしれない。それが病気だとは分からないまま、一晩で死ぬ熱として残った可能性はある」


「治るんでしょうか」


 宮内先生は俺を見た。


「少なくとも、目の前に熱の下がった人間はいる」


「俺はもう治ったんですか」


「それはまだ決められない」


 鞄を閉じる。


「今は感染症として扱う。水は沸かす。寝具や使った布は分ける。患者へ近づく人間を減らす。今夜も反応がなくなったら、すぐに連絡してください」


「分かりました」


「お前は今日一日、家から出るな」


「人が足りないでしょう」


「何の病気か分からない人間に歩き回られるほうが困る」


 言い返せなかった。


「正吉さんは?」


 俺が聞く。


「これから診る」


「もう亡くなってます」


「分かってる」


 宮内先生の手が、鞄の持ち手で止まった。


「それでも、私が見ます」


 先生と岩田さんは共同作業場へ向かった。


 戸を閉めると、奈緒が鍵を掛けた。


「先生も、大丈夫そうだって言ってたな」


「そんなことは言ってないよ」


「胸には異常がないって」


「家から出るなって言ってた」


「分かってる」


 奈緒は返事をしなかった。


 昼近くまで、人が道を行き来した。


 宮内先生は共同作業場へ入ったあと、岩田さんの家へ向かい、次に古川さんの家へ移った。


 俺は何度か外へ出ようとした。


 そのたび奈緒に止められた。


 正午を過ぎたころ、共同作業場のほうから叫び声がした。


 奈緒が窓へ近づく。


「何?」


 俺も立ち上がった。


 道を何人かが走っていく。


 共同作業場の戸口へ人が集まっていた。


「家にいて」


 奈緒が言った。


 聞かずに玄関へ向かった。


 鍵を開けて外へ出る。


「待って」


 奈緒があとを追ってきた。


 共同作業場の前には、岩田さんと斉藤さん、宮内先生がいた。


 戸は大きく開けられている。


 棺の蓋が床へ下ろされていた。


 正吉さんは、棺の中で上半身を起こしかけていた。


 片手を棺の縁へ掛けている。


 肘が震え、それ以上は身体を持ち上げられない。


「正吉さん」


 俺が呼んだ。


 目がこちらへ動いた。


 口が何度か開く。


「水」


 掠れた声が出た。


 宮内先生が水筒を開けた。


「少しずつ飲んでください」


 湯冷ましを器へ注ぎ、正吉さんの口元へ運ぶ。


 正吉さんは一口含んだ。


 すぐに顔を背けた。


 水が口の端から首へ流れる。


「飲めませんか」


「水」


「これが水です」


 正吉さんは首を振った。


「井戸」


 周囲にいた者が顔を見合わせた。


「今は沸かした水のほうがいいです」


 宮内先生が言った。


「井戸」


 正吉さんは棺の縁へ指を掛けた。


 身体を引き上げようとする。


 腕に力が入らず、肩が棺の内側へ落ちた。


「何も飲まんぞ」


 岩田さんが言った。


「少しくらいなら、いかんか」


「井戸水が関係している可能性もあります」


「わしらは毎日飲んどる。大丈夫じゃろ」


「今まで大丈夫だったからといって、今回も安全とは限りません」


「だが、このまま何も飲ませんわけにもいかん」


「井戸」


 正吉さんは同じ言葉を繰り返した。


 宮内先生は、しばらく黙っていた。


「一度だけです。咳き込んだり吐いたりしたら、やめてください」


 斉藤さんが井戸へ走った。


 しばらくして、桶から汲んだ水を茶碗へ入れて戻ってきた。


 正吉さんは、茶碗が口元へ来る前から顔を近づけた。


 一口飲む。


 喉が大きく動いた。


 続けて飲んだ。


 茶碗を持つ斉藤さんの手へ、自分の手を重ねる。


「ゆっくり」


 宮内先生が止めた。


 正吉さんは茶碗を離さなかった。


 一杯を飲み干す。


「もう一つ」


「一度に飲みすぎです」


「水」


 結局、正吉さんは三杯飲んだ。


 最後の一杯を飲み終えるころには、棺の縁へ置いていた腕の震えが弱くなっていた。


 自分で上半身を起こす。


 棺の外へ脚を出した。


 片方は裸足だった。


 宮内先生が肩を支える。


「立てますか」


 正吉さんは返事をせず、床へ足をついた。


 一度ふらついた。


 それでも、倒れなかった。


 宮内先生は椅子へ座らせ、手首へ指を当てた。


 何度か位置を変える。


 聴診器を胸へ当てた。


「脈はあります」


「あるのか」


 岩田さんが聞いた。


「かなり遅いですが、あります。呼吸もしています」


「昨日はなかった」


「死亡の確認をしたのは誰ですか」


「俺と斉藤だ」


「宮内先生が来る前だった」


 宮内先生は正吉さんの瞼を持ち上げた。


「極端に体温が下がり、脈も呼吸も分からないほど弱くなっていたのかもしれません」


「身体も傷んどった」


「長時間泥水へ浸かったことや、高熱の影響はあるでしょう。皮膚の状態もよくありません」


「死んでなかったのか」


 斉藤さんが聞いた。


 宮内先生は、すぐには答えなかった。


「今は脈と呼吸があります」


 正吉さんが俺を見た。


「お前も起きたか」


「何から?」


「朝になった」


 それだけ言い、立ち上がろうとした。


「まだ動かないでください」


「井戸へ行く」


「さっき飲んだでしょう」


「足りん」


 周囲の村人は、誰も棺へ近づかなかった。


 俺だけが、正吉さんの顔を見ていた。


 昨夜、床へ崩れた顔。


 朝、動かなかった身体。


 棺の中から起きた正吉さん。


 どこまでが高熱の中で見たものだったのか、分からなくなっていた。


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