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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第七話 五 医者を待つ

 岩田さんたちは、熱を出した家へ向かった。


 斉藤さんも一緒に歩き始めた。


 途中で立ち止まり、山のほうを見る。


「朝まで、もつんか」


 誰に聞いたのか分からなかった。


 答える者はいない。


 家へ入ると、奈緒が戸を閉めた。


 鍵までかける。


「鍵はいいだろ」


「念のため」


「誰が入ってくるんだ」


 奈緒は答えなかった。


 外から誰かが入ることを恐れているのか、俺が外へ出ることを止めたいのか分からなかった。


 夕飯は、昼の雑炊の残りだった。


 奈緒は自分の分に漬物を出した。


 俺の前にも置こうとして、手を止める。


「食べられそう?」


「食べるよ」


 椀を受け取った。


 湯気が顔へ当たる。


 熱さは分かった。


 匙を口へ運ぶ。


 昼よりも、さらに味が薄くなっていた。


 米の柔らかさだけが舌へ残る。


「やっぱり味がしない?」


「少しはする」


「本当に?」


「ああ」


 奈緒は自分の雑炊を一口食べた。


「普通だよ」


「俺の舌がおかしいんだろ」


「熱のせいかな」


「たぶんな」


 半分ほど食べたところで、匙を置いた。


「もういいの?」


「腹が減ってない」


「昼もほとんど食べてないでしょう」


「寝てただけだから」


 代わりに水を飲んだ。


 古い金属のような味がした。


「変な味がする」


「昨日と同じ水だよ」


「ほかの水はないか」


「井戸から汲んでこようか」


「今のは?」


「朝に汲んだ井戸水だけど」


 奈緒が水筒を見た。


「汲み直してくる?」


 喉は焼けるように渇いていた。


 冷たい水なら飲めるかもしれないと思った。


「少しだけ頼む」


 奈緒が水筒を持って井戸へ行った。


 戻ってきた水を茶碗へ注ぐ。


 濡れた土の臭いがした。


 一口飲んだ。


 冷たさは分かった。


 だが、泥を薄めたような味が舌へ残り、喉を通ったあとも渇きは変わらなかった。


「これも駄目だ」


「吐きそう?」


「まずい」


 茶碗を置いた。


 口の中に残った味を消したかったが、ほかに飲めるものはなかった。


 喉の奥は、飲む前より乾いているように感じた。


 外が暗くなると、水路の音が大きくなった。


 昼のあいだは人の声や作業の音に紛れていたが、夜になると、家の周りを水が囲んでいるように聞こえる。


 誰かが道を走った。


 戸を叩く音が、少し離れた家から聞こえた。


 そのあと、女の泣く声がした。


 奈緒が窓へ近づく。


「どこだろう」


「古川さんの家じゃないか」


「見てくる?」


 言ったあと、奈緒は俺を見た。


「いや」


「行かないほうがいい」


 家にいるよう言われたからではない。


 俺が近づかないほうがいい気がした。


 やがて泣き声は聞こえなくなった。


 代わりに、何人かが低い声で話しながら歩いていく音がした。


 村の中にいながら、家ごとに切り離されていた。


 奈緒は早めに布団を敷いた。


「寝たほうがいいよ」


「ああ」


「また熱が出たら、すぐ言って」


「分かった」


 布団へ入った。


 横になると、身体の重さが増した。


 昼間は普通に動いていた腕が、胸の上へ置いたまま動かしにくくなる。


 指を曲げた。


 少し遅れて動いた。


 眠気も強かった。


 奈緒が隣へ入った。


 電気が消える。


 しばらく、水路の音だけが続いた。


「寒くない?」


 奈緒が聞いた。


「大丈夫だ」


「布団、もう一枚かけようか」


「いらない」


「身体、冷えてるよ」


 奈緒の手が腕へ触れた。


 昼間に額へ触れられたときより、手が熱く感じた。


「外が冷えてきたからだろ」


「でも」


「眠いんだ」


 声を出すのが面倒になっていた。


 口を動かしてから、音が出るまでにわずかなずれがある。


 目を閉じた。


 どれほど経ったのか分からない。


 水の音が遠くなっていた。


 奈緒が寝返りを打つ。


 布団が擦れる。


 次に、奈緒の手が胸へ触れた。


 目を開けようと思った。


 まぶたはすぐには動かなかった。


 手が胸の上をゆっくり移動する。


 何かを探しているようだった。


 奈緒の顔が近づく。


 頬へ息が触れた。


「息、してる?」


 返事をしなければならないと思った。


 口を開こうとした。


 舌がうまく動かない。


 枕元で、小さな灯りがついた。


 奈緒の手が離れたのだと思った。


 光が顔の片側へ当たる。


 まぶたが動いた。


「どうした」


 ようやく声が出た。


 奈緒の身体が小さく跳ねる。


 灯りを持つ手が震えた。


「起きてたの?」


「今、起きた」


「そう」


「何してた」


「何も」


 奈緒は灯りを消さなかった。


 俺の顔と胸を交互に見ている。


「さっき、息をしてなかった」


「寝てたんだろ」


「寝ていても、息はするよ」


「気づかなかっただけだ」


 奈緒は答えなかった。


 灯りを床へ置く。


 俺へ背を向け、布団を肩まで引き上げた。


「寒いのか」


「少し」


「もう一枚出すか」


「いい」


 声が硬かった。


 腕を動かそうとした。


 奈緒の肩へ触れれば、落ち着くかもしれないと思った。


 腕は胸の上から、すぐには動かなかった。


 力を入れる。


 少しずつ肘が曲がる。


 指先が奈緒の背中へ届く前に、動きが止まった。


 何をしようとしていたのか、分からなくなった。


 もう一度、目を閉じた。


 眠りへ落ちる直前、正吉さんの声を聞いた。


「帰るぞ」


 目を開けようとした。


 まぶたは動かなかった。


 奈緒の寝息は、朝まで聞こえなかった。


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