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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第七話 四 残ったもの

 正吉さんの身体は、共同作業場へ残された。


 道路が通れず、火葬設備のある町まで運ぶことができない。


 集落にあった古い棺を出し、道が開くまで仮に納めておくことになった。


 俺は家へ戻された。


 奈緒はすぐに湯を沸かした。


「身体を拭いたほうがいいよ」


「風呂でいいだろ」


「まだやめたほうがいい。中で倒れたら困るから」


 居間へ座る。


 奈緒が桶を運んできた。


「服、脱げる?」


「ああ」


 上着へ手をかけた。


 昨夜のような重さはない。


 袖を抜くと、正吉さんの爪の跡が見えた。


 傷は残っていたが、周囲の黒ずみは薄くなっている。


「昨日よりよくなってる」


「熱が下がったからだろ」


 濡らした布で腕を拭かれた。


 冷たさは分かった。


 布が皮膚へ触れた感覚は、少し遅れて届いた。


「痛くない?」


「もう大丈夫だ」


 奈緒は傷を避けながら、首や背中を拭いた。


 窓の外を、男たちが通った。


 正吉さんの寝具や、山で着ていた服を運んでいる。


 村外れの空き地で燃やすことになったらしい。


 そのあと、正吉さんの身体を洗うために、井戸から何度も水が汲まれた。


 岩田さんたちは手袋の代わりに厚い布を手へ巻き、正吉さんの服を脱がせた。


 奈緒は手伝いに行こうとした。


「行かなくていい」


 俺が止めた。


「でも、人が足りないでしょう」


「正吉さんへ触った人間が、同じ熱を出すかもしれない」


「あなたも触ってる」


「だからだよ」


 奈緒は窓から外を見た。


 男たちが桶を運び、作業場の裏へ回っていく。


 しばらくして、水を捨てる音がした。


 濁った水が土の上を流れ、石の間へ消えていった。


 昼前、棺の蓋が閉められた。


 釘は打たなかった。


 宮内先生が来てから、もう一度身体を見てもらうことになった。


 奈緒が雑炊を作った。


 何口か食べる。


 温かいことは分かったが、味はほとんどしなかった。


 腹も減っていない。


 椀を置いたところで、外から声がした。


「いるか」


 岩田さんだった。


 奈緒が玄関へ向かう。


 岩田さんは土間へ立った。


 家には上がらなかった。


「正吉さん、納めたんですか」


「ああ」


 顔色が悪かった。


「何かあった?」


 奈緒が聞く。


 岩田さんは、しばらく口を開かなかった。


「正吉さんの身体が、おかしい」


 俺は立ち上がった。


「何が」


「もう傷み始めとる」


「傷むって」


「背中へ手を入れた者がおった。服の上から触っただけなのに、指が沈んだそうじゃ」


 岩田さんは、自分の背中へ手を当てた。


「身体を洗っとるうちに、首のところから水みたいなものが出てきた。顔にも黒い染みが広がっとる」


「亡くなったのは夜中でしょう」


 奈緒が言った。


「まだ半日もたってない」


「ああ」


「そんなに早く?」


「分からん。暑い時期でもない」


 外で足音がした。


 斉藤さんが玄関の前へ現れる。


「水じゃない」


 声が震えていた。


「斉藤」


「あれは水じゃない。身体の中が溶けて出とるんじゃ」


「落ち着け」


「服を脱がせたら、皮までついてきた」


 斉藤さんは自分の手を見た。


「俺も触った。手袋なんかしとらん」


「もう洗ったんだろ」


「洗って落ちるのか」


「分からんから、触った者は家へ戻れと言っただろ」


「触ったあとで言われても遅い」


 岩田さんが肩をつかんだ。


「斉藤。今日は誰にも近づくな」


「家へ持ち込んどったら、どうする」


「今は戻れ」


 斉藤さんは何か言おうとした。


 俺と目が合う。


 すぐに視線を逸らし、その場を離れていった。


「正吉さんはどうする」


 俺が聞く。


「棺へ入れたまま、作業場へ置く。服と寝具は燃やす」


「身体は?」


「道が開くまでは、どうにもならん」


「見に行く」


「駄目だ」


 岩田さんがすぐに言った。


「昨日の今日だ。お前は家にいろ」


「俺が連れて帰ったんだ」


「だから行くな」


 岩田さんは俺の腕の傷を見た。


「お前までまたおかしくなったら、奈緒さん一人でどうする」


 奈緒が俺の袖をつかんだ。


「今日は家にいて」


 頷くしかなかった。


 岩田さんが帰ったあと、軒下の袋を見た。


 昨日、沼で着ていた服が入っている。


 袋の中には泥水が溜まり、濡れた土と腐った落ち葉の臭いがしていた。


「これも燃やしたほうがいいね」


 奈緒が言った。


「ああ」


「洗わなくていいよね」


「触らないほうがいい」


 昼を過ぎると、村外れから煙が上がった。


 正吉さんの衣服や寝具と一緒に、俺の服も燃やされているのだろう。


 奈緒は窓を閉めた。


 俺は横になった。


 眠くはなかった。


 熱が下がったばかりなのに、身体は妙に軽い。


 喉だけが渇いていた。


 奈緒が持ってきた水を飲む。


 口へ入れた途端、古い金属のような味がした。


「変な味がする」


「昨日と同じ水だよ」


「もう少し冷たいのないか」


「井戸から汲んでくる?」


「いや」


 そう答えたあとも、喉の渇きは残った。


 夕方前、玄関の戸が乱暴に叩かれた。


 奈緒が開けるより先に、斉藤さんの声がした。


「岩田のところの婆さんが熱を出した」


 俺と奈緒は顔を見合わせた。


 外へ出ると、斉藤さんは朝より青い顔をしている。


「正吉さんに触ったのか」


「身体を拭くのを手伝っとった」


「ほかには?」


「古川さんもじゃ」


「古川さんは手伝ってないでしょう」


 奈緒が言う。


「作業場の裏へ、水を捨てるのを手伝っとった」


 斉藤さんは何度も首を振った。


「やっぱり持って帰ってきたんじゃ」


「何を」


「知らん!」


 斉藤さんが叫んだ。


「知らんが、山に置いてくるべきだったんじゃ!」


 叫んだあと、自分の手を見た。


「俺らが運んで、拭いて、村じゅうへ広げたんじゃないのか」


 岩田さんが後ろから追いついた。


「斉藤、やめろ」


「二人だけじゃ済まんぞ」


「まだ熱が出ただけだ」


「一夜熱じゃ!」


「決まったわけじゃない」


「同じ日に何人も出るか!」


 斉藤さんの声に、家から人が出てきた。


 誰も近くまでは来なかった。


「一夜熱の出た家は、家ごと絶えるんじゃろ!」


 奈緒の身体が強張った。


「昔の話だ」


 岩田さんが言った。


「なら、どうして山で熱を出した者を家へ入れるなって言い残した!」


 斉藤さんの声が村へ響く。


 誰も答えなかった。


 正吉さんを山から連れ帰ったのは俺だった。


 腕の爪痕を見る。


 正吉さんと俺が、同じ夜に熱を出した。


 正吉さんへ触れた人間も、次々に熱を出している。


 祟りでなければ、何かの病気なのかもしれない。


 沼の水か。


 泥か。


 傷から何かが入ったのか。


 そう考えたほうが、まだましだった。


 だが、正吉さんが死んだあとに口を開き、俺へ話しかけたことだけは、どこにも収まらなかった。


 集会所のほうから、男が走ってきた。


「電話が通じたぞ!」


 皆がそちらを向く。


「役場か」


 岩田さんが聞いた。


「ああ。向こうが岩田さんと話したいって。まだつながっとる」


 岩田さんはすぐに集会所へ向かった。


 斉藤さんも、そのあとを追った。


 俺も行こうとした。


 奈緒が袖をつかむ。


「あなたは行かないほうがいいよ」


「話を聞くだけだ」


「人が集まるでしょう」


 奈緒の視線が腕の傷へ落ちた。


 俺は足を止めた。


 しばらくして、岩田さんたちが戻ってきた。


「宮内先生と話せた」


 その一言で、集まっていた人たちの息が少し緩んだ。


「来てくれるのか」


 斉藤さんが聞く。


「明日の朝だ」


「今夜は?」


「無理じゃ」


「人が死ぬかもしれんのに」


 昼のうちに、村側から土砂崩れの場所までは確認していた。


 車は通れないが、人なら斜面側を回れそうだった。ただ、その先の道路が無事かは分かっていない。


「明日の朝、先生にも向こう側まで車で来てもらう」


 岩田さんが言った。


「こっちからも人を出して、崩れたところで落ち合う。先生だけ歩いて渡ってもらう」


「今夜は来られんのか」


「暗い中で、どこまで崩れとるか分からん道を歩かせられん」


 斉藤さんは口を閉じた。


「それまで、熱を出した者は家から出すなと言われた。世話をする者も一人にしろ。身体から出たものには、できるだけ素手で触るなと」


「正吉さんは?」


 俺が聞く。


「布を重ねて包んだ。朝、先生に見てもらう」


「腐ってることも話したのか」


「ああ」


「何て言ってた」


「見なければ分からんと」


 岩田さんは一度言葉を切った。


「ただ、そんなに早く傷むのは普通じゃないと」


 医者も知らない。


 そのことが分かると、少し緩んでいた空気がまた重くなった。


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