第七話 三 光の線
光が見えた。
細い線だった。
板壁の隙間から差し込み、床の上を白く照らしている。
光の中で、埃が動いていた。
目を閉じていたのか、開けていたのか分からなかった。
正吉さんが倒れる音を聞いたあと、何も覚えていない。
朝になったのだと思った。
起きなければならない。
そう思っても、身体の感覚がなかった。
痛みも、熱も、寒さもない。
光の線が少しずつ伸びてきた。
床を進み、俺の手へ触れる。
指先に、床の硬さが戻った。
人差し指を動かした。
少し遅れて曲がる。
掌を床へつく。
腕が曲がり、肩が持ち上がった。
上半身が起きる。
胸の奥で何かが一度縮んだ。
喉へ空気が通る。
もう一度、胸が持ち上がった。
深く息を吸う。
身体の奥へ、朝の冷たい空気が入った。
首を横へ向けた。
正吉さんが見えた。
布団の脇へ倒れたままだった。
目は開き、舌が口の端から出ている。
昨夜、俺に話しかけていた顔は残っていなかった。
夢だったのかもしれないと思った。
高い熱の中で見たものなら、何が起きてもおかしくない。
立ち上がった。
膝が一度だけ曲がった。
壁へ手をつく。
足の裏へ、遅れて床の硬さが伝わってきた。
一歩進む。
次の一歩は、さっきより簡単に出た。
身体が軽かった。
昨夜まで全身を覆っていた痛みは、どこにもない。
正吉さんのそばへしゃがんだ。
肩へ触れる。
冷たかった。
冬の外へ置かれていた木のような冷たさだった。
自分の手も冷えていた。
作業場の中が寒いからだと思った。
正吉さんの身体を仰向けにする。
思ったより簡単に動いた。
顔を上へ向ける。
開いた目が天井を見た。
口を閉じようと、顎へ手を当てる。
顎は硬くなっていた。
「正吉さん」
声が出た。
少し湿って聞こえたが、言葉にはなった。
返事はない。
昨夜の言葉が頭に残っていた。
何しとる。
帰るぞ。
奈緒さんが心配しとる。
あれが夢だったとしても、声だけは正吉さんのものだった。
戸の向こうで足音がした。
閂が動く。
戸が少し開いた。
「様子は」
岩田さんが顔を出した。
俺と目が合う。
身体が止まった。
「お前」
「朝ですか」
自分でも、妙なことを聞いたと思った。
岩田さんはすぐには答えなかった。
俺の顔から身体へ視線を動かし、そのあと床の正吉さんを見る。
「立てるのか」
「ああ」
「熱は」
額へ手を当てた。
熱くなかった。
「下がった」
岩田さんは戸を大きく開けた。
朝の光が作業場へ入る。
顔へ光が当たった。
皮膚の奥が、ゆっくり温かくなる。
岩田さんは鼻と口を布で覆い、中へ入った。
正吉さんのそばへしゃがむ。
首へ手を当てた。
次に胸へ手を置く。
顔を見たまま、しばらく動かなかった。
「駄目だ」
小さく言った。
分かっていた。
それでも、その言葉を聞くと胸の奥が詰まった。
涙は出なかった。
「昨日の夜」
俺は言った。
「何だ」
「正吉さんが――」
立ち上がりかけた。
普通の声で話した。
帰ると言った。
そのあと、山で聞いたのと同じ声を上げた。
そう説明しようとした。
「いや」
言葉を止めた。
「熱で、よく分からなかった」
岩田さんは俺を見た。
何も聞かず、外へ出て人を呼んだ。
すぐに足音が増えた。
斉藤さんと、もう二人の男が戸口へ来る。
誰もすぐには中へ入らなかった。
「生きとったのか」
斉藤さんが言った。
「熱は下がった」
「一夜熱を越えたんか」
別の男が顔をしかめた。
「そんな話、聞いたことないぞ」
「一晩で下がった者もおったと聞く」
「いつの話じゃ」
「知らん」
誰も確かなことを知らなかった。
俺は正吉さんを見た。
正吉さんは年を取っていた。
俺のほうが若かったから、朝まで持ったのかもしれない。
それ以外に、考えられることはなかった。
外から、走ってくる足音がした。
「どいて」
奈緒の声だった。
男たちの間から入ってくる。
俺を見て、戸口で立ち止まった。
「もう、大丈夫なの」
「ああ」
「本当に?」
「熱はない」
奈緒が近づいた。
俺の前で一度ためらい、額へ手を当てる。
奈緒の手より、少し冷たい程度だった。
「下がってる」
「だから言っただろ」
奈緒は何も言わなかった。
頬へも触れる。
昨日までと同じものか確かめるように、しばらく手を離さなかった。
指がわずかに震えていた。
「帰ろう」
奈緒が言った。
昨夜の正吉さんと同じ言葉だった。
床に横たわる身体を見る。
「正吉さんが」
「あとで岩田さんたちが運ぶって」
「俺もやる」
「駄目だよ」
「もう動ける」
「昨日の夜、死にかけたんだよ」
死にかけた。
その言葉が、胸の奥へ残った。
自分の胸へ手を当てる。
服の下で、遅い鼓動がしているような気がした。




