第七話 二 正吉さん
壁の向こうを流れているはずの水が、床下から聞こえているようだった。
「うううう」
正吉さんが唸る。
声が途切れる。
静かになったと思うたび、しばらくしてまた喉の奥から音が漏れた。
「正吉さん」
呼びかけた。
自分の声が遠く聞こえた。
正吉さんの目は開いていた。
岩田さんが置いていったランタンの光が、濡れた目の表面に映っている。
こちらを見ることも、瞬きをすることもなかった。
「水、飲むか」
「うううう」
返事ではなかった。
枕元には水の入った瓶と、茶碗が置かれている。
手を伸ばした。
指先が毛布の上を滑った。
腕はそれ以上動かなかった。
口の中には唾も残っていない。
舌が上顎へ張りつき、息をするたび、喉の奥が裂けるように痛んだ。
「誰か」
外へ声をかけた。
息が漏れただけだった。
見張りがいるはずだった。
戸のすぐ外にいるのか、少し離れた場所にいるのかは分からない。
水路の音と耳の奥の羽音が重なり、自分の呼吸さえ聞こえなくなった。
「うう、ううう」
正吉さんの声だけが、はっきり聞こえた。
時間が分からなかった。
気づくと、ランタンの火が小さくなっていた。
正吉さんは同じ姿勢で横たわっている。
口がわずかに動いた。
「うう……」
声が途中で止まった。
俺は、次の声を待った。
水の音が続いた。
何も聞こえない。
「正吉さん」
返事はなかった。
正吉さんの口が、ゆっくり開いていく。
息を吸おうとしているのかと思った。
だが、胸は動いていなかった。
口がさらに開き、舌が歯の間から押し出された。
目は半分開いている。
顔から血の気が引いた。
頬も唇も、土を薄く塗ったような色へ変わっていく。
眠っている顔でも、熱に苦しんでいる顔でもなかった。
死んだ人間の顔だった。
起き上がろうとした。
外にいる誰かを呼ばなければならない。
身体は動かなかった。
「誰か……」
喉から空気が漏れた。
戸の向こうから返事はない。
正吉さんの舌が、口の端へ垂れていた。
目は開いたままだった。
その顔を見続けることしかできなかった。
ランタンの火が小さく鳴った。
外を誰かが歩いた。
作業場の前を通り過ぎる。
声を出そうとした。
息しか漏れなかった。
足音は、そのまま遠ざかっていった。
正吉さんの右手が動いた。
指が床板を掻いた。
一度だけの痙攣だと思った。
ランタンの光が、手のひらから手首までを照らしていた。
指がもう一度曲がる。
手のひらが床についた。
肘がわずかに持ち上がった。
「正吉さん」
喉から声が出なかった。
正吉さんの肩が、布団から少し浮いた。
一度止まる。
腕が震える。
もう一度持ち上がろうとして、身体が横へ傾いた。
目がこちらへ動いた。
開いたままだった目が、俺の顔へ合う。
「何……」
正吉さんの口が動いた。
声になるまで、長い間があった。
「しとる」
聞き慣れた声だった。
低く、少し掠れている。
「正吉さん」
正吉さんの顔が、ゆっくり戸口へ向いた。
「帰る」
片手を床へつく。
膝を立てようとした。
脚は動かなかった。
身体が前へ崩れ、腕でかろうじて支える。
「行くな」
声にならなかった。
正吉さんの目が俺へ戻る。
「奈緒さんが」
唇が何度か動いた。
「心配……しとる」
正吉さんは俺を心配しているようだった。
死んだ顔で横たわっていた人が、いつもと同じ言葉を話している。
熱で夢を見ているのだと思った。
そうでなければ、目の前のことを理解できなかった。
「帰るぞ」
正吉さんがもう一度言った。
その直後、身体が強く震えた。
右肩が跳ねる。
続いて左肩が上がった。
首が後ろへ反り、顎が天井へ向いた。
口が開いた。
長く、細く息を吸い込むような音がした。
次の瞬間、高い声が作業場へ響いた。
「ひゅううううう――」
山で聞いた声だった。
笑い声にも、悲鳴にも聞こえた。
正吉さんの喉から出ているのに、人が自分の意思で上げている声には聞こえなかった。
身体がさらに反った。
指が強く曲がり、爪が手のひらへ食い込む。
止めなければならなかった。
受け止めなければならなかった。
何度も身体へ力を入れた。
腕も脚も動かない。
正吉さんの声が途切れた。
身体から力が抜ける。
肘が外れ、上半身が床へ落ちた。
頭が床板へぶつかり、鈍い音がした。
正吉さんは布団の脇へ倒れていた。
さっきまで俺へ向いていた目は、またどこも見ていなかった。
もう一度動くのではないかと思った。
待った。
何も起こらなかった。
「誰か」
声を出そうとした。
喉の奥が震えた。
「うう……」
低い音が漏れた。
正吉さんが繰り返していたものと同じだった。
もう一度、助けを呼ぼうとする。
「うう、ううう」
言葉にならなかった。
身体の痛みが薄れていた。
腰から下を引き裂いていた痛みも、喉の熱さも、少しずつ遠ざかっていく。
楽になっているはずだった。
それなのに、痛みが消えていくことのほうが怖かった。
寒さを感じなくなった。
身体の震えも止まった。
息を吸おうとした。
胸は動かなかった。
それでも、苦しくなかった。
正吉さんの目が、暗闇の中からこちらを見ているように思えた。
まぶたを閉じようとした。
動かなかった。
水の音が遠くなった。
耳の奥の羽音だけが大きくなる。
やがて、それも聞こえなくなった。




