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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第七話 一 同じ晩

 水の音がしていた。


 家の裏を流れる水路の音だった。


 夢の中で聞いていたものと同じ音が、暗い部屋の中まで入り込んでいる。


 息を吸おうとした。


 胸の上に、何か重いものが載っていた。


 正吉さんを背負っているのだと思った。


 首へ回された腕が離れず、身体を起こせない。


 もう一度、息を吸った。


 喉の奥が焼けた。


 目を開けた。


 暗い天井が見えた。


 布団の中にいた。


 首には何も巻きついていない。それでも胸の重さは消えなかった。


 身体を横へ向けようとした。


 動かない。


 腕に力を入れているつもりなのに、指先が布団を引っかくだけだった。


 隣で、奈緒が身体を起こした。


「どうしたの」


 返事をしようとした。


 歯が鳴った。


 身体の奥が震えている。


 布団の中にいるのに寒かった。顔と喉だけが、火のそばにあるように熱い。


 奈緒が額へ手を当てた。


「熱い」


「寒い」


 声がうまく出なかった。


「待って。水を持ってくる」


 奈緒が部屋を出ていった。


 耳の奥で、何かが鳴っていた。


 細い翅を震わせながら、虫が頭の中を飛び回っているような音だった。


 目を閉じても消えない。


 奈緒が茶碗を持って戻ってきた。


「起きられる?」


 肩を支えられた。


 身体を起こそうとすると、腰から下へ鋭い痛みが走った。


 骨の内側を細い刃で引っかかれているような痛みが、腿から足首まで一度に広がる。


 声が漏れた。


「痛いの?」


「分からない」


 奈緒に背中を支えられ、ようやく上半身を起こした。


 茶碗が口元へ運ばれる。


 水を飲んだ。


 一口だけで、喉の渇きが余計に強くなった。


 茶碗へ顔を近づける。


「ゆっくり飲んで」


「もっと」


「一度に飲まないほうがいいよ」


「渇くんだ」


 奈緒が茶碗を傾けた。


 水が口の端からこぼれ、寝間着へ落ちる。


 拭おうとしたが、腕が上がらなかった。


 奈緒が布で拭った。


「病院へ電話する」


「まだ、つながらないだろ」


「集会所からも試してもらう」


「道も塞がってる」


「だからって、このままにはできないよ」


「山で冷えただけだ」


 言い終わる前に、また歯が鳴った。


 奈緒は俺の腕を取り、昨日つけられた傷を見た。


 正吉さんの爪が食い込んだ跡だった。


 傷の周りが、薄く黒ずんでいる。


「これ、昨日から?」


「泥が残ってるだけだ」


「お風呂で洗ったでしょう」


「ああ」


 奈緒の指が、傷の脇へ触れた。


 痛みはなかった。


「痛い?」


「少し」


 嘘をついた。


 玄関の戸を叩く音がした。


 奈緒が顔を上げる。


 もう一度、強く叩かれた。


「奈緒さん。起きとるか」


 岩田さんの声だった。


 奈緒が部屋を出ていった。


 話し声が聞こえた。


 何を言っているのかは分からない。耳の奥の羽音が、声を細かく切っていた。


 やがて足音が近づいた。


 岩田さんが襖の前に立った。


 寝室へは入らなかった。


「お前もか」


「何が」


「正吉さんが熱を出しとる」


 岩田さんは敷居の向こうから俺を見ていた。


「いつからですか」


 奈緒が聞いた。


「さっき様子を見に行った者が気づいた。身体が燃えとるみたいじゃ」


「意識は?」


「呼んでも目を開けん。声は出しとるが、何を言っとるか分からん」


 俺は布団へ手をついた。


 集会所へ行かなければならないと思った。


 腕が曲がった。


 身体は持ち上がらず、そのまま布団へ倒れた。


 奈緒が肩を支える。


「動ける状態じゃないよ」


「正吉さんを見ないと」


「見てどうするの」


「昨日、沼で」


 言葉が止まった。


 岩田さんが俺を見た。


 奈緒もこちらを向いている。


 頭の中に、泥をすくって笑う正吉さんの姿が浮かんだ。


 俺の肩越しを見ていた目。


 入るな、と繰り返した声。


「泥の中にいた」


 それだけ言った。


 玄関のほうで、別の声がした。


「岩田」


 斉藤さんだった。


 何かを小さく話したあと、岩田さんが振り返る。


「二人とも、同じ熱か」


「たぶんな」


「山から帰った晩にか」


 岩田さんは答えなかった。


 斉藤さんの声が低くなった。


「一夜熱じゃないのか」


 奈緒の手に力が入った。


「昔の話でしょう」


 誰も答えなかった。


 俺も、その言葉を知っていた。


 奥の沢へ行くな。


 沼の水に触れるな。


 山で熱を出した者を家へ入れるな。


 子どものころから聞かされてきた。


 実際にその熱を見た者の話は、聞いたことがなかった。


「同じ晩に二人じゃ」


 斉藤さんが言った。


「なら、集会所には置けん」


 集会所には昨夜から何人も出入りしている。


 道路や畑の被害を話し合い、食料や道具を分ける場所にもなっていた。


「どこへ移す」


「外れの共同作業場を開ける」


 長く使われていない建物だった。


 昔は収穫した作物を選別し、農具を修理するために使われていた。今は古い机や壊れた籠が置かれているだけだった。


「俺もそこへ?」


 岩田さんは一度、目を伏せた。


「ああ」


 奈緒がこちらを見る。


「何を言ってるの」


「正吉さんもいるなら、俺が見てる」


「自分で起き上がれないでしょう」


「一人にするよりいい」


「私が見る」


「駄目だ」


 思ったより強い声が出た。


 その直後、喉が詰まり、咳が続いた。


「お前まで熱が出たら、誰が動くんだ」


「そんなこと――」


「正吉さんも、俺も同じ熱なんだろ」


 奈緒は答えなかった。


 俺は岩田さんを見た。


「運んでください」


 岩田さんは一度だけ頷いた。


 戸板が運び込まれた。


 俺は毛布ごと持ち上げられた。


 身体が傾いても、踏ん張ることができない。


 玄関を出た。


 空はまだ暗かった。


 雨は降っていない。


 水路の音だけが、村の中へ響いていた。


 外気が顔へ当たる。


 冷たいのかどうか、よく分からなかった。


 戸板が揺れるたび、身体の奥の痛みが遅れて追いついてくる。


 何軒かの家に明かりがついていた。


 窓の向こうから、こちらを見る人影があった。


 共同作業場の戸は開けられていた。


 中には古い布団が二組敷かれている。


 正吉さんは奥の布団に寝かされていた。


 目を開けていた。


 天井を見ているようだった。


「正吉さん」


 呼んだ。


 目は動かなかった。


 口が半分開いている。


 喉の奥から、低い声が漏れた。


「うううう」


 途中で途切れる。


 しばらくして、また声がした。


「うう、ううう」


 言葉ではなかった。


 俺は隣の布団へ下ろされた。


 岩田さんたちは水や桶を運び込み、枕元へ置いた。


「外に誰か残る」


「何かあったら、戸を叩け」


 声を出せるかも分からなかった。


 奈緒が俺の着替えと毛布を抱えて入ってきた。


 枕元へ座ろうとする。


「帰れ」


「少しくらい、ここにいる」


「帰ってくれ」


 奈緒は動かなかった。


「朝になったら来るから」


「ああ」


「水、飲めそうなら飲んで」


「分かった」


「無理に起きないでね」


「ああ」


 奈緒はまだ何か言おうとしていた。


 岩田さんが戸口で待っている。


 やがて奈緒は立ち上がった。


 戸の前で一度振り返る。


 俺は大丈夫だと言おうとした。


 声は出なかった。


 奈緒が外へ出た。


 戸が閉じられる。


 足音が遠ざかっていった。


「うううう」


 正吉さんの声がした。


 水の音が、壁の外から響いていた。


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