第六話 四 帰り道
古い畑まで戻ったところで、水を飲ませた。
正吉さんは一口だけ飲み、残りを顎からこぼした。
「畑は」
正吉さんが言った。
「下にあるよ」
「誰のじゃ」
「正吉さんのだ」
しばらくして、首を振った。
「もう、やった」
「何を?」
「お前らに」
声は弱かったが、はっきりしていた。
俺は何も言えなかった。
正吉さんの身体をもう一度担ぎ、山を下りた。
空はまだ明るさを残していたが、木々の間は暗くなっている。
懐中電灯の光は、数メートル先で白く濁った。
雨上がりの空気は冷たくなかった。
それでも、濡れた服が身体へ張りつき、肩や腰から少しずつ力を奪った。
正吉さんから目を離すことが怖かった。
「正吉さん」
呼んでも答えない。
「寝るなよ」
肩へ伏せられた顔をのぞこうとした。
正吉さんの喉から、低い唸り声が漏れた。
足が止まった。
胸からではなく、もっと身体の奥から響いているように聞こえた。
「正吉さん?」
唸りは途切れなかった。
「やめてくれ」
何をやめてほしいのか、自分でも分からなかった。
唸り声が急に止まった。
同時に、下のほうから声がした。
「おーい!」
人の声だった。
木々の間に、懐中電灯の光が見える。
「おーい! いるか!」
岩田さんの声だった。
「ここだ!」
叫んだ。
思ったより声が出なかった。
「ここにいる!」
いくつもの光がこちらへ向いた。
「いたぞ!」
岩田さんたちが上がってきた。
正吉さんを受け取ってもらう。
肩から重みが消えた途端、膝の力が抜けた。
「お前もひどい格好だぞ」
「正吉さんを押さえたときに、転びました」
「どこにいた」
「上の畑の先です」
「その先まで行ったのか」
岩田さんが、泥に覆われた俺の服を見た。
「沼には?」
「入ってません」
口が先に動いた。
岩田さんは、しばらく俺を見た。
「正吉さんが泥の中で暴れてたんです。止めようとして転びました」
「畑のところでか」
「はい」
それ以上は聞かれなかった。
正吉さんは男四人で集落まで運ばれた。
俺も斉藤さんに肩を借り、そのあとを歩いた。
身体は重かったが、歩けないほどではない。
山道の入り口には、何人かが集まっていた。
奈緒もいた。
「見つかったの?」
「ああ」
「大丈夫なの?」
「分からない。泥の中で暴れてた」
奈緒は運ばれていく正吉さんを見た。
顔や服には泥が残り、片方の長靴がなくなっている。
「どこにいたの」
「上の畑の近く」
奈緒の目が、俺の服へ下がった。
「あなたも転んだ?」
「押さえたときに」
「沼には行ってない?」
一瞬、返事が遅れた。
「行ってないよ」
奈緒は俺の顔を見た。
何かを言いかけたが、正吉さんの身体が傾き、そちらへ駆け寄った。
正吉さんは集会所へ運ばれた。
濡れた服を脱がされ、奥の布団へ寝かされた。
誰かが額へ手を当てる。
「冷たいな」
「山で濡れたからだろう」
岩田さんが言った。
正吉さんは、されるがままになっていた。
ときどき口を動かしたが、声は出ない。
「病院は」
奈緒が聞いた。
「道が開かんと車は出せん」
「向こうへ歩いて出れば、連絡くらいはできるでしょう」
「今から崩れたところを越えるのは危ない」
窓の外は、もう暗くなっていた。
今夜は交代で様子を見て、朝になったら道路の向こうへ人を出すことになった。
俺も残ろうとしたが、奈緒に止められた。
「その格好じゃ、何もできないよ」
濡れた服が肌へ張りついている。
腕には、正吉さんの爪の跡も残っていた。
「着替えたら戻る」
「先に身体を温めて」
「正吉さんを一人にはできないだろ」
「みんながいるよ」
奈緒は俺の腕の傷を見た。
「それも洗わないと」
家へ戻り、玄関の外で服を脱いだ。
上着とズボンを大きな袋へ入れる。
長靴の中から泥水を捨てた。
袋の口を縛ると、奈緒が聞いた。
「洗うの?」
「落ちなかったら捨てる」
「臭い、残りそうだね」
濡れた土と、腐った落ち葉のような臭いがした。
風呂へ入った。
腕の傷を石鹸で洗う。
泥が落ちると、爪の跡からまた血が滲んだ。
消毒液をかけ、布を巻く。
髪を二度洗っても、鼻の奥に臭いが残った。
湯から上がるころには、肩や腰が痛んでいた。
正吉さんを担いで山を下りたせいだろう。
奈緒が夕飯を温めていた。
時計は九時を過ぎている。
「集会所へ行かなくていいの?」
「岩田さんが、今夜は来なくていいって」
「でも」
「明日の朝、交代するから」
奈緒は味噌汁を俺の前へ置いた。
「今は食べて寝て」
味噌汁を飲む。
温かさが喉を通る。
腹が減っていたはずなのに、飯は半分も食べられなかった。
「もういい」
「少なくない?」
「眠いんだよ」
「顔、赤いよ」
「風呂に入ったからだろ」
奈緒が額へ手を伸ばした。
避ける理由はなかったが、なぜか少しだけ身体を引いた。
奈緒の手が止まる。
「どうしたの」
「何でもない」
額へ触れられる。
「熱くない?」
「山を歩いたからだよ」
「体温、測る?」
「寝れば治る」
言ってから、岩田さんの言葉を思い出した。
山で熱を出した者を、家へ入れるな。
昔の迷信だ。
そう思い、残っていた味噌汁を飲んだ。
先に寝室へ入った。
横になると、身体が布団へ深く沈んだ。
腕も脚も重い。
少しして奈緒が来た。
「電気、消すよ」
「ああ」
部屋が暗くなった。
「明日、服をどうするか見よう」
「分かった」
「正吉さんのところには、朝一緒に行こう」
「ああ」
それきり会話はなかった。
奈緒の寝息が聞こえるより先に、俺は眠った。
夢の中で、山を下りていた。
誰かの腕が肩へかかっている。
正吉さんを背負っているのだと思った。
懐中電灯は消えていた。
それでも、泥に残った足跡だけが白く見えた。
足跡は山の下へ続いていなかった。
俺たちが来た道を戻り、沼のほうへ続いている。
肩の身体が重くなった。
降ろそうとしても、首へ回った腕が離れない。
「正吉さん」
返事はなかった。
腕の先にある手は、泥にまみれていた。
正吉さんの手だったかは分からなかった。
足が泥へ沈んだ。
引き抜こうとするほど、膝、腰、胸まで沈んでいく。
泥の中だけが、生ぬるかった。
底から低い声がした。
何を言っているのかは分からない。
耳を塞ごうとしても、腕が動かなかった。
水の音がした。
家の裏を流れる水の音だった。
泥の中でも、同じ音がしていた。




