第六話 三 畑
「正吉さん」
声が震えた。
正吉さんの手が止まった。
顔だけが、ゆっくりとこちらを向く。
目が合った。
俺を見たはずだった。
それでも表情は変わらなかった。
「迎えに来た。帰ろう」
正吉さんは、泥をつかんだ両手を胸の前へ抱えた。
「取るな」
聞き慣れた声だった。
低く、少し掠れている。
その声だけが普段どおりなのが、かえって怖かった。
「何も取らないよ」
「わしのものじゃ」
「分かった。そこから出よう」
「畑じゃ」
「ここは沼だ」
「取るな」
「俺のこと、分かるか」
正吉さんの目が、ようやく俺へ動いた。
知っている人間を見る目ではなかった。
「お前にやるとは言っとらん」
「何を?」
「畑じゃ」
「正吉さんが、俺と奈緒に使えって言ったんだろ」
「言っとらん」
「春に話した。縁側で」
「盗人が」
正吉さんは、はっきり言った。
俺は口を閉じた。
「冗談でも、混乱してるだけでもいい。今は帰ろう」
「わしが死ぬのを待っとる」
「違う」
「お前ら、待っとる」
「違うって」
声が大きくなった。
正吉さんは、口の端だけを持ち上げた。
俺を見たまま笑う。
「あれのせいじゃ」
目が、俺の肩越しへ動いた。
すぐには振り返れなかった。
後ろにあるのは、濡れた木と来た道だけのはずだった。
「何がいるんだ」
「あれじゃ」
「どこに」
正吉さんは答えない。
俺のすぐ後ろを見ている。
振り返った。
木と濁った水しかなかった。
枝から落ちた雫が、水面へ輪を作っている。
その輪の下で、細い影がいくつも動いたように見えた。
魚か、沈んだ草だと思った。
正吉さんを見る。
今度は俺の足元へ目を向けていた。
「入るな」
「正吉さんが出てくれば、俺は入らない」
「入るな」
同じ言葉を繰り返しながら、正吉さんは後ろへ下がった。
泥が膝から腿へ上がる。
「そっちは深い。戻れ」
「取るな」
「何も取らない」
「畑を返せ」
「返す。全部返すから、こっちへ来い」
正吉さんの顔が歪んだ。
泥の中から枝を拾い、振り上げる。
「入るな!」
身体がすくんだ。
枝が飛んできた。
顔の横を通り、後ろの木へ当たる。
正吉さんはもう一本拾おうとして、泥へ手をついた。
身体が傾いた。
「危ない!」
後ろ向きに倒れ、顔まで水へ沈んだ。
助けなければならなかった。
分かっているのに、一瞬、足が動かなかった。
泥水の中で、正吉さんの腕が二度、三度と動く。
動きが小さくなった。
俺は沼へ入った。
一歩目で泥が足首を越えた。
二歩目には長靴の中へ水が入った。
冷たくはなかった。
雨水にしては、生ぬるかった。
正吉さんの上着をつかみ、顔を水から引き上げる。
正吉さんは激しく咳き込んだ。
生きている。
そう思った途端、腕へ爪が食い込んだ。
「取るな!」
「正吉さん、俺だ!」
「盗人!」
頬を叩かれた。
泥水が口へ入り、息が詰まる。
正吉さんは俺の首へ手を伸ばした。
「やめろ!」
腕を振り払う。
正吉さんの顔が再び水へ沈んだ。
慌てて抱き起こす。
「暴れるな! 死ぬぞ!」
「お前が殺すんじゃ!」
「違う!」
「畑を取って、わしも殺す!」
正吉さんの声が沼の上へ響いた。
山の中には、俺たちしかいない。
足元の泥が動いた。
沈んだ枝が脚へ触れたのだと思った。
だが、一本ではなかった。
糸のように細いものが、長靴の周りで何本も揺れている。
足を引くと、水が濁って見えなくなった。
「返せ!」
「返す!」
泥へ手をつき、正吉さんの脇の下へ腕を入れた。
「畑は返す。何もいらない。だから出るぞ」
正吉さんの力が抜けた。
腕が垂れる。
一瞬、死んだのかと思った。
「正吉さん?」
目は開いていた。
俺ではなく、俺の肩越しを見ている。
「あれのせいじゃ」
息だけのような声だった。
その隙に身体を引いた。
何度も足を取られた。
泥の中で、何かが指の間を抜けた。
正吉さんの長靴が片方、沼へ残った。
取りに戻る気にはなれなかった。
水際まで引きずり、正吉さんを地面へ横たえた。
俺も隣へ膝をついた。
手が震えている。
「何を見たんだ」
返事はない。
「正吉さん。俺を見ろ」
肩を揺すった。
目が動く。
ようやく俺を見た。
「何しとる」
声だけは、いつもの正吉さんだった。
「迎えに来たんだよ」
「どこへ」
「村へ帰る」
正吉さんは沼を見た。
並べられた枝や石から目を離さない。
「誰が、あんなことした」
自分の泥だらけの手を見る。
俺は答えられなかった。
「立てるか」
腕を肩へ回し、身体を起こした。
沼から離れると、正吉さんはほとんど口を利かなかった。




