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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第六話 二 足跡

 山道は途中まで残っていた。


 雨で削られた土は柔らかい。足を置くたび、長靴が沈んだ。


 昨日までなかった細い流れが何本も道を横切り、谷のほうへ落ちている。


 正吉さんの足跡は、すぐに見つかった。


 泥へ深く入り、山の上へ続いていた。


 歩幅は揃っている。


 転んだ跡も、足を引きずった跡もない。


 誰かに追われたのでも、道に迷ったのでもなく、自分の意思でまっすぐ歩いているように見えた。


「正吉さん!」


 呼んだ。


 水の音に声が吸い込まれる。


 返事はなかった。


 もう一度呼んだ。


 鳥の声もしない。


 雨の止んだ山には、水が流れる音だけが残っていた。


 途中で、正吉さんの布帽子を見つけた。


 低い枝へ引っかかっている。


 足跡は、その下を通り過ぎていた。


 帽子が脱げたことにも気づかなかったらしい。


 枝から外し、上着のポケットへ入れた。


 上の畑へ着いた。


 石垣の半分は崩れ、平らだった場所には泥が流れ込んでいる。


 畑だったころの形は、ほとんど残っていなかった。


 正吉さんはいない。


 足跡は畑を横切り、その先へ続いていた。


 俺は立ち止まった。


 正吉さんなら、この先に何があるか知っている。


 俺より長く、この山で暮らしてきた人だ。


 間違えて入ったとは考えにくい。


 岩田さんの言葉を思い出した。


 足跡があっても追うな。


 戻って人を呼べ。


 腕時計を見る。


 日が落ちるまで、まだ少し時間はある。


 だが、山の中はもう薄暗かった。


 今から村へ戻り、人を連れてくれば、ここへ着くころには夜になる。


「正吉さん!」


 畑の先へ向かって叫んだ。


 返事はない。


 足跡の周りには、ほかの靴跡がなかった。


 野生動物の跡もない。


 正吉さんの長靴だけが、迷わず奥へ続いている。


 少し先を見るだけにする。


 沢へ下りていなければ戻る。


 そう決め、足跡を追った。


 道は途中で崩れていた。


 斜面の一部が抜け、土と木が沢へ落ちている。


 正吉さんの足跡は崩れた場所を避け、木々の間へ入っていた。


 道のないところを進む。


 濡れた枝が顔へ触れる。


 草を踏むたび、溜まっていた水が長靴へかかった。


 そこで声がした。


 高く、細い声だった。


 一度きりではない。


 ひゅ、ひゅ、と息を吸いながら、誰かが笑っている。


 足が止まった。


 正吉さんの声には聞こえない。


 子どものようにも、鳥のようにも聞こえた。


 山の中に子どもがいるはずはなかった。


「正吉さん」


 呼んだ。


 笑い声が止まった。


 水の音だけになる。


 返事はない。


 引き返すべきだった。


 畑の場所は確認した。足跡がその先へ続いていることも分かった。


 岩田さんたちを連れてくればいい。


 そう考えたとき、もう一度笑い声がした。


 さっきより近かった。


 声の合間に、泥を叩くような音が混じっている。


 懐中電灯を握り直した。


「正吉さん。俺だ。いるなら返事をしてくれ」


 枝を押し分ける。


 木々の向こうが開けていた。


 沼が広がっている。


 以前見たときは、木の間へ水が溜まっている程度だった。


 今は雨水を集め、道の近くまで膨らんでいる。


 水面には落ち葉と枝が重なり、どこからが地面なのか分からなかった。


 正吉さんは、その中にいた。


 膝まで泥へ沈み、両手で泥をすくっていた。


 すくったものを頭より高く放り上げる。


 泥が顔や肩へ落ちるたび、正吉さんは高い声で笑った。


 足元には枝や石が並べられていた。


 何列も、沼の奥へ続いている。


 畝を作っていた。


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