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一夜熱  作者: 古江 門
第二部 奈緒

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第六話 一 雨のあと

「正吉さんがおらん」


 朝飯を終える前に、岩田さんが家へ来た。


 開いた玄関の向こうで、濡れた長靴が泥を落としている。


「いつからですか」


 奈緒が聞いた。


「分からん。朝飯を届けに行ったら、昨日の晩の膳もそのままだった」


 俺は茶碗を置いた。


「家には?」


「おらん。長靴と、小さい鍬がない」


 四日続いた雨は、明け方にようやく止んでいた。


 屋根を叩く音は消えたが、家の外は静かではない。裏の水路が茶色く膨らみ、壁や床を通して低い音を響かせている。その向こうからも、山を下る水の音が絶えず聞こえた。


 俺は玄関へ下りた。


「下の畑は見ましたか」


「斉藤が見に行っとる。神社の裏にはおらんかった」


「川は?」


「今、二人向かわせた」


 奈緒が上着を持ってきた。


「朝、誰か会ってないんですか」


「わしが話した」


 岩田さんは答えた。


「水路の板を一枚外しとけって言われた。雨が止んでも、しばらく水は増えるからって」


「そのときは普通だったんですね」


「ああ」


 正吉さんは、このところ人の名前を取り違えることがあった。


 道具をどこへ置いたか忘れ、半日探したあとで、最初に見た場所から見つかることもあった。


 それでも畑や山のことになると、俺たちより確かだった。


 降った雨の量を見れば、水路のどこを開けるべきか分かる。山肌の色を見て、近づかないほうがいい場所も判断できた。


 一人で山へ入り、帰れなくなるような人ではなかった。


「上の畑かもしれません」


 俺が言うと、岩田さんが山を見た。


「まだ行っとったか」


「もう使ってはいません。でも、雨のあとだから気になったのかも」


 正吉さんは以前、集落の裏山にも小さな畑を持っていた。


 今では木と草に埋もれている。石垣だけが残り、正吉さん自身も何年かに一度、様子を見に行く程度だった。


 俺は二度ほど連れていかれたことがある。


「場所を知ってるのは、俺くらいです」


「一人では行かせん」


「ほかにも捜す場所があるでしょう。畑まで見たら戻ります」


 岩田さんはすぐには答えなかった。


 集落の下へ続く道は、曲がり角の先で土砂に埋まっていた。


 杉の木が何本も根から倒れ、ガードレールの上へ重なっている。向こう側がどうなっているかも見えない。


 携帯電話は昨夜から圏外だった。


 役場には雨が強くなる前に連絡していたが、この村だけが被害を受けているわけではない。


 道が開くまで三日はかかるという者もいれば、一週間だという者もいた。


 今、村にいる人間だけで探すしかなかった。


「集会所へ行こう」


 岩田さんが言った。


 外へ出ると、庭の半分へ泥が流れ込んでいた。


 納屋の前には、山から流れてきた枝や石が溜まっている。積んであった薪も何本か流され、水路の近くで折り重なっていた。


 道のあちこちに水が走っている。


 朝なのに空は暗かった。


 雨雲が山の上へ残り、木々の間に白い靄が沈んでいる。


 集会所には男が六人ほど集まっていた。


 川沿い、道路の崩落場所、空き家の周辺に分かれて捜す。


 俺が上の畑へ行くと言うと、斉藤さんが倉庫からロープを持ってきた。


「持ってけ」


「使わないと思いますけど」


「使わんなら、それでええ」


 ロープを肩へ掛けた。


 奈緒が懐中電灯と水筒を差し出す。


「暗くなる前に帰ってきて」


「ああ」


「見つからなくても、一度戻ってきてね」


「分かってる」


 奈緒は水筒から手を離さなかった。


「一人で奥まで行かないで」


「畑までだよ」


 ようやく手が離れた。


 岩田さんが俺の顔を見た。


「その先に足跡があっても、追うなよ」


「正吉さんが入っていたらどうするんですか」


「戻って人を呼べ」


「その間に、また雨が降るかもしれない」


「それでもだ」


 岩田さんは声を落とした。


「沼のほうへは行くな」


「分かってます」


 子どものころから、何度も聞かされていた。


 奥の沢へ行くな。


 沼の水に触れるな。


 山で熱を出した者を家へ入れるな。


 理由を尋ねても、答えは人によって違った。


 崖が崩れるから。


 水が悪いから。


 昔、家畜が死んだから。


 奥の山から戻った者が、夜のうちに死んだから。


 どれも、いつの話なのかは分からなかった。


「畑だけ見てきます」


 俺は集会所を出た。


 奈緒は道の端に立ち、山道へ入るまでこちらを見ていた。


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