第五話 四 沼
その後、真由の熱はぶり返さなかった。
悠介も、昼のあいだは以前と変わらなかった。
二人は残りの日々を、最初の予定どおり村で過ごした。
朝になると、井戸へ水を汲みに行った。
持参したボトルの中身は捨て、そこへ井戸水を入れた。
畑を見て、空き家の修繕箇所を確認した。
奈緒から冬の暮らしを聞き、村人と一緒に水路をさらった。
夜のことは話さなかった。
朝、寝間着の裾が濡れていることがあった。
玄関に泥の足跡が残っていることもあった。
真由は拭き取った。
悠介も何も聞かなかった。
昼になれば、身体は思うように動いた。
井戸水を飲めば、喉の渇きも消えた。
それで一日は始められた。
滞在の最終日、役場の職員が再び村へ来た。
「その後、体調はいかがですか」
「大丈夫です」
悠介が答えた。
真由も頷いた。
宮内は二人の熱が下がり、その後は日常生活に支障が出ていないと説明した。
「それでも、町へ戻ったら病院には行ってください」
職員が言った。
「今回の体験については、体調のこともありますし、すぐに決めなくて構いません。一度戻ってから、ゆっくり考えてください」
悠介は真由を見た。
真由も悠介を見た。
「移住の手続きを進めたいです」
悠介が言った。
職員が目を見開いた。
「今回のことがあったあとで、ですか」
「はい」
真由が答えた。
「家も畑も気に入りました。村の人にも、いろいろ教えてもらえましたし」
「病気の原因は、まだ分かっていないんですよ」
「先生もいます」
「宮内先生一人では、できることに限界があります」
「分かっています」
真由は答えた。
部屋の隅に、二人のボトルが並んでいた。
どちらにも井戸水が入っている。
「それでも、ここで暮らしてみたいです」
職員は、すぐには書類を出さなかった。
「今日は帰りますよね」
「はい」
悠介が答えた。
「必要なものを取って、仕事のことも相談します」
「病院にも行ってください」
「行きます」
職員は二人の顔を順に見た。
やがて鞄から資料を取り出した。
「移住を決める前に、もう一度、条件を確認してください」
家の修繕。
農地の契約。
冬の除雪。
買い物と通院。
初日にも聞いた説明だった。
二人は、今度は住む者として聞いた。
帰る前に、悠介と真由は井戸まで歩いた。
「決めたな」
「うん」
「後悔してない?」
「してないよ」
真由はボトルを開け、水を飲んだ。
冷たさが喉へ落ちる。
もう、濡れた土の臭いはしなかった。
「正吉さんを見なかったか」
岩田が道の向こうから声をかけた。
「朝は井戸のそばにいました」
真由が答える。
「それから見とらん」
岩田は山のほうを見た。
声を聞きつけ、奈緒と宮内も道へ出てきた。
別の村人が、畑のほうから歩いてくる。
「正吉さんなら、昼前に上へ行ったぞ」
「一人でか」
「ああ。声をかけたが、振り向かんかった」
「何か言っとらんかったか」
男は少し考えた。
「ずっと、同じことを言っとった」
「何を」
「沼」
岩田と奈緒と宮内が、ほとんど同時に山を見た。
奈緒が両腕を抱いた。
「沼へ行かんと、って」
男は上の畑へ続く道を指した。
「そればかり言いながら、山へ入っていった」
「人を集めろ」
岩田が言った。
「すぐ捜しに行く」
村人たちが動き始めた。
真由はボトルを持ったまま、山を見た。
悠介も隣で同じ方角を見ている。
「沼?」
二人の声が重なった。




