第五話 三 残る
七時半を過ぎたころ、役場の車が到着した。
村まで二人を案内した職員が、玄関へ入ってきた。
「杉本さん」
布団にいる真由を見て、足を止める。
「熱が出たと聞きました。大丈夫ですか」
「もう下がりました」
真由は身体を起こした。
腕にも背中にも、ほとんど力を入れずに起き上がれた。
「昨夜、三十九度を超えたんです」
悠介が言った。
「宮内先生にも診てもらいました」
職員は宮内へ顔を向けた。
「移動できますか」
「現在の体温と意識なら、車で移動しても問題はないと思います」
宮内が答える。
「町へ戻ったら、一度病院で診てもらってください」
「では、準備ができたら出ましょう」
職員は玄関に並んだ鞄を見た。
「荷物はこちらで運びます」
真由も鞄を見た。
昨日、自分で帰るためにまとめたものだった。
服を押し込み、何度もファスナーを引いたことは覚えている。
だが、どうしてあれほど急いでいたのか、うまく思い出せなかった。
夜の井戸。
動かない身体。
何度も名前を呼ぶ悠介の声。
一つずつの光景は浮かぶ。
その間が、うまくつながらなかった。
「もう少し休んでからでもいいですか」
「もちろんです。急ぎません」
「そうじゃなくて」
真由は悠介を見た。
悠介も、何を言おうとしているのか分からない顔をした。
「予定どおり、一週間いようと思います」
「真由」
悠介が呼んだ。
職員も聞き返す。
「滞在を続けるんですか」
「はい」
「お二人とも高熱を出しています。一度戻って、病院で診てもらったほうがいいと思います」
「今は治っています」
「一晩で下がったとしても、原因が分からないんですよ」
職員の声には、はっきり心配が混じっていた。
「体験滞在は、また改めてできます。今回は戻りましょう」
真由は部屋の隅に置かれた桶を見た。
水面へ朝の光が当たっている。
町へ戻ることを考える。
車に乗り、山道を下りる。
病院へ行く。
そのあと、家へ帰る。
口の中が乾いた。
「悠介は、どうしたい?」
真由が聞いた。
悠介はすぐには答えなかった。
職員と宮内、奈緒の顔を見る。
最後に真由を見た。
「昨日は、帰ろうと思ってた」
「うん」
「でも、今すぐ動かなくてもいい気がする」
「そうだよね」
「身体も、まだ少し重いし」
職員が宮内を見る。
「滞在を続けて大丈夫なんですか」
「休養は必要です。ただ、現在の状態だけを見れば、ここで横になっていても問題はありません」
「急変したら、すぐ連絡してください」
「分かりました」
悠介が答えた。
職員は困ったように息を吐いた。
「今日のうちでも、帰ることにしたら電話してください。迎えを手配します」
「ありがとうございます」
「体験の続行を、こちらが勧めたわけではありませんからね」
「はい」
職員は玄関に運びかけた鞄を、元の場所へ戻した。
もう一度、真由の顔を見る。
「無理をしないでください」
役場の車が村を離れていった。
エンジンの音が小さくなり、水路の音へ消えた。
「よかったの?」
悠介が聞いた。
「うん」
「昨日は、あんなに帰りたがってたのに」
「今は、もう少し休みたい」
「それだけ?」
真由は桶の水を見た。
「分からない」
悠介はそれ以上聞かなかった。
玄関へ置かれた鞄の一つを、居間へ戻した。
奈緒が朝食を運んできた。
粥と漬物だった。
真由は箸を持ったが、二口ほどしか食べられなかった。
代わりに井戸水を飲んだ。
悠介も同じ水を飲んだ。
昼前には、二人で家の外へ出た。
畑には朝の雨が残り、土が柔らかくなっていた。
悠介は畝の端へしゃがみ、土を触った。
「春なら、ここに芋を植えられるかな」
「豆もいいんじゃない?」
「柿の木も残したいな」
「落ちた実を片づけないと」
二人は畑を歩いた。
話しているうちに、帰るためにまとめた鞄のことを忘れていた。




