第五話 一 日暮れ
真由はもう一度、水を求めた。
悠介はコップを持ったまま、しばらく動かなかった。
「もう一口だけだよ」
真由は頷いた。
コップの縁が唇へ触れる。
冷たい水が舌を濡らした。
飲み込むと、乾いていた喉の内側が開いた。胸まで落ちていく感覚が分かる。
悠介がコップを離す。
「もう少し」
「駄目だよ」
「喉が痛い」
「急に飲んだら吐くかもしれない」
真由は両手を伸ばした。
指先がコップへ届く。
悠介は取り上げず、両手で支えたまま、少しだけ傾けた。
真由は二口、三口と飲んだ。
冷たさが身体へ広がる。
背中を走っていた震えが、少し弱くなった。
「楽になった?」
「少し」
コップの底には、まだ水が残っていた。
真由は目を離せなかった。
「横になろう」
悠介はコップを流しへ置き、真由の肩を支えた。
二人で居間へ戻る。
布団へ横になると、身体の重さが畳へ沈んだ。
熱は残っている。
額にも汗が浮いていた。
それでも、持参した水を飲んでいたときより、喉は楽だった。
悠介が隣へ座る。
「もう飲ませないからね」
「うん」
「自分で頼んでも?」
真由は少し黙った。
「少しずつなら」
「真由」
「分かってる」
井戸の水を飲んではいけない。
昨夜の悠介を見た。
正吉も、宮内も、奈緒も見た。
分かっているのに、口の中へ残った味をもう一度確かめたくなった。
玄関が叩かれた。
奈緒だった。
「具合はどうですか」
「少し落ち着きました」
悠介が答えた。
奈緒は部屋の入口から真由を見た。
「熱を測ってもいいですか」
体温計は三十九度四分を示した。
「上がってる」
悠介の声が低くなった。
「先生を呼んできます」
奈緒は玄関へ向かいかけた。
「電話で大丈夫じゃないですか」
悠介が呼び止める。
奈緒は足を止めた。
「ああ、そうですね」
携帯電話を取り出す。
画面を見たまま、指が動かなかった。
「奈緒さん?」
「すみません」
奈緒は一度目を閉じた。
窓の外には、まだわずかに光が残っている。
山の向こうへ、日は沈みかけていた。
「俺がかけます」
悠介が宮内へ電話をかけた。
宮内はすぐに出た。
十分ほどして、診療鞄を持って現れた。
玄関を上がる動きは、昼より遅かった。
一度、上がり框へ手をつく。身体を起こすまでに間があった。
奈緒も、部屋へ入る前に柱へ手を添えていた。
宮内は真由の脈を測り、胸へ聴診器を当てた。
「呼吸は少し速いですが、今のところ大きな異常はありません」
「熱は上がっています」
「一夜熱なら、夜のうちは高いままのことがあります」
「悠介と同じになるんですか」
宮内は体温計を鞄へ戻した。
「同じ病気なら、似た経過になる可能性はあります」
「息が止まるんですか」
「杉本さんの呼吸が止まっていたかどうかは、私には確認できていません」
「私が確認しました」
真由が言った。
声が掠れていた。
宮内は真由を見た。
「変化があれば、今夜はこちらにいます」
「先生も?」
「はい」
宮内は壁際へ座った。
奈緒も隣の部屋へ布団を運び、自分も残ると言った。
窓の外から、最後の日差しが消えた。
部屋の照明だけが、四人を照らしている。
悠介が真由の手を握った。
まだ温かかった。
「帰らないでね」
「帰らないよ」
「眠っても?」
「ここにいる」
真由は悠介の手を握り返した。
しばらくすると、指に力が入らなくなった。
悠介の掌から、少しずつ滑り落ちる。
もう一度握ろうとした。
指は思ったほど動かなかった。
「悠介」
「どうした?」
「手を離さないで」
悠介が握り直す。
返ってくる力は分かった。
温かさは、分からなくなっていた。
身体の震えが止まった。
寒さがなくなったわけではない。
寒いという感覚そのものが、薄くなっていく。
「真由?」
悠介が顔をのぞき込んだ。
声が出るまでに、長い間があった。
「真由」
真由は頷こうとした。
頭は動かなかった。
目は開いている。
悠介の顔も、天井の照明も見えている。
返事だけができない。
悠介の手が、真由の頬へ伸びた。
途中で止まる。
指先がわずかに揺れ、しばらくしてから皮膚へ触れた。
「真由」
もう一度、名前を呼んだ。
先ほどまでの声とは違っていた。
具合を確かめようとしているのではない。
何度も口にしてきた音だけが、残っているようだった。
宮内が壁際から立ち上がろうとした。
一度では腰が上がらない。
床へ手をつき、身体を引きずるようにして真由のそばへ来た。
首へ指を当てる。
胸へ顔を近づける。
そのまま長く動かなかった。
「真由」
悠介は宮内を見なかった。
真由の顔だけを見ていた。
胸が動いていないことに、気づいているのか分からない。
頬へ置いた手を離し、今度は肩をつかんだ。
揺すろうとした。
腕に力が入らず、真由の身体がわずかに傾いただけだった。
「真由」
奈緒が立ち上がった。
歩き始めるまでに間があった。
柱や壁へ手をつきながら、部屋を出ていく。
悠介は真由の身体を、自分のほうへ引いた。
一度では持ち上がらない。
腕の位置を変え、何度も身体を傾ける。
やがて真由の頭が、悠介の胸へ載った。
そこから鼓動は聞こえなかった。
「真由」
耳元で、同じ声がした。
言葉はそれ以上続かなかった。
奈緒が戻ってきた。
両手で桶を抱えている。
水が縁からこぼれ、廊下へ点々と落ちていた。
濡れた土の臭いが部屋へ広がる。
真由には、それが嫌な臭いには思えなかった。
宮内が桶へ手を伸ばした。
指先が水面へ届かない。
奈緒が小さな器を取り、何度か水を掬おうとした。
水が器の縁からこぼれる。
ようやく残った水を、真由の唇へ近づけた。
悠介は止めなかった。
奈緒を見てもいなかった。
「真由」
水が口の中へ入った。
飲み込めない。
舌の上に冷たさが溜まり、口の端から顎へこぼれた。
奈緒がもう一度、水を流し入れる。
喉が動いた。
真由が動かしたのではなかった。
身体の内側で何かが縮み、水が落ちていく。
「真由」
悠介の声が続いている。
真由の指先で、何かが動いた。
一本の指が曲がる。
隣の指も、遅れて動いた。
悠介の服が触れていた。
指が布を挟む。
ほんの少しだけ、掌の中へ引き寄せた。
悠介の口が止まった。
真由の手を見る。
目がそこへ合うまでに時間がかかった。
「真由」
また同じ名前を呼んだ。
悠介の腕が、真由の身体を抱き直した。
何を確かめたのかは分からない。
それでも、真由の指が服をつかんでいるあいだ、その腕は離れなかった。
窓の外で、井戸の滑車が鳴った。
縄が擦れ、桶が水へ落ちる。
何人かの足音が、空き家の前を通っていく。
一歩ごとの間が長い。
悠介の顔が、ゆっくりと窓へ向いた。
身体も、わずかに傾く。
真由は指へ力を入れた。
悠介の服をつかむ。
身体の傾きが止まった。
顔が真由へ戻る。
「真由」
悠介はそれだけを言った。
井戸のほうをもう一度見た。
真由の手を見る。
立ち上がることはなかった。
奈緒は桶のそばへ膝をつき、水へ片手を入れている。
宮内は壁へ背を預け、俯いていた。
誰も話さなかった。
「真由」
悠介だけが、間を置いて名前を呼んだ。
真由はそのたびに、動く指で服をつかんだ。




