第四話 四 水の味
夕方には、体温が三十九度を超えた。
真由は布団の中で身体を丸めていた。
寒い。
掛け布団を二枚重ねても、背中の震えが止まらない。
額や首からは汗が流れている。
悠介が乾いたタオルで拭った。
少し前なら、その手から逃げていたかもしれない。
今は身体を動かす力がなかった。
「水、飲める?」
悠介がボトルを開けた。
真由の頭を支え、口元へ近づける。
一口含む。
舌の上へ苦みが広がった。
薬品のような臭いが鼻へ抜ける。
真由は顔を背けた。
「無理」
「少しだけでも」
「まずい」
「いつも飲んでる水だよ」
もう一度口へ含んだ。
吐き出した水が、枕へ落ちた。
「ごめん」
「謝らなくていい」
悠介は新しいタオルを取り、枕元を拭いた。
そのタオルを洗うため、台所へ向かおうとする。
真由は袖を掴んだ。
「どこ行くの」
「すぐそこだよ」
「行かないで」
悠介はその場へ座り直した。
「分かった」
濡れたタオルを洗面器へ入れる。
少し離れたところへ置いた。
真由は目を閉じた。
耳の奥で、低い音が続いている。
虫が飛んでいるようにも、水が管の中を流れているようにも聞こえた。
喉が痛かった。
唾を飲み込んでも、乾いた皮膚同士を擦っているようだった。
「水」
真由が言った。
悠介がボトルを取る。
「これを飲もう」
真由は首を振った。
「違う」
悠介の手が止まった。
「真由」
「分かってる」
「何を?」
「井戸の水は駄目」
「うん」
「でも、これじゃない」
真由は舌を動かした。
上顎へ張りつき、うまく剥がれない。
「少し我慢しよう」
悠介がボトルをもう一度差し出す。
真由は一口だけ含んだ。
苦かった。
喉へ入っても、何も濡れなかった。
「飲めない」
「吐かないで。少しずつでいいから」
「水が欲しい」
「これが水だよ」
「違う」
自分の声が、昨夜の悠介と同じだった。
真由は目を開けた。
部屋の隅に洗面器がある。
中には、タオルから落ちた水が少し溜まっていた。
蛇口から出した水だった。
悠介が真由の視線に気づき、洗面器を遠ざけた。
「駄目だよ」
「飲まない」
「じゃあ、見ないで」
洗面器を廊下へ出す。
真由は悠介の袖を掴んだまま離さなかった。
「真由」
「一口だけ」
「駄目だって言ったのは真由だろ」
「分かってる」
「朝になったら帰るんだよ」
「分かってる」
「もう少し我慢しよう」
涙がこめかみへ流れた。
熱のためなのか、喉が痛いからなのか、自分でも分からなかった。
「お願い」
悠介はボトルを握ったまま動かなかった。
「これを飲んで」
「飲めない」
「少しずつなら」
「お願いだから」
真由は悠介の腕を引いた。
指にほとんど力は入っていなかった。
「一口だけでいい」
悠介は目を伏せた。
朝、真由が自分へ言った言葉を思い出しているのかもしれなかった。
井戸の水を飲ませないで。
外へ行かないで。
真由が頼んでも。
「先生に聞く」
「行かないで」
「電話するだけだよ」
悠介は携帯電話を取り、宮内へかけた。
短く状態を説明する。
「持ってきた水を受けつけなくて、井戸の水を欲しがっています」
受話口から、宮内の声が小さく漏れた。
悠介は何度か頷いた。
「分かりました」
電話を切る。
「何て?」
「飲めるものを少しずつって」
「井戸の水でも?」
「無理に止めて脱水になるよりは、って」
悠介は立ち上がりかけた。
真由が袖を掴む。
「置いていかないで」
「蛇口までだよ」
「一緒に行く」
「立てないだろ」
悠介は少し考えたあと、真由を背中から抱えるようにして起こした。
肩へ腕を回す。
二人で台所まで歩いた。
真由の足は、自分のものではないように遅れた。
流しの前へ椅子を置き、座らせる。
悠介が蛇口をひねった。
管の奥で水が動く。
透明な水が流れ始めた。
真由は音を聞いただけで、身体の内側が縮んだ。
悠介がコップへ少しだけ注ぐ。
「一口だけだからな」
真由は頷いた。
コップの縁が唇へ触れる。
冷たい水が口へ入った。
甘かった。
砂糖のような味ではない。
乾いてひび割れていた場所へ、冷たさが染み込んでいく。
舌が動いた。
喉の痛みが薄れた。
強張っていた肩から力が抜ける。
真由は目を閉じた。
悠介がコップを離した。
「もういい」
真由は両手を伸ばした。
「もう少し」
「一口だけって言っただろ」
「お願い」
玄関には、明日の朝に持ち出す鞄が二つ並んでいた。
真由はもう一度、水を求めた。




