第4話 壊れた脳の逆襲
第4話 壊れた脳の逆襲
「また当てたのかよ……」
ディスコード通話の向こうで、男が呆れた声を漏らした。
彩香は返事をしなかった。
モニターを見つめたまま、マウスを指先だけで動かす。画面には急騰した銘柄のチャート。数分前に仕込んでいたポジションを、天井付近で売り抜けたところだった。
利益、二十七万三千円。
証券口座の数字が増えていく。
ほんの数か月前まで、三十万円しかなかった口座だ。
今は百八十万を超えている。
「お前さ、本当に十九? なんかやってんじゃねえの?」
通話相手が半笑いで言う。
投資掲示板で知り合った個人トレーダーだった。名前も顔も知らない。ただ、毎日市場が開いている時間だけ通話を繋いでいる。
彩香はイヤホンを少し外した。
耳の奥が痛い。
男の笑い声が、金属みたいに頭へ刺さる。
「別に」
「いや、別にじゃねえだろ。こんなピンポイントで落ちる前わかる?」
彩香はモニターを見た。
急騰後のチャートが、不自然に横ばいになっている。
出来高は増えているのに、伸びが弱い。
掲示板には、
『押し目!』
『まだ行く!』
『億り人確定!』
興奮した文字が並んでいた。
でも彩香には見えていた。
この空気はもう終わる。
みんな強気すぎる。
「……欲張り始めたから」
「は?」
「人って、天井付近になると“もっと上がる理由”探し始めるじゃん」
男が黙る。
彩香は続けた。
「それ、もう逃げ遅れてる人の思考だから」
数秒後。
株価が急落した。
掲示板が一瞬で悲鳴に変わる。
『なんで!?』
『ふざけんな!』
『戻るよな!?』
彩香は静かに通話を切った。
部屋に静寂が戻る。
いや、違う。
本当は静かじゃない。
冷蔵庫の駆動音。
外を走る車。
上階の足音。
パソコンのファン。
全部聞こえている。
でも市場を見ている時だけ、それらが遠くなる。
彩香は机に突っ伏した。
心臓が速い。
勝っているのに、落ち着かない。
利益が増えるほど、逆に呼吸が浅くなっていく。
負けたくない。
一度勝ち始めると、その感情がどんどん強くなる。
「……気持ち悪い」
彩香は立ち上がり、コンビニで買ったミネラルウォーターを飲んだ。
ぬるい。
窓の外は夕焼けだった。
赤く染まったアパートの壁が、熱を持ったみたいにじっとりしている。
机の横には、心理学の本とノートが山積みになっていた。
『群集心理』
『認知バイアス』
『行動経済学』
ノートには、びっしりと文字が書かれている。
『急騰後、人は自分だけ取り残される恐怖に耐えられない』
『損失中、人は情報を都合よく解釈する』
『強気コメントが増えた時は、出口が近い』
彩香は自分の字を見つめる。
まるで観察日記だ。
人間の。
その時、通知音が鳴った。
母からだった。
『仕事見つかった?』
彩香はしばらく画面を見つめた。
指が止まる。
『まだ』
短く返す。
すぐに既読がついた。
『ちゃんと普通の仕事しなさい』
『また変なことしてるんじゃないでしょうね』
彩香はスマホを伏せた。
胸の奥が重い。
普通。
その言葉が嫌いだった。
普通の速度で話せない。
普通に働けない。
普通に人付き合いできない。
でも市場だけは違う。
ここには「普通」がない。
勝った人間だけが正しい。
彩香は再び椅子へ座った。
夜間PTS市場の板を見る。
細かい値動き。
薄い板。
焦って飛びつく買い。
全部見える。
まるで感情が透けているみたいに。
その時だった。
突然、隣の部屋から大きな笑い声が聞こえた。
彩香の肩が跳ねる。
頭の奥で音が反響した。
「っ……」
呼吸が乱れる。
イヤホンを押し込む。
でもダメだった。
水道音。
テレビ。
バイク。
全部が脳へ一気に流れ込んでくる。
視界がぐらつく。
「うるさい……」
小さく呟く。
なのに、チャートだけは見える。
むしろ鮮明になる。
数字が脈みたいに動いていた。
上がる前の躊躇。
崩れる前の沈黙。
人間の感情が、値動きになって流れている。
彩香は自分でも気づいていた。
最近、ずっと眠れていない。
市場が気になって脳が止まらない。
夜中でも掲示板を確認してしまう。
急騰銘柄の夢を見る。
目を閉じても、ローソク足が浮かぶ。
でもやめられない。
勝てるから。
人生で初めて、自分が優位に立てる場所だった。
「彩香」
突然、権藤の声が頭に蘇る。
『お前みたいな脳がバグった不良品、一生苦労するぞ』
彩香の指先が冷たくなる。
モニターへ映る自分の顔。
目の下には濃い隈。
頬は痩せ、髪は乱れている。
普通じゃない。
そんなこと、ずっと前から知ってる。
でも。
「だから何」
彩香は小さく笑った。
証券口座の数字を見る。
二百万。
権藤より稼いでいる。
自分をゴミ扱いした男より。
その瞬間、胸の奥に黒い熱が広がった。
嬉しい。
気持ちいい。
人を見返すって、こんなに快感なんだ。
彩香はゆっくりチャートを開く。
翌日、権藤サロンが推奨予定の銘柄。
出来高が増え始めている。
また群がる。
また欲望が膨らむ。
彩香には全部わかる。
「……次も取れる」
外では雨が降り始めていた。
窓ガラスを叩く音が、無数の指先みたいに部屋へ響く。
彩香はイヤホンを深く押し込み、暗い部屋の中で静かに笑った。




