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第3話 プロスペクト理論の罠

第3話 プロスペクト理論の罠


「絶対に取り返せます」


パソコンのスピーカーから流れる男の声に、彩香は眉をひそめた。


薄暗い部屋。モニターの青白い光だけが、机の上のペットボトルや積み上がった心理学の本を照らしている。時計は夜十一時を回っていた。


動画配信サイトの画面には、スーツ姿の権藤が映っていた。


『負け組から脱出する投資術』


派手なテロップ。


笑顔。


妙に優しい声。


「いいですか? 初心者が一番やっちゃいけないのは、“狼狽売り”なんですよ」


彩香の目が細くなる。


権藤はホワイトボードにグラフを書きながら続けた。


「含み損が出ても慌てない。ガチホ。これが勝者の思考です」


コメント欄には、


『ありがとうございます!』

『権藤さんのおかげで救われました!』

『信じて持ち続けます!』


という文字が高速で流れていた。


彩香はイヤホンを外す。


耳の奥がじんじんした。


「……嘘つき」


小さく呟く。


でも、ただの嘘じゃない。


もっと質が悪い。


権藤は、人間が「損を確定したくない」ことを知っている。


だから逃げ道を塞ぐ。


「今売ったら負け」

「持っていれば助かる」

「耐えた人だけ勝てる」


そうやって、人を含み損へ閉じ込める。


彩香は机に置かれたノートを開いた。


『損失回避』


大きく書かれた文字の下に、何本もの線が引かれている。


人は利益を得る喜びより、損失を確定する苦痛を強く感じる。


だから切れない。


だから祈る。


だから騙される。


彩香はチャートを開いた。


権藤が動画で推奨していた銘柄。


数日前に急騰し、その後ゆっくり下落している。


掲示板を見る。


『まだ終わってない』

『機関の空売りだ』

『権藤さんを信じろ』


彩香は静かに息を吐いた。


みんな、損したくないんだ。


だから「助かる理由」を探し続ける。


その時、権藤の声が再びスピーカーから流れた。


「僕はね、会員さんを絶対見捨てません」


彩香は思わず笑った。


冷たい笑いだった。


「見捨ててるじゃん」


机の上の缶コーヒーを口に含む。ぬるくて苦い。


でも頭は冴えていた。


彩香はマウスを動かしながら、ゆっくり考える。


権藤のやり方は単純だ。


先に買う。

会員へ推奨する。

群衆心理で上がったところを売る。


残るのは、高値掴みした会員だけ。


「……だったら」


彩香の指が止まる。


「利用できる」


その瞬間、脳の中で何かが噛み合った。


数日後。


彩香は権藤の投資サロンへ登録していた。


月額三万円。


残高を見ると胃が少し痛む。


でも必要経費だった。


配信開始十分前。


画面には『本日の爆上げ注目銘柄』という派手な文字が表示されている。


会員用チャットは熱気に満ちていた。


『今日も頼みます!』

『人生変えたい!』

『借金取り返したい!』


彩香はコメント欄を見つめる。


焦り。

依存。

期待。


全部、むき出しだった。


開始時間になると、権藤が現れた。


「こんばんは、みなさん」


穏やかな笑顔。


昔、コンビニで見ていた顔と同じだった。


客の前だけで使う声。


「今日の銘柄、かなり自信あります」


会員たちのコメント速度が上がる。


彩香は同時に板情報を開いた。


権藤が銘柄名を出す。


その瞬間、買い注文が一気に増えた。


株価が跳ねる。


「……速い」


彩香の瞳が動く。


これだ。


人間が群れた瞬間、チャートが歪む。


掲示板には、


『きたあああ!』

『乗れ乗れ!』

『ストップ高!』


興奮が溢れていた。


でも彩香は買わなかった。


代わりに、出来高を見る。


買いの勢い。

板の厚み。

利確タイミング。


そして気づく。


「権藤、もう売ってる」


株価は上がっているのに、売り板だけ不自然に厚い。


会員が飛びついたところへ、誰かが大量に流している。


彩香は迷わず空売りを入れた。


数分後。


株価が崩れる。


『え?』

『押し目?』

『まだ持つ!』


コメント欄がざわつく。


権藤は笑顔を崩さない。


「慌てないでください。こういう時こそ握力です」


彩香はその言葉を聞きながら、静かに決済した。


プラス四万八千円。


心臓がどくりと鳴る。


勝った。


初めて、自分の理論だけで勝った。


しかも相手は権藤だ。


「……そういうことか」


彩香はチャートを見つめる。


市場は数字じゃない。


人間だ。


権藤は、その感情を煽って食っている。


でも彩香には見える。


どの瞬間に欲望が膨らみ、

どの瞬間に恐怖へ変わるか。


それは、空気を読む能力じゃない。


分析だ。


群衆のパターン解析。


彩香はもう一度、サロンのコメント欄を開く。


『助かりますよね?』

『信じてます』

『ナンピンしました!』


そこには、不安が溢れていた。


なのに誰も逃げない。


逃げたら負けになるから。


彩香は小さく呟く。


「人って、ほんと損切りできないんだ」


外では救急車のサイレンが遠くを走っていた。


その音すら、今の彩香には心地よかった。


ようやく見つけた気がした。


自分が勝てる場所を。


モニターの光が、彩香の瞳を静かに照らしていた。



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