第2話 過集中の覚醒
第2話 過集中の覚醒
朝九時。
ノートパソコンの画面が白く光った瞬間、彩香の呼吸が浅くなった。
東京市場、前場開始。
複数のチャートが同時に動き出す。赤と緑の数字が高速で切り替わり、出来高のバーが脈拍みたいに上下する。
カチ、カチ、カチ。
マウスのクリック音だけが部屋に響いていた。
彩香は床に座ったまま、膝を抱える姿勢でモニターを見つめている。コンビニ弁当の空き容器は昨日から放置されたままだ。窓も閉め切っているせいで、部屋には熱気とプラスチックの匂いがこもっていた。
でも、不思議と気にならない。
チャートを見ている時だけは、世界のノイズが遠ざかる。
「……来る」
小さく呟く。
SNSで話題になっていた小型株が、一気に買われ始めていた。
彩香は掲示板を開く。
『乗り遅れるな!』
『大口入ったぞ!』
『今日ストップ高ある!』
呼吸が速くなる。
人の熱が、文字越しに伝わってくる。
期待。
興奮。
焦り。
みんな同じ顔をしている気がした。
彩香はマウスを握る。
「上がる」
成行買い。
注文が通った瞬間、心臓が跳ねた。
数字が動く。
含み益、三千円。
五千円。
八千円。
「……っ」
口元が熱くなる。
勝ってる。
初めてだった。
誰かに怒鳴られたわけでもない。ミスを責められたわけでもない。ただ、自分の判断だけで金が増えていく。
彩香は画面に顔を近づけた。
値動きが見える。
いや、違う。
感情が見える。
上がった瞬間に飛び乗る人。
置いていかれるのが怖い人。
利益を逃したくない人。
全部、波みたいにチャートへ出る。
「これ……簡単じゃん」
その時だった。
急に、買い板が薄くなる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、空気が変わった。
彩香の指が止まる。
次の瞬間、株価が急落した。
「え……?」
赤い数字が連続で点滅する。
マイナス一万。
マイナス二万。
掲示板の空気が変わる。
『利確売りきた』
『逃げろ』
『やばい』
さっきまでの熱狂が、一気に恐怖へ反転していた。
彩香の喉が鳴る。
でも売れなかった。
まだ戻るかもしれない。
今売ったら損が確定する。
その考えが頭に張りついた。
株価はさらに落ちる。
マイナス三万。
四万。
五万。
「うそ……」
指先が冷たくなる。
息が苦しい。
なのに画面から目を離せない。
『ナンピンチャンス!』
『ここで売る奴は養分』
掲示板の言葉が流れていく。
彩香は無意識に追加で買っていた。
平均取得単価が下がる。
でも株価はもっと下がる。
「なんで……」
額に汗が滲む。
頭の中で、何かがぐちゃぐちゃになっていた。
恐怖。
焦り。
否定。
負けたくない。
認めたくない。
その感情だけが膨らんでいく。
昼過ぎ。
彩香は完全に動けなくなっていた。
残高は半分近くまで減っていた。
部屋の空気が異様に重い。
パソコンの熱風が肌にまとわりつく。
時計の秒針だけがやけにうるさい。
「……なんで」
唇が震える。
「なんで読めなかったの」
チャートは見えていたはずだった。
人の感情も。
なのに負けた。
彩香はゆっくり掲示板を見返した。
そこには、自分と同じ人間が大量にいた。
『戻るよな?』
『損切りできない』
『信じてる』
彩香はそこで止まる。
信じてる。
その言葉が妙に引っかかった。
彼らは分析していない。
願っている。
「……あ」
彩香の目が細くなる。
そうか。
みんな、自分と同じだ。
損したくない。
だから、「戻る」と信じ込む。
冷静だから持ち続けるんじゃない。
怖くて切れないだけだ。
彩香は机の横に散らばっていた心理学の本を掴んだ。
ページをめくる。
損失回避。
人は利益を得る喜びより、損失の痛みを強く感じる。
「これだ……」
喉の奥から声が漏れる。
彩香はノートを開いた。
ボールペンを走らせる。
『急落時、人は合理的にならない』
『含み損が増えるほど希望的観測が強くなる』
『恐怖で売る人間と、損失を認められない人間がいる』
書く。
書く。
止まらない。
気づけば外は暗くなっていた。
部屋の中にはペン先の擦れる音だけが響く。
彩香の目は異様に冴えていた。
疲れているはずなのに、脳だけが熱い。
「あいつら、チャート見てない」
独り言が漏れる。
「感情で押してるだけだ」
だから読める。
恐怖のタイミングも。
欲望のピークも。
人間は同じ場所で壊れる。
彩香は再びチャートを開いた。
今度は値段ではなく、出来高を見る。
急騰前に増える書き込み数。
同じ言葉の反復。
「まだ上がる」という集団暗示。
そこには法則があった。
偶然じゃない。
群衆心理だ。
彩香はゆっくり息を吐く。
「……わかった」
初めてだった。
世界のルールが、少しだけ理解できた気がした。
学校でも。
バイト先でも。
人間関係でも。
彩香はずっと、何が正解かわからなかった。
でも市場だけは違う。
ここでは感情が、全部数字になる。
恐怖も欲望も、隠せない。
だから分析できる。
彩香はノートの最後に、大きく一行だけ書いた。
『市場は感情で動く』
その文字を見つめながら、彩香は静かに笑った。
負けたはずなのに、不思議と絶望していなかった。
むしろ、確信していた。
「次は勝てる」
部屋の外では、雨が降り始めていた。




