第1話 劣等感のポートフォリオ
第1話 劣等感のポートフォリオ
「彩香ちゃん、またミス?」
バックヤードの冷たい蛍光灯が、じりじりと頭を焼いていた。
コンビニの狭い休憩室には、揚げ物の油と古いダンボールの匂いが染みついている。レジ締めの機械音が遠くで鳴るたび、彩香の神経は細い針で突かれるみたいに震えた。
「……すみません」
喉がうまく動かなかった。
権藤はため息をつきながら、伝票を指先で叩いた。
「発注数、また間違えてる。お前さ、昨日も説明したよな?」
彩香は黙ったまま視線を落とした。レジ袋の擦れる音、冷蔵ケースのモーター音、外を走るバイクの排気音。全部が一度に耳へ流れ込んでくる。
音が多すぎる。
権藤の声だけに集中しようとしても、脳が勝手に別の情報を拾ってしまう。
「聞いてんのか?」
「聞いてます」
「じゃあなんでできねえんだよ」
その言葉に、胸の奥が小さく縮こまった。
権藤は四十五歳。店長。いつも整髪料の甘ったるい匂いを漂わせていて、笑う時だけ妙に歯を見せる男だった。
客の前では愛想がいい。
でも裏では違う。
「お前、一回病院ちゃんと行った方がいいんじゃねえの?」
権藤は鼻で笑った。
「最近多いらしいな、そういうの。なんだっけ。ADHD?」
彩香の肩がぴくりと揺れる。
その四文字を聞くたび、自分が人間じゃない何かに分類された気がした。
「普通の奴はさ、こんな簡単な仕事で何回もミスしねえんだよ」
沈黙。
権藤は続けた。
「悪いけど、お前もう無理。うちじゃ使えない」
その瞬間、冷蔵庫の低い駆動音だけがやけに大きく聞こえた。
解雇。
その二文字が、頭の中でゆっくり形になる。
「あの……」
「給料は来週振り込む。以上」
権藤は伝票を机に投げた。
白い紙が乾いた音を立てる。
「社会ってさ、学校みたいに甘くねえんだよ。お前みたいな脳がバグった不良品、一生苦労するぞ」
彩香は何も言い返せなかった。
怒りより先に、疲労が来ていた。
まただ。
また普通になれなかった。
店を出ると、夜風が肌に張りついた。六月の湿気を含んだ空気が重い。道路脇の排水溝から生臭い匂いが上がっている。
彩香はイヤホンを押し込んだ。
それでも音は消えない。
車のエンジン音。
信号機の電子音。
誰かの笑い声。
世界はいつも、情報量が多すぎた。
駅までの道を歩きながら、彩香は自分の指先を見た。震えている。
悔しい。
でも何が悔しいのか、うまく整理できない。
仕事をクビになったことか。
権藤の言葉か。
それとも、自分が本当に壊れている気がすることか。
アパートに帰ると、六畳一間の空気は熱がこもっていた。古いノートパソコンのファン音が、虫みたいに細く鳴っている。
彩香はバッグを床に落とし、そのまま机の前へ座った。
画面には株価チャートが表示されたままだった。
赤と緑のローソク足が並んでいる。
今日も、ある銘柄が急落していた。
SNSでは阿鼻叫喚だった。
『終わった』
『損切りできない』
『戻るよな?』
『助けて』
彩香はスクロールを止める。
不思議だった。
みんな、同じタイミングで怖がる。
同じタイミングで欲しがる。
まるで、巨大な感情の波みたいに。
彩香は心理学の本を手に取った。付箋だらけのページを開く。
プロスペクト理論。
人は利益より、損失を強く恐れる。
その一文を読んだ瞬間、頭の奥で何かが繋がった。
「あ……」
小さく声が漏れる。
権藤の顔が浮かんだ。
客に投資話をしていた時のことを思い出す。
「今売ったら負け確定だから」
「ガチホしとけば戻る」
「狼狽売りが一番ダメ」
あれは全部、感情を操作していたんだ。
安心させて。
期待させて。
損を認めさせない。
彩香はゆっくりチャートを見た。
価格じゃない。
これは感情だ。
恐怖。
欲望。
焦り。
慢心。
全部、人間だ。
「……人の心理が動くなら」
独り言が、静かな部屋に落ちた。
「チャートは読める」
心臓がどくりと鳴る。
その瞬間だけ、世界のノイズが消えた気がした。
彩香は証券口座の画面を開く。
残高、三十二万四千円。
バイト代を少しずつ貯めた金だった。
普通に生きるための金。
でも普通になれなかった。
なら。
彩香はゆっくりマウスを握った。
「だったら、勝つしかないじゃん」
エアコンの壊れた部屋は暑かった。
窓の外では、誰かが笑っている。
でも彩香の目にはもう、チャートしか映っていなかった。




