第5話 集団ヒステリーの渦中で
第5話 集団ヒステリーの渦中で
その日、市場は朝からおかしかった。
寄り付き直後から、指数が一直線に落ちていく。
赤。
赤。
赤。
モニターに並ぶ銘柄一覧が、血みたいに染まっていた。
彩香は机の前で膝を抱えたまま、静かに画面を見つめている。カーテンは閉め切ったまま。部屋には昨夜飲みかけたコーヒーの酸っぱい匂いと、熱を持ったパソコンの排気臭が混ざっていた。
テレビでは経済ニュースが流れている。
『海外市場の急落を受け――』
『投資家心理が悪化――』
『全面安の展開です――』
アナウンサーの声が耳障りだった。
彩香はミュートにする。
その瞬間、世界が少し静かになった。
だが市場は静かじゃない。
掲示板は悲鳴で埋まっていた。
『終わった』
『もう無理』
『助けて』
『退場する』
チャートは崩壊していた。
昨日まで強気だった銘柄が、まるで穴の空いた船みたいに沈んでいく。
投げ売り。
狼狽売り。
恐怖の連鎖。
彩香は目を細めた。
「……早い」
人間が壊れる速度は、いつも想像以上に速い。
一つの売りが、次の売りを呼ぶ。
赤い数字を見る。
不安になる。
他人が逃げる。
自分も逃げる。
それだけだ。
なのに人は、それを「暴落」と呼ぶ。
机の横で、通知音が鳴った。
ディスコード。
通話相手の男からだった。
『やばい』
『マジで死ぬ』
『彩香、お前逃げた!?』
彩香は通話へ入った。
瞬間、男の荒い呼吸が耳へ飛び込んでくる。
「終わった終わった終わった! なんなんだよこれ!」
背後ではテレビ音とキーボード音が混ざっていた。
「落ち着いて」
「落ち着けるか! 含み損四十万だぞ!?」
彩香はチャートを見る。
男が持っている銘柄。
確かに急落していた。
でも、妙だった。
「……まだ売り切ってない」
「は?」
「出来高」
彩香は小さく呟く。
「恐怖のピーク、まだ来てない」
その時だった。
一気に売り板が崩れる。
株価がさらに急落した。
男が悲鳴を上げる。
「うわっ!? 無理無理無理! 切る!!」
損切り注文。
次々と投げられる。
掲示板も地獄だった。
『もう終わり』
『逃げろ』
『人生終わった』
彩香は、その流れをじっと見ていた。
心拍数。
書き込み速度。
出来高。
全部が加速している。
恐怖が市場全体へ伝染していた。
「……来た」
彩香はゆっくりマウスを握る。
「お、お前何してる?」
「買う」
「は!? 今!?」
彩香は答えない。
注文を入れる。
さらに入れる。
落ちる。
また買う。
男の声が裏返った。
「頭おかしいって! こんなの止まんねえよ!」
でも彩香には見えていた。
今売っている人間は、「冷静な判断」で売っているんじゃない。
耐えられなくなっただけだ。
恐怖には限界がある。
そして人間は、限界を超えると一斉に投げる。
つまり今は、
「一番怖がった人から脱落している状態」。
なら。
その後に残るのは、売り枯れだ。
彩香は呼吸を整えながら、板を見る。
売り注文が少しずつ減っていく。
掲示板の勢いも鈍る。
絶望は長く続かない。
人間は、疲れるから。
数分後。
株価が反発した。
ほんの少し。
だが、その小さな反発で空気が変わる。
『あれ?』
『戻す?』
『リバきた!?』
希望。
たった数円上がっただけで、人間はまた期待し始める。
彩香は静かに呟いた。
「ほんと単純」
男が息を呑む。
「……お前、見えてんの?」
彩香はチャートから目を離さない。
「見えてるのは、人間」
株価じゃない。
感情だ。
恐怖が限界を超える瞬間。
希望へ反転する瞬間。
全部、波みたいにチャートへ出る。
その時、画面右下に別ウィンドウが開いた。
権藤サロンの会員限定配信。
彩香は無言でクリックする。
権藤が画面に映った。
珍しく顔が強張っている。
「皆さん、慌てないでください!」
声が少し上ずっていた。
コメント欄は大荒れだ。
『大丈夫って言ったじゃん!』
『含み損エグい!』
『助かるんですよね!?』
権藤は笑顔を作る。
でも目が笑っていない。
「こういう時こそ買い増しです!」
彩香はその瞬間、理解した。
権藤、捕まってる。
自分でも逃げられないんだ。
会員へ強気を見せ続けたせいで。
彩香の口元がわずかに歪む。
その時だった。
権藤の視線が、一瞬だけ止まる。
画面端のトレードランキング。
そこに彩香のユーザー名が表示されていた。
本日利益、プラス百二十万。
権藤の目が細くなる。
「……誰だ、こいつ」
彩香はその視線を感じた気がした。
権藤は気づいた。
暴落で悲鳴を上げる市場の中、一人だけ逆方向へ賭けている人間がいる。
しかも勝っている。
彩香は決済ボタンを押した。
利益確定。
数字が跳ね上がる。
百四十八万。
ディスコード通話の男が、呆然と呟く。
「なんなんだよ、お前……」
彩香は静かにイヤホンを外した。
耳鳴りがしていた。
頭が熱い。
でも不思議と怖くない。
市場全体が恐怖で壊れている時ほど、彩香の頭は澄み切っていく。
普通の人間がパニックになる場所で、自分だけが冷静になれる。
それが少しだけ、気持ちよかった。
窓の外では、雨が激しく降っていた。
アスファルトを叩く音が、まるで無数の売り注文みたいに聞こえた。




