第10話 壊れたまま、勝つ
第10話 壊れたまま、勝つ
権藤の配信チャンネルは、もうコメント欄すらまともに動いていなかった。
『返金しろ』
『人生壊れた』
『お前のせいだ』
画面を埋め尽くす罵倒。
低評価。
炎上動画。
SNSでは権藤の過去発言が切り抜かれ、何万回も拡散されていた。
『握力が大事』
『最後に勝つのはメンタル強者』
『ここで逃げる奴は一生負け犬』
今では全部、嘲笑の対象だった。
彩香は暗い部屋で、その配信を無音で見ていた。
モニターの光だけが、机の上の缶コーヒーを白く照らしている。
外は夜だった。
雨は止んでいる。
代わりに、遠くの高速道路を走る車の低い振動音が窓ガラスを微かに震わせていた。
権藤は配信画面の中で、別人みたいに老けて見えた。
髪は乱れ、目は充血している。
以前みたいな「成功者の余裕」は、もうどこにもない。
「……誤解なんです」
掠れた声。
「私は、会員さんを助けたくて……」
コメント欄がさらに荒れる。
『まだ言い訳してる』
『全部お前が煽った』
『消えろ』
権藤の唇が震える。
「違う……俺は……」
その瞬間、配信が切れた。
彩香は静かにモニターを閉じる。
終わった。
本当に。
権藤の資産はゼロ。
追証。
損害賠償請求。
サロン崩壊。
市場で負けたんじゃない。
自分の欲望に飲まれて壊れた。
それだけだ。
部屋は静かだった。
でも彩香の耳には、相変わらずいろんな音が入ってくる。
冷蔵庫のモーター音。
換気扇。
隣人の笑い声。
遠くの電車。
ノイズは消えない。
一生、消えない。
彩香はゆっくり椅子へ寄りかかった。
机の上には、何冊もの心理学の本が積まれている。
ページは付箋だらけだ。
『損失回避』
『正常性バイアス』
『群集心理』
全部、人間を読むための材料だった。
愛するためじゃない。
勝つために読んだ。
それだけ。
彩香は証券口座を開く。
残高。
桁が増えている。
数年前なら想像もできなかった数字。
コンビニでレジ打ちをしていた頃、自分には一生縁がないと思っていた金額。
でも、不思議と実感は薄かった。
嬉しい。
なのに、満たされない。
彩香は天井を見上げる。
白い。
少し黄ばんでいる。
「……勝ったんだよね」
誰もいない部屋で呟く。
返事はない。
その時、パソコンへメール通知が表示された。
母からだった。
件名なし。
短い文章。
『元気ならいいです』
彩香はしばらく画面を見つめる。
それだけだった。
謝罪もない。
理解もない。
でも、それでいい気がした。
母は一生、自分を理解できない。
たぶん、自分も母を理解できない。
人間ってそういうものだ。
完全には噛み合わない。
彩香はメールを閉じる。
怒りはなかった。
期待も。
ただ静かだった。
市場を知ってから、彩香は理解した。
人間は合理的じゃない。
恐怖で動く。
安心に群がる。
都合のいい物語を信じる。
だからチャートは読める。
感情にはパターンがあるから。
「普通になれない」
昔は、その言葉が怖かった。
でも今は違う。
普通の人間は、空気を読む。
普通の人間は、群衆に合わせる。
普通の人間は、「みんなが買うから買う」。
だから負ける。
彩香は静かに笑った。
少しだけ。
皮肉みたいに。
あの日。
権藤は言った。
『お前みたいな脳がバグった不良品、一生苦労するぞ』
でも結局、壊れたのはどっちだったんだろう。
彩香は立ち上がり、窓を開けた。
夜風が部屋へ流れ込む。
湿ったアスファルトの匂い。
街の光。
車のヘッドライト。
東京は眠っていなかった。
大量の人間が、
今この瞬間も欲望で動いている。
焦っている。
怯えている。
夢を見ている。
市場は、巨大な感情の海だ。
そして彩香には、その波が見える。
たぶんこれからも。
ずっと。
彩香は机へ戻る。
モニターには、夜間先物のチャートが映っていた。
赤と緑の光。
脈拍みたいに動く数字。
昔なら怖かった。
でも今は違う。
ようやく、自分の脳の使い方がわかった。
誰かに受け入れられる必要はない。
普通にならなくてもいい。
この脳は、この市場で勝てる。
それで十分だった。
彩香はゆっくりマウスへ触れる。
それから、静かにパソコンを閉じた。
暗くなった画面に、自分の顔が映る。
目の下の隈。
疲れた瞳。
少し痩せた頬。
普通じゃない顔。
でも、もう嫌じゃなかった。
彩香は小さく呟く。
「私は、私のままで勝った」
窓の外では、東京の光が静かに揺れていた。




