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エピローグ ラビットビーチ

エピローグ ラビットビーチ


海が、静かだった。


こんな静けさが世界にあるなんて、彩香は知らなかった。


ランペドゥーザ島。


ラビットビーチ。


白い砂浜は陽射しを受けて淡く光り、波はガラスみたいに透き通っている。海と空の境界線が曖昧で、遠くの小舟は本当に宙へ浮いているように見えた。


浮島現象。


透明度が高すぎて、船影が空中へ浮かんでいるみたいに錯覚するらしい。


彩香は裸足で砂浜を歩いた。


細かい砂が足裏へ沈み込む。


少し熱い。


でも不快じゃなかった。


潮風が頬を撫でる。


塩の匂い。


遠くで鳴く鳥の声。


小さな波音。


東京では、どんな高級ホテルへ泊まっても、完全な静寂なんて存在しなかった。


冷蔵庫。

室外機。

車。

誰かの怒鳴り声。


世界はいつも騒がしかった。


でもここは違う。


音が、優しい。


彩香はサングラスを少し外し、海を見つめた。


青かった。


ただ青い。


株価も。

ニュースも。

SNSも。


ここには何もない。


それが妙に落ち着いた。


「Beautiful, right?」


後ろから声がした。


振り返ると、小さな売店の店員らしい女性が笑っている。日に焼けた肌。白いワンピース。風で髪が揺れていた。


彩香は少し間を空けてから頷く。


「……うん」


英語は得意じゃない。


でも、それだけで十分だった。


女性は海を指差す。


「The sea heals people」


海は人を癒す。


彩香はその言葉を頭の中で繰り返した。


癒す。


その感覚が、まだよくわからない。


でも確かに、ここ数日、頭痛が少なかった。


耳鳴りも減った。


夜も少し眠れる。


彩香は砂浜へ座った。


波が足先へ触れる。


冷たい。


でも心地いい。


目を閉じる。


すると、ようやく自分の脳が静かになっていくのを感じた。


市場を見ている時とは違う。


もっと深い静けさだった。


東京を出る時、誰にも何も言わなかった。


権藤のニュースはまだ続いている。


損害賠償。

訴訟。

破産。


ネットでは今でも名前が流れている。


でも彩香は、もう見ていなかった。


勝ったから。


もう十分だった。


「……疲れてたんだ」


小さく呟く。


自分でも驚くほど、声が弱かった。


風が吹く。


波が寄せて、返す。


それだけ。


なのに、ずっと見ていられる。


彩香は思い出す。


小さい頃から、世界はいつも刺激が強すぎた。


教室のざわめき。

蛍光灯。

給食の匂い。

怒鳴り声。


全部が脳へ一気に流れ込んできた。


だから疲れる。


だから普通に生きられない。


でも市場だけは違った。


市場にはパターンがあった。


恐怖。

欲望。

焦り。


人間の感情は、数字になって現れる。


だから読めた。


だから勝てた。


彩香は海を見つめる。


透明な水の下を、小魚の群れが流れていく。


誰も急いでいない。


誰も怒鳴っていない。


ただ、生きている。


それだけだった。


「……変なの」


彩香は少し笑った。


市場で勝った瞬間より、

今の方が落ち着いている。


大金を稼いでも、

脳は休まらなかった。


次の値動き。

次の暴落。

次のチャンス。


ずっと考えていた。


勝つことは快感だった。


でも同時に、中毒だった。


波の音が聞こえる。


規則的で、柔らかい。


まるで地球そのものが呼吸しているみたいだった。


彩香は空を見上げる。


雲がゆっくり流れている。


誰にも急かされない速度で。


その時、近くを歩いていた老夫婦が、浮いて見える小舟を指差して笑った。


「Look! Floating!」


彩香も視線を向ける。


本当に浮いているみたいだった。


海の上に。


空中へ。


現実感が薄い。


まるで夢の景色だ。


彩香はその光景を見つめながら、ふと思った。


世界って、別に人間だけじゃないんだ。


市場も。

社会も。

学校も。


全部、人間が作ったルールだ。


でも海は違う。


風も。

波も。

光も。


誰かの評価で動かない。


普通じゃなくても、拒絶しない。


彩香はゆっくり息を吐いた。


潮の香りが肺へ入る。


冷たくて、少し甘い。


気づけば、肩の力が抜けていた。


「……生きててもいいかも」


誰に言うでもなく呟く。


波がまた足元へ来る。


さらさらと砂をさらっていく。


彩香は目を閉じた。


静かだった。


本当に静かだった。


そしてその静けさの中で初めて、自分はずっと「世界に勝つこと」ばかり考えていたのだと気づく。


負けたくなかった。


否定されたくなかった。


壊れていると言われたくなかった。


だから戦った。


市場で。


人間でできた巨大な感情の海で。


でも今、目の前にある本物の海は、何も要求してこない。


勝たなくていい。


分析しなくていい。


ただ存在していていい。


それが少しだけ、嬉しかった。


夕陽が海へ沈み始める。


水面が金色に染まる。


浮いて見える船が、光の中でゆっくり揺れていた。


彩香はその景色を見つめながら、静かに目を細めた。


壊れたままでも。


たぶん、人は生きていける。


波の音だけが、優しく世界を満たしていた。



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