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第9話 心理学の帰結

第9話 心理学の帰結


「まだ終わってねえ」


権藤はそう言って笑った。


だが、その笑顔はもう以前のものではなかった。


頬は痩け、目の下には濃い隈が浮かんでいる。高級スーツもどこか皺だらけで、机の上には空になったエナジードリンクの缶が何本も転がっていた。


事務所は静かだった。


スタッフはほとんど辞めた。


会員数も激減。


コメント欄には罵倒しか残っていない。


それでも権藤は、まだ「自分は勝てる」と信じていた。


「相場はメンタルなんだよ」


酒焼けした声で呟く。


「最後にビビらなかった奴が勝つ」


モニターには、ある新興AI関連株のチャートが表示されていた。


数日前からSNSで話題になっている銘柄。


出来高は急増。


値動きも荒い。


典型的な投機銘柄だった。


彩香は、自宅の暗い部屋でそのチャートを見ていた。


机の上には飲みかけのブラックコーヒー。冷え切っている。窓の外では深夜の雨が静かに降っていた。


モニターの光だけが、彩香の横顔を青白く照らしている。


「……入った」


小さく呟く。


権藤の信用買い。


高レバレッジ。


しかも全力。


彩香はゆっくり目を閉じた。


やっぱり。


人間は、追い詰められると「一発逆転」を信じ始める。


損を取り返したくなる。


失った承認を取り戻したくなる。


だから賭ける。


冷静じゃいられなくなる。


彩香はSNSを開いた。


匿名アカウント。


投資系インフルエンサー。


掲示板。


そこへ、少しずつ情報を流していく。


『機関投資家、大量空売り入った?』

『踏み上げ相場くるかも』

『今売ったら置いてかれる』


断定はしない。


煽りすぎない。


重要なのは、「みんなが勝手に想像する余白」を残すことだった。


数分後。


掲示板が加熱し始める。


『マジで来る!?』

『空売り焼けるぞ!』

『億チャンス!』


彩香はチャートを見る。


上がる。


さらに上がる。


権藤が追加で買う。


「そう」


彩香は静かに呟く。


「その反応」


予想通りだった。


権藤は、自分が「選ばれた側」だと思いたい。


だから、自分に都合のいい情報だけ信じる。


それが慢心。


そして慢心した人間は、自分でブレーキを壊す。


翌朝。


市場開始と同時に、AI株は暴騰した。


事務所の権藤は笑っていた。


「見たかよ……!」


モニターへ顔を近づける。


含み益が増えていく。


数百万。


一千万。


権藤の呼吸が荒くなる。


「戻ってきた……俺はまだ終わってねえ……!」


ライブ配信を始める。


コメント欄が沸騰していた。


『権藤さん復活!!』

『やっぱ天才!』

『信じてました!』


その言葉が、権藤の脳を麻痺させていく。


彩香は暗い部屋で、その様子を見ていた。


ヘッドホン越しでも、権藤の興奮が伝わってくる。


人間は面白い。


一度否定された人間ほど、「再評価」に依存する。


だから止まれない。


権藤はさらに信用買いを積み上げた。


限界まで。


彩香はそこで、静かに息を吐く。


「……天井」


そして昼。


海外市場の悪材料ニュースが流れた。


ほんの小さなニュース。


でも十分だった。


株価が、一瞬止まる。


権藤の眉が動く。


掲示板がざわつく。


『あれ?』

『利確くる?』


次の瞬間。


巨大な売りが落ちた。


株価が崩れる。


「……っ」


権藤の顔色が変わる。


でも、まだ笑う。


「押し目だ」


追加買い。


株価、さらに下落。


『逃げろ!』

『やばい!』


コメント欄が恐怖へ反転する。


権藤の呼吸が荒くなる。


でも止まれない。


「ここで売る奴は負け犬だ!!」


叫びながら、さらに買う。


彩香は静かにチャートを見る。


綺麗だった。


人間が壊れる瞬間は、いつも同じ形をする。


否認。

楽観。

希望。

執着。


そして最後に、恐怖。


権藤はもう「利益」のために売買していない。


「負けを認めたくない」だけだ。


株価が急落する。


マイナス十%。


十五%。


信用維持率低下。


権藤のスマホが鳴り続ける。


追証通知。


会員からの電話。


SNSの罵倒。


全部が一斉に押し寄せる。


「うるせぇ……!」


権藤は頭を抱えた。


でも指だけは止まらない。


買う。


また買う。


「戻る……絶対戻る……!」


その姿を見ながら、彩香は静かに呟く。


「人って」


モニターの光が瞳へ映る。


「損をするから壊れるんじゃない」


株価がさらに崩れた。


ロスカット。


強制決済。


掲示板が阿鼻叫喚になる。


権藤の顔から血の気が消えていく。


「損を認められないから壊れる」


権藤は震える手でマウスを握った。


でも、もう遅い。


含み損は膨れ上がり、逃げ場は消えていた。


画面の中のチャートは、まるで崖みたいに真下へ落ちていく。


権藤の口が開く。


だが声にならない。


彩香は静かにヘッドホンを外した。


部屋は静かだった。


雨の音だけが聞こえる。


その静けさの中で、彩香はゆっくり目を閉じる。


ようやく終わる。


ずっと、自分を「壊れている」と呼んだ世界が。


市場は公平だった。


感情に飲まれた人間から、消えていく。


ただ、それだけだから。



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