消えた白い鳥:黒い影を追う
同じ頃。
港町の路地裏にあるBARは、昼間だというのに扉を閉ざしていた。
入口の看板は、すでに裏返っている。
【CLOSE】
だが、店の奥では別の顔が動いていた。
カウンターの裏。
酒瓶が並ぶ棚の一部が静かに開き、その向こうに細長い部屋が現れる。
薄暗い室内には、壁一面にモニターが並んでいた。
駅裏。
商業区の端。
港へ向かうバス停。
駐輪場。
市場の入口。
倉庫街の外周。
学校近くの大通り。
人通りの少ない裏道。
数十の映像が、ほとんど音もなく切り替わっていく。
その中央に、グレンは立っていた。
黒いコートは椅子の背にかけられ、赤いマフラーだけが首元に残っている。
黄金色の瞳は、モニターの光を受けても揺れない。
人の流れ。
車の停め方。
立ち止まる時間。
視線の向き。
すれ違う時の距離。
どれも、普通に見ればただの日常だった。
けれど、日常の中に混じるわずかな歪みを、グレンは一つずつ拾っていた。
隣では、ナギがタブレットを片手に無線を繋いでいる。
「三番、駅裏の駐輪場。青い上着の男、まだ同じ場所におる。確認だけでえぇよ」
『了解』
「七番、商業区の端。白いワゴン、ナンバーだけ控えて。近づかんでください」
『了解っす』
「十二番、バス停裏。親子連れ、バス乗ったか?」
『乗りました。問題なし』
ナギの声は軽い。
けれど、指示は無駄がない。
グレンは一つの画面を指差した。
「ナギ」
「はい、ボス」
「七番を戻せ。二分前だ」
映像が巻き戻される。
画面の中で、白いワゴンがゆっくりと停まった。
運転席には男が一人。
助手席には誰もいない。
一見すれば、ただの停車だった。
けれど、グレンの目が細くなる。
「停め方が悪い」
「逃げ道向いてますね」
「それだけなら偶然だ」
「他にも?」
「同じ型の車が、昨日も商業区にいた。ナンバーは違う」
ナギの指が止まった。
「別車両ですかね」
「普通ならな」
グレンは画面の一点を指した。
「車種、停車位置、運転席の視線、発進までの間。癖が似ている」
ナギは映像を拡大した。
運転席の男は、スマホを見ているようにも見える。
だが、ほんの一瞬だけ顔を上げ、歩道を通る子ども連れへ視線を向けていた。
それも、すぐに逸らす。
見ていないように見せるための、視線の外し方だった。
「……上手いですね」
「ああ。下手な見張りなら見すぎる。こいつは見なさすぎる」
ナギはタブレットに印をつける。
「七番、近くの店に入ってください。客のふりで顔だけ拾えるなら。接触はなしです」
『了解』
数分後、無線が鳴った。
『七番です。白いワゴン、動きます』
「追います?」
「距離を取れ」
グレンの返答は早かった。
ナギはすぐに無線へ告げる。
「七番、追跡。ただし詰めんでください」
『了解』
白いワゴンは大通りへ出て、信号を一つ越え、港方面へ向かう道へ乗った。
次の交差点で右折する。
部下の車も、その少し後を追う。
だが、画面が切り替わった時には、白いワゴンの姿は消えていた。
『……見失いました』
「最後は?」
『旧市場通りの手前です。右折後、視界が切れた数秒で消えました』
ナギの眉がわずかに動く。
「路地ですかね」
『可能性はあります。ただ、どこに入ったか確認できません』
「追うな」
グレンが短く言った。
「ええんですか?」
「深追いすれば、こちらの目を教えるだけだ」
ナギはすぐに無線へ指示を出す。
「七番、追跡中止。周辺を一周して通常行動に戻ってください」
『了解』
グレンは旧市場通り周辺の映像を切り替える。
裏路地。
駐車場。
搬入口。
古い店舗の裏手。
どこにも白いワゴンは映っていない。
綺麗に消えていた。
「……躱されましたね」
「躱す道を、最初から知っていた」
「この街の監視の穴を知ってる、ってことですか」
「そう見ていい」
室内の空気が少しだけ冷えた。
ナギは軽口を飲み込み、タブレットへ指を走らせる。
「地元の半グレ、じゃないやろうな」
「違う。地元ならもっと雑だ。怯えも出る」
「監視されることにも、尾行されることにも慣れてる」
「ああ」
グレンは静かに頷いた。
「同じ裏側の人間だ。しかも、この街の外の匂いがする」
「海外ですか」
「まだ断定はしない」
「でも、疑ってる」
「疑うだけなら自由だ」
ナギは小さく息を吐いた。
「面倒なやつやんなぁ」
「だから、目の置き方を変える」
グレンはモニターの一点を指差した。
「カメラを増やす。ただし、分かりやすい位置にも置け」
「見つけさせる用ですか?」
「あぁ。避けやすい位置に置いて、避けさせる」
「本命は別に」
「店の看板、駐輪場のミラー、搬入口の防犯灯。使えるものは全部使え」
ナギの口元が少しだけ上がる。
「穴を塞ぐんじゃなく、穴だと思わせた場所に目を置く」
「そうだ」
「部下の配置も変えます?」
「今の配置は読まれた可能性がある。七番と十五番は外せ。別区域へ回せ」
「顔を覚えられた?」
「顔でなくても、歩き方や車の癖を覚えられているかもしれん」
「そこまで見るもんやろうか」
「こちらが見ているなら、向こうも見る」
淡々とした声だった。
その一言で、相手が素人ではないという前提が部屋に落ちる。
ナギはすぐに無線を繋いだ。
「配置変更します。表通りの人数を二割減らして、店側と搬入口側へ薄く散らしてください。見える位置に二人、見えへん位置に五人」
『了解』
「旧市場通りには囮カメラから。分かりやすい方を先に設置。本命は三十分遅らせます」
『了解っす』
「七番、十五番は離脱。別区域へ」
『了解しました』
指示が飛び、街の中で目の位置が変わっていく。
誰にも気づかれないまま。
グレンはモニターから一度視線を外し、机の上に置かれた封筒へ手を伸ばした。
そこには、別件の報告書がいくつも積まれている。
薬を流そうとした男の供述。
店の名を勝手に使った連中の処分報告。
港町の組織間で動いている金の流れ。
昨夜遅くに部下が持ってきた帳簿の写し。
この街の裏は、一つの事件だけで回っているわけではない。
誰かが薬を流す。
誰かが金を隠す。
誰かが店を脅す。
そして今、誰かが子どもの周りに影を落とそうとしている。
グレンは椅子へ腰を下ろし、封筒を一つ開いた。
「監視は任せる」
「はい、ボス」
「弱い情報を黒猫に投げるな」
「形にしてから、ですね」
「ああ。弱い点でも、あいつは拾いに行く」
「黒猫はん、そういうところありますもんねぇ」
「だから止める」
グレンは報告書へ目を通しながら、無線の音にも耳を向けていた。
『九番、配置変更完了』
『十三番、旧市場通りへ入りました』
『黒兎へ伝達済み。嫌そうな顔してます』
ナギが小さく吹き出す。
「ノアはん、期待通りです」
「動けばいい」
「ユキはんからは、『無茶をしないよう見ておきます』とのことです」
「上出来だ」
グレンは短く答え、別の紙を手に取った。
港に出入りする業者の一覧。
正規のもの。
グレンの息がかかったもの。
最近急に増えたもの。
過去に外の組織と繋がりがあったもの。
グレンは数件に細いペンで印をつける。
「港の業者も洗え」
「どの範囲で?」
「この三ヶ月で契約が変わったところ。荷の中身が軽いのに運搬回数が増えたところ。子ども向けの施設や学校行事の日程に近い動きをしているところ」
「学院の修学旅行も?」
「見る」
即答だった。
「学院には触れさせるな」
ナギの表情が引き締まる。
「了解っす」
「ただし、表立って守るな。守っていると気づかれれば、逆に狙われる」
「自然に薄く、ですね」
「あぁ」
グレンは資料を閉じた。
その指が、机の端に置かれた黒い封筒で止まる。
他の報告書とは違う。
差出人の名前もない。
封は、赤い蝋で閉じられている。
そこに刻まれている印は、ナギでさえ見慣れないものだった。
ナギが気づく。
「それ、どこからですの?」
「お前は知らなくていい」
「……かなり深いところですか」
「そうだ」
グレンは黒い封筒を手に取った。
街の裏側にも、さらに奥がある。
表の警察が触れられない場所。
地元の半グレ程度では名前すら聞けない場所。
ナギや部下たちでも、足を踏み入れれば帰って来られる保証がない場所。
そこにいる連中が動いていないか。
あるいは、外から来た何かが、その領域に触れようとしていないか。
それは、グレン自身でなければ確かめられない。
ナギは軽口を消した。
「ボス」
「数日空ける」
「……店ですか」
「表はいつも通り回せ。探偵としての依頼は選別しろ。面倒なものは置いておけ」
「裏は」
「監視網はそのまま。配置変更はお前が判断しろ。黒兎には深追いさせるな」
「了解っす」
「黒猫へ渡す情報は、形になったものだけだ」
「はい」
グレンは立ち上がり、椅子の背にかけていた黒いコートを取った。
ばさりと肩へ羽織る。
赤いマフラーが、黒の中でひどく鮮やかに揺れた。
「それと」
「はい」
「私がいない間に、学院周辺へ不審な影が出たら、即座に知らせろ」
「子猫ちゃん絡みですね」
「学院絡みだ」
「はいはい。学院絡みですね」
ナギはそれ以上からかわなかった。
グレンの瞳が、すでに笑っていなかったからだ。
「ボス」
「何だ」
「一人で行くんですか」
「一人でなければ入れんからな」
「……でしょうね」
ナギは小さく息を吐く。
「戻りは?」
「未定だ」
「数日って言いましたやん」
「数日は数日だ」
「ざっくりしてますねぇ」
「細かく言える場所なら、お前に任せている」
「それもそうっすね」
ナギはタブレットを抱え直し、深く頷いた。
「こちらは任せてください」
「あぁ」
グレンは黒い封筒を内ポケットへしまった。
そして、監視室の出口へ向かう。
扉の前で一度だけ足を止め、壁一面のモニターへ視線を向けた。
数十の画面の中で、港町は何事もない朝を続けている。
その日常の下に、いくつもの目が置き直されていく。
見える目と、見えない目。
避けさせる目と、避けた先で待つ目。
グレンの黄金色の瞳が、モニターの光を受けてギラリと光った。
まるで、街のさらに裏側まで見据えるように。
「ナギ」
「はい、ボス」
「相手が穴だと思って使う道を、こちらの道に変えろ」
ナギは口元だけで笑った。
「了解ですわ」
グレンはそれ以上何も言わず、監視室を出た。
扉が閉まる。
残された部屋では、モニターが街を映し続けている。
ナギは深く息を吐き、すぐに無線へ指示を飛ばした。
「全員、配置変更続行。見える目と見えへん目、両方置きます。相手が穴やと思ってる場所ほど、丁寧に見てください」
『了解』
街は、いつも通り動いている。
その裏側で。
黒い影を追うための蜘蛛の糸が、静かに張り直されていった。




