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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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8/28

消えた白い鳥:アリス期間のうちに

 翌朝。


 アティが目を覚ますよりも早く、キッチンには小さな音が響いていた。


 包丁がまな板を軽く叩く音。

 湯が沸く音。

 トースターの中でパンが焼けていく音。


 窓の外はまだ朝の光が淡く、リビングにも薄い青色の静けさが残っている。


 その中で、アッシュは一人、朝食の準備をしていた。


 長い金色の髪をゆるく後ろで結び、シャツの袖を少しだけ捲っている。

 仕事用の上着は、すでに椅子の背にかけられていた。


 いつもより少し早い朝だった。


 けれど、アッシュは慌ただしく動いているわけではない。

 皿を並べ、スープの火加減を見て、焼き上がったパンを籠へ移す。


 ひとつひとつの動作は静かで、丁寧だった。


 アティが起きてきた時に、いつもと違う朝だと不安にさせないように。

 帰りが少し遅くなる話をしても、できるだけ穏やかな一日の始まりにできるように。


 そう思いながら、アッシュはカップに温かい飲み物を注いだ。


 階段の方から、小さな足音が聞こえたのはその時だった。



「……おはよう、お父さん」



 眠そうな声。


 アッシュが振り返ると、アティが目を擦りながら階段を下りてきていた。

 その後ろから、黒猫のクロも一緒についてくる。



「おはよう、アティ。今日は早いね」


「いい匂いがしたから……」


「それはよかった」



 アッシュは柔らかく笑う。


 アティはテーブルに並んだ朝食を見て、ぱちぱちと瞬きをした。



「今日はお父さんが作ってくれたの?」


「うん。少し早く目が覚めたからね」


「珍しいね」


「そうかな」


「うん。いつもは私が起こすこと多いもん」


「それは……否定できないね」



 アッシュは困ったように笑った。


 アティは椅子に座り、まだ少し眠そうに足を揺らす。

 クロはその足元で丸くなり、尻尾の先だけをゆっくり動かしていた。



「アリスお姉ちゃんは?」


「まだ寝てると思うよ。昨日は帰ってきたばかりだったし、学院でもたくさん話していたからね」


「食堂でもいっぱい食べてた」


「それもあるね」


「食べると眠くなる?」


「普通は少しね」


「アリスお姉ちゃんは?」



 アッシュは少しだけ考えた。



「……あの人の場合、食べると元気になることもあるから」


「充電式だから?」


「シオンちゃんが言っていたね」



 アティがくすくす笑う。


 その時、二階から、どたどたという足音が聞こえた。



「おはよー! 何かいい匂いする!」



 アリスが、髪を少し乱したまま勢いよく階段を下りてくる。

 寝起きなのに、声だけはいつも通り元気だった。



「おはよう、アリス」


「おはよう、アッシュ! おはよう、アティちゃん!」


「おはよう、アリスお姉ちゃん」



 アリスはテーブルの上を見た瞬間、目を輝かせた。



「わぁ、朝ごはん!」


「朝だからね」


「アッシュのご飯、久しぶり!」


「簡単なものだけどね」


「十分十分!」



 アリスは嬉しそうに椅子へ座る。


 朝食は、穏やかに進んだ。


 パンをちぎる音。

 スープをすくう音。

 クロが足元で小さく鳴く声。


 アリスは旅先で飲んだ不思議なお茶の話をして、アティはそれを聞きながら目を輝かせる。



「それでね、色はすごく綺麗だったの。青くて、光に透かすとちょっと紫っぽくなるんだけど」


「美味しかったの?」


「……香りはよかった!」


「味は?」


「……個性的だった!」



 アリスの答えに、アッシュが静かにカップを置く。



「アリス」


「なに?」


「それは、美味しくなかった時の言い方だよ」


「違うよ! 旅人として尊重した表現だよ!」


「なるほど」


「また信じてない顔してる!」



 アティが笑う。


 朝の空気が、少しずつ明るくなっていく。


 けれど、アティは途中でふと気づいた。


 アッシュの上着が、もう椅子にかけられていること。

 鞄が玄関の近くに置かれていること。

 時計を見る仕草が、ほんの少しだけいつもより多いこと。



「お父さん」


「うん?」


「今日、忙しいの?」



 アッシュの手が一瞬だけ止まる。


 それから、いつもと同じように穏やかに笑った。



「うん。今日は少し、帰るのが遅くなると思う」



 アティの表情が、ほんの少し曇った。



「……そっか」



 寂しい。


 でも、仕事だから仕方ない。


 そう自分で飲み込もうとしている顔だった。


 アッシュはその表情を見て、胸の奥が少しだけ痛む。

 けれど、迷いは顔に出さなかった。



「ごめんね」


「ううん。大丈夫」



 アティは小さく首を振る。



「お仕事、大事だもんね」



 その言葉に、アッシュは少しだけ目を細めた。


 そして席を立ち、アティの隣へ行く。


 そっと膝を折り、目線を合わせるようにして、淡い金色の髪に手を置いた。



「仕事も大事だよ」


「うん」


「でも、僕の一番はアティだよ」



 アティの瞳が、ぱちりと瞬いた。

 瑠璃色と翡翠色の瞳が、少しだけ揺れる。



「……ほんと?」


「本当」



 アッシュは柔らかく笑った。



「だから、何かあったらすぐ連絡して。帰れる時はすぐ帰る。もし僕がすぐ動けない時でも、必ず誰かに繋げる」


「誰か?」


「アリスもいる。グレンもいる」



 アティは少しだけ目を丸くした。



「グレンさんも?」


「うん。口は悪いけど、あの人は頼りになるからね」


「……うん」



 アティは小さく頷いた。


 アッシュはもう一度、アティの頭を撫でる。



「ひとりで我慢しなくていい」



 その言葉に、アティは少しだけ唇を結んだ。

 それから、嬉しそうに、けれど少し照れたように笑う。



「……うん」



 さっきまでの寂しさが、完全になくなったわけではない。

 けれど、自分が後回しにされたわけではないと分かっただけで、胸の奥が少し温かくなる。



「今日はアリスがいてくれるからね。学院が終わったら、まっすぐ帰っておいで」


「分かった」



 アッシュはアリスを見る。



「アリス」


「うん」


「今日はアティをお願いしてもいいかな」



 アリスはすぐに背筋を伸ばした。



「ふっふーん! もちろん。任せて!」



 いつもの明るい声だった。

 けれど、その返事には軽さだけではない確かさがあった。


 アッシュは少し安心したように頷く。



「助かるよ」


「その代わり、アッシュもちゃんと帰ってくること」


「うん」


「遅くなるなら連絡」


「分かった」


「無茶しない」


「……なるべく」


「そこはちゃんと“はい”でしょ」



 アリスがじっと見る。


 アッシュは小さく笑った。



「はい」


「うみ! よろしい!」



 アティが少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、アッシュの表情も自然と柔らかくなる。


 朝食を終えると、アッシュは玄関で靴を履いた。


 仕事用の上着を羽織り、鞄を持つ。

 扉の向こうからは、朝の澄んだ空気が入り込んでくる。


 アティとアリスが、並んで見送りに立っていた。



「いってらっしゃい、お父さん」


「いってらっしゃい、アッシュ!」


「行ってきます」



 アッシュはアティの前にかがみ、もう一度だけ頭を撫でる。



「今日は、アリスの言うことをちゃんと聞くんだよ」


「うん」


「アリスも、アティの言うことをちゃんと聞いてね」


「えっ、私も?」


「うん」


「なんで私が保護者みたいに言われつつ、同時に見られる側なの?!」


「アリスだからかな」


「理由になってるようでなってない!」



 アティがくすくす笑う。


 その笑い声に、玄関の空気が少しだけ軽くなった。


 アッシュはそれを確かめるように見てから、扉に手をかける。


 けれど、外へ出る直前で、ふと足を止めた。



「あぁ、そうそう」



 にこりと笑って、アリスを見る。



「アリス」


「ん?」


「ご飯はデリバリーでいいからね」


「え」


「君が作ると、色々と怖いから」



 一瞬、玄関が静かになった。


 アリスが目を見開く。



「ちょ、え、まっ! アッシュ?!」



 アティは思わず吹き出した。



「お父さん、それ言っちゃうんだ」


「大事なことだからね」


「私だって成長してるかもしれないじゃん!」


「昨日、包丁を逆に持ちかけていたよ」


「見てたの!?」


「見ていたよ。だから台所から出したんだよ」



 アリスは頬を膨らませる。



「もう! 帰ってきたら見てなさいよ! ちゃんと安全なご飯を――」


「アティ、デリバリー頼みなよ」


「はーい」


「ちょっと、即答じゃないの!」



 アッシュはくすりと笑う。


 その笑顔は、いつもと変わらない。

 アティに心配を残さないための、優しい父親の顔だった。



「行ってきます」


「いってらっしゃい!」


「いってらっしゃい、お父さん!」



 アッシュは朝の光の中へ出ていく。


 扉が閉まる直前、アティはもう一度だけ小さく手を振った。

 アッシュもそれに応えて、穏やかに手を振り返す。


 扉が閉まる。


 少しだけ静かになった玄関で、アリスはむぅっと頬を膨らませた。



「アティ」


「なに?」


「今日の夜ご飯、どうする?」



 アティは少し考えた。



「デリバリーです!」


「アティまでぇ~……」



 クロが足元で短く鳴いた。


 まるで同意するように。


 アリスは肩を落とし、アティは楽しそうに笑った。


 ◇ ◇ ◇


 始業前の署内には、まだ朝の冷たい空気が少し残っていた。


 窓際のブラインドから差し込む光が、机の上に細い線を落としている。

 湯気の立つ紙コップを片手にした職員が、眠気を追い払うように資料へ目を通していた。


 そんな中、入口からアッシュが入ってくる。


 長い金色の髪はきちんと一つに結ばれ、仕事用の上着にも乱れはない。

 いつも通り穏やかな顔をしている。


 けれど、近くの席にいたルーカスは、すぐに何かに気づいた。



「おはようございます、アウロラフラムさん」


「おはよう、ルーカス」


「……今日、早いですね」


「そうかな」


「早いです。あと、目がもう仕事してます」



 ルーカスはアッシュの鞄へ視線を落とした。

 昨日帰った時よりも膨らみがある気がする。



「それ、資料入ってますよね?」


「少しだけね」


「少しだけ、で済む量じゃない気がしますけど」



 アッシュは困ったように笑った。



「あぁ、そうだ。今日から数日は、多少帰りが遅くなっても大丈夫だから。先に課長へ報告しておこうと思って」



 その瞬間、ルーカスの表情が変わった。



「……え」


「ん? 何かな」


「それ、もしかして……」



 ルーカスは椅子から立ち上がる。


 そして、妙に真剣な顔で周囲へ振り返った。



「来ました」



 近くの職員が顔を上げる。



「何が?」


「アリス期間です!!」



 その言葉は、妙な速さで署内の一角へ広がった。


 空気が、一瞬止まる。



 そして次の瞬間、署内のあちこちから椅子の軋む音がした。



「アリス期間?!」


「本当に?」


「アウロラフラムさん、残れるのか?」


「数日限定?」


「課長! アリス期間です!」


「誰か予定表持ってこい!」


「待て待て、全部押し込むな! 娘さん案件が入ったら即終了だぞ!」


「そこは分かってる!」


「でもこのタイミングはでかい!」


「神か?」


「いや、アリスさんだ」


「ありがたい……!」



 誰かが本気で拝むように両手を合わせた。


 別の職員はホワイトボードの前に立ち、今日の予定を見直し始めている。

 受話器を手にしていた職員まで、通話を切った瞬間に『アリス期間ってマジ?』と小声で隣へ確認していた。


 アッシュは片手で額を押さえる。



「みんな、朝から元気だね」


「そりゃ元気になりますよ!」



 ルーカスが即答した。



「普段のアウロラフラムさん、仕事は早いけど時間制限がきっちりしてるじゃないですか」


「それはそうだねぇ」


「でもアリスさんが帰ってきてる間だけ、少し動ける。所内からしたら、かなり貴重です」



 別の職員が頷く。



「ただし、アティちゃん関連が入った瞬間に終了」


「そこは絶対」


「止めるやつがいたら逆に怒られる」


「というか全員で帰らせる」


「あと、アリスさんが変な土産持ち込んでたら、それはそれで後が怖いぞ……」


「それな」


「前に何かすごい匂いの茶葉なかった?」


「あった。給湯室が一日中、異国だった」


「誰だ飲んだの」


「ルーカス」


「俺です」


「生きててよかったな」



 アッシュはゆっくりルーカスを見る。



「君、アリスのお土産を無理に食べたり飲んだりしなくていいんだよ」


「いや、あのアリスさんが笑顔でくれると断りづらくて……」


「分かる」


「分かるな」


「分かるけど、命は大事にしろ」



 署内の数人が真顔で頷いた。



「だから、今回も何か持ってきたなら、一度アウロラフラムさんに確認だな」


「それがいい」


「アティちゃん用のチェックと一緒に署内用も頼むか」


「僕は食品検査係じゃないんだけど」



 アッシュが困ったように言うと、クレアがさらりと答えた。



「でも一番安全確認ができそうなので」


「クレアまで」



 クレアは書類を抱えたまま、少し笑っていた。



「アリスさん、本当に帰ってきたんですね」


「昨日ね」


「じゃあ、今日はアティちゃんを任せられるんですか」


「うん。アリスがいてくれるなら、アティも一人にならないから」



 アッシュの声音は穏やかだった。


 仕事を優先するためにアティを後回しにするのではない。

 アティのそばに信頼できる人がいるから、少しだけ仕事へ踏み込める。


 その違いを、クレアも分かっているのだろう。



「それなら、こっちも少し動きやすくなりますね」


「とはいえ、できる範囲でね」



 アッシュはそう答え、課長席へ向かった。


 課長はすでに騒ぎを聞いていたらしく、アッシュを見るなり深く頷いた。



「来たか」


「おはようございます」


「アリス期間だな」


「課長まで、その呼び方なんですね。本人に伝えたら笑ってましたよ」


「実務上、重要な情報だからな」


「公式にはしないでください」


「善処する」



 その言い方は、たぶん善処しない時のものだった。


 アッシュは小さく息を吐き、資料を差し出した。



「今日から数日、多少帰りが遅くなっても対応できます。ですので例の件も、もう少し詰めたいです」



 課長の表情が、すぐに仕事のものへ変わった。



「未成年の行方不明相談か」



「はい。まだ事件とは断定できません。ただ、場所と動線に気になる重なりがあります」



 アッシュは資料の一部を示す。

 一部だというのに、内容は細かく記されていた。



「表向きは、通常の注意喚起と巡回強化でいいと思います。騒ぎにしすぎると、逆に相手がいる場合は動かれる可能性があります」


「相手がいる場合、か」


「まだ仮定です」


「裏では?」



 課長が短く聞く。


 アッシュは少しだけ微笑んだ。



「表に出ていない話を拾います」


「どうやって」


「信頼できる協力者に確認を頼んでいます」



 課長は、露骨に嫌そうな顔をした。



「またその“協力者”か」


「はい」


「そろそろ名前を聞かせてもらえないか」


「必要があれば」


「今は?」


「ありません」


「立場は」


「言えません」


「警察関係者か」


「言えません」


「民間か」


「言えません」


「探偵か」


「言えません」



 即答だった。


 課長の眉間に、深い皺が寄る。



「お前な」



 アッシュはにこりと笑った。


 柔らかく、穏やかで、人当たりのいい笑み。


 けれど、その場にいた何人かは、その笑顔を見て察した。


 あ、これは絶対に言わない顔だ。



「課長」


「なんだ」


「世の中には、知らない方が幸せなこともありますから」



 静かな一言だった。


 有無を言わせない響きがあった。


 課長は数秒、アッシュを見つめる。



「……お前、それってろくな協力者じゃないだろ」


「頼りになりますよ」


「否定しろ」


「頼りになります」


「否定しろと言ってる」


「とても頼りになります」


「そこを強調するな」



 ルーカスが後ろで小さく呟く。



「怖……」



 クレアの手も、ほんの少し止まっていた。


 昨日、アッシュは言っていた。


 昔からの知り合いで、色々と物知りで、頼りになる人がいる。

 探偵のような仕事をしている、と。


 けれど、今のやり取りで確信に近いものが生まれる。


 探偵かもしれない。

 でも、ただの探偵ではない。


 少なくとも、アッシュが課長にすら名前を出さない相手だ。


 クレアはちらりとアッシュを見る。


 アッシュはまだ、穏やかに微笑んでいる。

 その笑みは優しいのに、壁のように固かった。


 課長は深いため息をつき、椅子の背にもたれる。



「分かった。協力者の件は一旦置く」


「ありがとうございます」


「ただし、署で使う情報は出所を整理しろ。違法な形では使えん」


「分かっています。表に出せるものだけ共有します」


「それが怖いと言ってるんだ」


「大丈夫です」


「お前の“大丈夫”は、たまに怖い」


「滅相もない」



 課長は眉間を揉み、それでも資料へ視線を戻した。



「駅裏、商業区、港方面。巡回は厚くする。学校と保護者向けの注意喚起は慎重に出せ。騒ぎにしすぎるな」


「はい」


「アウロラフラム、お前は整理役に入れ。動けるうちに詰められるところまで詰めろ」


「分かりました」


「ただし、アティちゃんに何かあれば帰れ。いいな?」



 アッシュは少しだけ目を細めた。



「ありがとうございます」


「そこを止めるほど、うちは馬鹿じゃない。むしろそれで暴走されても困る」



 その言葉に、周囲の職員たちも自然に頷いた。


 アッシュが席へ戻ると、すぐにルーカスが資料の束を抱えて近づいてきた。



「駅裏の相談記録、先にまとめます。商業区はその次でいいですか?」


「うん。時間帯順と場所順、両方で見たい」


「了解です」



 クレアも別のファイルを手に来る。



「学校側への注意喚起文案、私が叩き台を作ります。強すぎる表現は避けますね」


「助かるよ。保護者を不安にさせすぎず、でも子どもに伝わる内容がいい」


「分かりました」



 クレアは一度頷いた後、少しだけ声を落とした。



「……あの、昨日言っていた、頼りになる知り合い」



 アッシュは書類を揃える手を止める。



「うん?」


「その人が、協力者ですか?」



 ルーカスがぎょっとする。



「く、クレアさん、直球……!」



 アッシュは怒らなかった。


 ただ、困ったように微笑む。



「クレア」


「はい」


「いい勘だね」


「それは答えですか?」


「褒め言葉だよ」


「答えてません」


「答えてないね」



 クレアはじっとアッシュを見る。


 柔らかい。

 穏やか。

 けれど、絶対に通さない壁がある。


 数秒後、クレアは小さく息を吐いた。



「分かりました。聞かなかったことにします」


「あははっ、助かるよ」


「ただ、危ない人ではあるんですね」



 アッシュは少しだけ沈黙した。


 それから、さらりと言う。



「頼りになる人だよ」


「言い換えましたね」


「そうかな」


「そうです」



 ルーカスがもう一度、小声で呟く。



「怖……」



 アッシュは聞こえていないふりをした。


 署内では、先ほどまでの浮ついた空気が、少しずつ仕事の熱へ変わっていく。


 アリス期間。


 冗談のような言葉で始まった朝だったが、実際には誰も遊んでいるわけではない。


 アッシュが動ける時間がある。

 なら、その時間でできることを増やす。


 ただ、それだけだった。


 アッシュは席につき、資料の端に小さく印をつける。



「ルーカス」


「はい」


「相談記録をまとめたら、港方面のバス停付近も確認して」


「分かりました」


「クレア」


「はい」


「文案ができたら、一度見せて」


「もちろんです」



 アッシュは静かに息を吐き、顔を上げた。


 表情は穏やかなままだった。


 けれど、瑠璃色の瞳だけが、朝の光を受けて静かに鋭く光る。


 その色を見た瞬間、周囲の空気がきゅっと締まった。


 父親としての柔らかさは、まだ消えていない。

 けれど今、そこに重なったのは、警察官としての目だった。



「さて」



 アッシュは資料へ視線を落とし、静かに言う。



「じゃあ、始めようか」



 その一言で、署内が一斉に動き出した。

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