消えた白い鳥:帰宅
◇
玄関の扉が開いたのは、空がすっかり夕暮れに染まった頃だった。
「ただいま」
少し疲れの混じった、けれど柔らかな声が家の中に落ちる。
アッシュが帰ってきた。
長い金色の髪をひとつに結び、仕事用の上着を片腕にかけている。
瑠璃色の瞳には少しだけ眠気が滲んでいたが、リビングから聞こえてくる声に気づいた瞬間、その目元がふっと緩んだ。
「お父さん!」
ぱたぱたと足音がして、アティが玄関へ駆けてくる。
アッシュは靴を脱ぎかけたまま、自然に両腕を広げた。
「おかえりなさい!」
「ただいま、アティ」
飛び込んできたアティを受け止める。
小さな身体を抱きしめると、学院の匂いと、外の風の匂いがした。
それから、家の中に漂う夕食の匂い。
朝、元気に飛び出していった娘が、ちゃんとここに帰ってきている。
それだけで、アッシュの胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。
「今日はどうだった?」
「すっごく楽しかった! アリスお姉ちゃんが先生してくれたの!」
「うん。ユエ先生から聞いていたよ」
「旅の授業だったんだよ。知らない人についていかないとか、変だなって思ったら離れていいとか」
「いい授業だね」
「あと、食べ物は勝手に食べないこと!」
その言葉に、アッシュはほんの少しだけ間を置いて、少しクスリと笑う。
「……アリスが?」
「うん!」
「それは、説得力があるような、ないような」
リビングの方から、明るい声が飛んでくる。
「しっつれいねぇ! あるよ! すごくあるよ!」
アッシュが顔を上げると、アリスがキッチンからひょこっと顔を出した。
「おかえり、アッシュ!」
「ただいま、アリス。講義、お疲れさま」
「えへへ、ちゃんと先生してきたよ!」
「それはよかった」
アッシュは玄関脇に置かれた土産袋の山へ視線を向ける。
「……土産も、ちゃんと増えているね」
「増えてないよ! 持って帰ってきただけ!」
「なるほど」
「その納得の仕方、信じてないでしょ!」
「信じてるよ。アリスが持って帰ってきたものだってことは」
「中身は!?」
「確認してから信じるよ」
「慎重!」
アティがくすくす笑う。
クロも玄関先までやってきて、アッシュの足元に身体を擦り寄せた。
「ただいま、クロ」
アッシュはしゃがんで、クロの頭を撫でる。
クロは満足そうに喉を鳴らし、次に土産袋へ鼻を近づけようとした。
アッシュは静かにそれを止める。
「ダーメ。クロも、確認してから」
「猫にまで?!」
「念のためだよ」
「念のための範囲が広い!」
アリスは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
アッシュは上着をハンガーにかけ、リビングへ入る。
棚の上には、いつものようにレイチェルの写真があった。
海を背景に笑う、銀色の髪の女性。
アッシュはその前で足を止め、そっと手を合わせる。
「ただいま、レイチェル」
声は低く、柔らかかった。
「今日は少し遅くなったけど、アティはちゃんと元気に帰ってたよ。アリスも帰ってきたから、しばらく賑やかになりそうだ」
写真の中のレイチェルは、変わらず優しく笑っている。
アティはその横で、嬉しそうにアッシュを見上げた。
「お母さんにも、アリスお姉ちゃんが先生してくれたって報告したよ」
「そっか」
アッシュは目元を和らげる。
「きっと、聞いてくれているね」
「うん」
アリスは少しだけ照れたように笑う。
「今回も、ちょっとお邪魔してます」
「うん。ゆっくりしていって」
「その言い方、ほんとに泊まる前提だねぇ」
「違うのかい?」
「うぅん! 違わない!」
アリスは元気よく答えた。
アッシュは困ったように笑う。
その何気ないやり取りに、家の空気が少しだけ明るくなる。
アッシュはその明るさを感じながら、ふと昼過ぎに確認したmineの文面を思い出した。
グレンからの短い返信。
まだ確定した話はない。
こちらでも拾う。
子どもが絡むなら、ただの家出で済ませるな。
無茶はするな。
(んん~、君に言われたくないなぁ)
その時はそう思って、小さく笑った。
けれど、今は少しだけ違う。
笑っているアティ。
旅帰りのアリス。
棚の上で笑うレイチェルの写真。
ここにあるものが穏やかだからこそ、外で起きているかもしれない違和感が、胸の奥に残る。
杞憂であればいいと思うほど。
「お父さん?」
アティが首を傾げる。
アッシュはすぐに笑った。
「何でもないよ」
「疲れてる?」
「少しだけ。でも、アティの顔を見たら元気になった」
「ほんと?」
「本当」
アティは嬉しそうに笑った。
アリスがキッチンから顔を出す。
「じゃあ、ご飯食べたらもっと元気になるね!」
「安全なものならね。君は台所に立たれると怖いから出てね」
「ちょっとどういう意味?!」
アティが笑い、クロが足元で短く鳴く。
リビングには、いつもより少し賑やかな夕方が戻っていた。
アッシュはその音を聞きながら、もう一度だけ胸の奥に残った違和感を押し込める。
今はまだ、形になっていない。
けれど、見落とすつもりもなかった。
「手を洗ってくるよ」
「はーい!」
アティの明るい返事を聞きながら、アッシュは洗面所へ向かう。
その背中を、レイチェルの写真が静かに見守っていた。
夕食を終える頃には、窓の外はすっかり夜になっていた。
リビングの灯りは柔らかく、食卓にはまだ温かい食事の匂いが残っている。
アリスが帰ってきた日の家は、いつもより少し音が多い。
旅先の話。
学院での講義の話。
アティが食堂で見た、アリスの皿の数。
ユエが虫料理の話を止めに来た時のこと。
どれも他愛ない話なのに、アティはずっと楽しそうだった。
けれど、一日中学院で過ごし、放課後もアリスと話し続けていたせいだろう。
食後にソファへ座った頃には、少しずつ瞬きがゆっくりになっていた。
「アティ、眠い?」
アッシュが声をかける。
アティは膝に乗せたクッションを抱きしめたまま、首を横に振った。
「……眠くない」
「そうかい」
「まだ、アリスお姉ちゃんの話……聞く……」
言葉の最後が、ふわりと溶ける。
アリスはソファの背に肘をつきながら、くすっと笑った。
「私はしばらくいるから、明日も話せるわよ」
「……ほんと?」
「ほんとほんと。だから今日は寝よ?」
「ん……」
アティは頷いた。
けれど立ち上がる前に、こくりと頭が揺れる。
アッシュは小さく笑って、アティの前に膝をついた。
「部屋まで行ける?」
「……いけるもん」
「うん。無理そうだね」
アッシュはアティをそっと抱き上げた。
アティは半分眠ったまま、アッシュの胸元に頬を寄せる。
腕が弱く首元に回り、安心したように息を吐いた。
「お父さん……」
「うん?」
「今日ねぇ……アリスお姉ちゃん、先生だった……」
「聞いたよ。すごかったんだろう?」
「うん……すごかった……」
「そっか」
アッシュの声が少しだけ柔らかくなる。
アリスはその様子を見て、何も言わずに微笑んだ。
アッシュはアティを抱えたまま階段を上がる。
アティの部屋に入ると、机の上には今日のノートがきちんと置かれていた。
端には、アリスの講義で書いたのだろう、少し大きめの文字が見える。
【変だと思ったら、はなれる。】
【困ったら、先生やお店の人に言う。】
【ちゃんと帰ってくる。】
アッシュはそれを一度だけ見て、静かに目を細めた。
ベッドへ寝かせると、アティは小さく身じろぎする。
「……明日も、いる?」
「アリスかい?」
「うん……」
「いるよ」
「……よかった」
それだけ言うと、アティはすぐに眠りへ落ちていった。
アッシュは布団をかけ、額にかかった淡い金色の髪をそっと払う。
「おやすみ、アティ」
返事はない。
代わりに、穏やかな寝息が聞こえる。
その時、開けたままだった扉の隙間から、黒猫のクロが音もなく入ってきた。
「クロ」
アッシュが小さく呼ぶと、クロは当然のようにベッドへ飛び乗った。
そして、アティの足元で丸くなる。
「今日はそこで寝るのかい?」
クロはゆっくり瞬きをしただけだった。
アッシュは笑って、クロの背を一度撫でる。
「アティをよろしくね」
クロは小さく喉を鳴らし、そのまま目を閉じた。
アッシュは部屋の灯りを落とし、静かに扉を閉める。
階段を下りると、リビングにはテレビの低い音だけが流れていた。
アリスはソファに座り、マグカップを両手で包んでいる。
「寝た?」
「うん。クロも一緒に」
「そっか。ふふ、可愛いなぁ」
アリスの声も、少し小さくなっていた。
家の中で子どもが眠った後の時間には、独特の静けさがある。
さっきまで明るかったリビングも、今は少しだけ呼吸を潜めているようだった。
アッシュはテーブルの端に置いていた鞄から、薄いファイルを取り出した。
アリスはその動きに気づき、少し首を傾げる。
「仕事?」
「少しだけね」
「家で?」
「普段は、できるだけ持ち込まないようにしてるんだけど」
アッシュはファイルを開き、数枚の資料をテーブルに置いた。
「今日は、少し気になることがあって」
アリスはマグカップを置いた。
アッシュはそれを横目に、苦笑する。
「そんな顔をしなくても大丈夫だよ。まだ、何かが起きたと決まったわけじゃない」
「でも、アッシュが家で資料見るくらいには気になるんでしょ?」
「うん」
アッシュは否定しなかった。
普段の彼なら、仕事は署で終わらせる。
どれだけ忙しくても、アティが帰る時間にはできるだけ家へ戻る。
どうしても無理な日は連絡を入れ、食事や寝る時間の確認をする。
それは、レイチェルが亡くなってから、彼が自分に課してきた約束でもあった。
けれど、アリスが帰ってきている間だけは、少し違う。
アティの夕食を一緒に見てくれる人がいる。
帰宅した時に『おかえり』と言ってくれる人がいる。
夜、アティが怖い夢を見た時に、隣の部屋からすぐ気づいてくれる人がいる。
だからアッシュは、その期間だけ、ほんの少し仕事へ踏み込める。
「アリスが帰ってきている間はね」
アッシュは資料を整えながら言った。
「署の人たちも少し空気が変わるんだ」
「空気?」
「うん」
アッシュは困ったように笑う。
「“アリス期間が来たぞ”って」
「何それ」
「僕が少し残業できたり、難しい案件をまとめて片づけたりする期間、らしいよ」
アリスは一瞬ぽかんとした。
それから、吹き出す。
「え、なによ。私、季節の行事みたいになってるの?」
「署では、かなり貴重な時期らしい」
「えぇー」
「でも、みんな分かってるよ。アティに何かあったら、僕は即帰るって」
「そこは揺るがないんだね」
「揺るがないね」
アッシュは静かに答えた。
その声に、冗談はなかった。
アリスは少しだけ表情を柔らかくする。
「じゃあ、今回も私はアリス期間担当として頑張りますか」
「助かるよ」
「任せて。アティのことはちゃんと見るから」
「うん」
アッシュは短く頷いた。
その返事は、信頼そのものだった。
その時、テレビの音声が切り替わる。
『続いてのニュースです。市内ではここ数週間、未成年者の行方不明相談が相次いでおり、警察は家出や迷子の可能性も含めて確認を進めています』
アリスの視線が、自然と画面へ向いた。
映っているのは駅前の雑踏だった。
夕方の通り。
人の流れ。
どこにでもあるような街の景色。
その普通さが、かえって少しだけ気味悪く見えた。
『現時点で事件性は確認されていませんが、保護者に対しては、子どもだけでの夜間外出を避けるよう注意を呼びかけています』
アリスはしばらく画面を見つめていた。
それから、ゆっくりアッシュを見る。
「……それ?」
アッシュは答えを急がなかった。
資料の一枚を指先で押さえ、テレビの音量を少し下げる。
「関係あるかもしれない」
「かもしれない?」
「まだ線になっていない。点がいくつかあるだけだよ」
アリスはテーブルの資料を見た。
名前や細かい情報は伏せられている。
けれど、日付と場所だけでも、何となく嫌な感じは伝わった。
「子どもが多いの?」
「うん」
「目撃が少ない?」
「そう」
「……今日、私が授業で話したことみたいだね」
「だから余計に気になる」
アッシュの声は低かった。
怒っているわけではない。
焦っているわけでもない。
けれど、アリスには分かる。
これは、アッシュが静かに警戒している時の声だった。
「グレンにも聞いたの?」
「聞いた」
「なんて?」
「まだ確定した話はない。けれど、向こうでも拾うって」
「そっか」
アリスは少し黙った。
テレビはもう別のニュースへ切り替わっている。
けれど、さっきの映像だけが、リビングの空気に残っている気がした。
「確か、アティたちの修学旅行、近いんだよね」
「うん」
「……心配?」
「心配だよ」
アッシュはあっさり認めた。
「でも、心配だから全部止めるわけにはいかない。アティには、ちゃんと世界を見てほしい。友達と楽しい思い出も作ってほしい」
「うん」
「だから、危ないものがあるなら、先に見つけたい」
アリスはマグカップを両手で包み直した。
その指先に、少しだけ力が入る。
「私にできることある?」
「アリスは帰ってきたばかりじゃないか」
「それはそれ」
「旅で疲れているんだから、君は休んだ方がいいよ」
「それもそれ」
アリスは、まっすぐアッシュを見た。
「だって、アティのことだけじゃないんでしょ?」
アッシュは黙った。
けれど、その沈黙が答えだった。
アリスはふっと表情を柔らかくする。
「今日、授業で言ったんだ。楽しい旅にするためには、ちゃんと帰ってくることが一番大事だって」
「いい言葉だね」
「だから、帰ってこられない子がいるかもしれないなら、放っておけないよ」
アッシュは小さく息を吐いた。
「けど、アリス」
「無茶はしないもん」
「本当に?」
「……なるべく」
「アリス」
「ここにいる間は、ちゃんと相談するし」
「うん。それなら助かるよ」
アリスは少しだけ笑う。
「でも、アッシュもだよ」
「僕も?」
「そう。アンタ、妙なところで意地っ張りだし、ひとりで抱え込まない。変だなって思ったら、ちゃんと言う。誰かに頼る」
アッシュは少しだけ目を瞬かせる。
それから、困ったように笑った。
「今日の講義みたいだね」
「旅の注意点は、大人にも効くんだよ」
「それは困ったな」
「困って」
アリスは少しだけ得意げに言った。
アッシュは資料へ視線を戻す。
まだ、何も断定できない。
けれど、見落とせない違和感がある。
リビングの奥では、レイチェルの写真が静かに二人を見守っている。
二階では、アティがクロと一緒に眠っている。
この家の静けさと、外にあるかもしれない不穏さ。
その差が、ひどく鮮明だった。
「明日、もう踏み込んで少し調べるよ」
「うん」
「僕がいない間、アリスは、アティたちのそばにいてくれる?」
「ふふ、もちろん」
返事は早かった。
迷いもなかった。
「任せて。旅人先生だからね」
アッシュは少しだけ笑う。
「頼もしいね」
「でしょ?」
アリスは胸を張った。
けれど、その瞳はいつものように笑っていながら、奥に少しだけ真剣な光を宿していた。
夜のリビングに、テレビの音が小さく流れている。
穏やかな家の中で、まだ名前のつかない不安だけが、静かに輪郭を持ち始めていた。




