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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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7/27

消えた白い鳥:帰宅

 ◇


 玄関の扉が開いたのは、空がすっかり夕暮れに染まった頃だった。



「ただいま」



 少し疲れの混じった、けれど柔らかな声が家の中に落ちる。


 アッシュが帰ってきた。


 長い金色の髪をひとつに結び、仕事用の上着を片腕にかけている。

 瑠璃色の瞳には少しだけ眠気が滲んでいたが、リビングから聞こえてくる声に気づいた瞬間、その目元がふっと緩んだ。



「お父さん!」



 ぱたぱたと足音がして、アティが玄関へ駆けてくる。


 アッシュは靴を脱ぎかけたまま、自然に両腕を広げた。



「おかえりなさい!」


「ただいま、アティ」



 飛び込んできたアティを受け止める。


 小さな身体を抱きしめると、学院の匂いと、外の風の匂いがした。

 それから、家の中に漂う夕食の匂い。


 朝、元気に飛び出していった娘が、ちゃんとここに帰ってきている。


 それだけで、アッシュの胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。



「今日はどうだった?」


「すっごく楽しかった! アリスお姉ちゃんが先生してくれたの!」


「うん。ユエ先生から聞いていたよ」


「旅の授業だったんだよ。知らない人についていかないとか、変だなって思ったら離れていいとか」


「いい授業だね」


「あと、食べ物は勝手に食べないこと!」



 その言葉に、アッシュはほんの少しだけ間を置いて、少しクスリと笑う。



「……アリスが?」


「うん!」


「それは、説得力があるような、ないような」



 リビングの方から、明るい声が飛んでくる。



「しっつれいねぇ! あるよ! すごくあるよ!」



 アッシュが顔を上げると、アリスがキッチンからひょこっと顔を出した。



「おかえり、アッシュ!」


「ただいま、アリス。講義、お疲れさま」


「えへへ、ちゃんと先生してきたよ!」


「それはよかった」



 アッシュは玄関脇に置かれた土産袋の山へ視線を向ける。



「……土産も、ちゃんと増えているね」


「増えてないよ! 持って帰ってきただけ!」


「なるほど」


「その納得の仕方、信じてないでしょ!」


「信じてるよ。アリスが持って帰ってきたものだってことは」


「中身は!?」


「確認してから信じるよ」


「慎重!」



 アティがくすくす笑う。


 クロも玄関先までやってきて、アッシュの足元に身体を擦り寄せた。



「ただいま、クロ」



 アッシュはしゃがんで、クロの頭を撫でる。

 クロは満足そうに喉を鳴らし、次に土産袋へ鼻を近づけようとした。


 アッシュは静かにそれを止める。



「ダーメ。クロも、確認してから」


「猫にまで?!」


「念のためだよ」


「念のための範囲が広い!」



 アリスは頬を膨らませたが、すぐに笑った。


 アッシュは上着をハンガーにかけ、リビングへ入る。


 棚の上には、いつものようにレイチェルの写真があった。

 海を背景に笑う、銀色の髪の女性。


 アッシュはその前で足を止め、そっと手を合わせる。



「ただいま、レイチェル」



 声は低く、柔らかかった。



「今日は少し遅くなったけど、アティはちゃんと元気に帰ってたよ。アリスも帰ってきたから、しばらく賑やかになりそうだ」



 写真の中のレイチェルは、変わらず優しく笑っている。


 アティはその横で、嬉しそうにアッシュを見上げた。



「お母さんにも、アリスお姉ちゃんが先生してくれたって報告したよ」


「そっか」



 アッシュは目元を和らげる。



「きっと、聞いてくれているね」


「うん」



 アリスは少しだけ照れたように笑う。



「今回も、ちょっとお邪魔してます」


「うん。ゆっくりしていって」


「その言い方、ほんとに泊まる前提だねぇ」


「違うのかい?」


「うぅん! 違わない!」



 アリスは元気よく答えた。


 アッシュは困ったように笑う。


 その何気ないやり取りに、家の空気が少しだけ明るくなる。


 アッシュはその明るさを感じながら、ふと昼過ぎに確認したmineの文面を思い出した。


 グレンからの短い返信。



 まだ確定した話はない。

 こちらでも拾う。

 子どもが絡むなら、ただの家出で済ませるな。

 無茶はするな。



(んん~、君に言われたくないなぁ)



 その時はそう思って、小さく笑った。


 けれど、今は少しだけ違う。


 笑っているアティ。

 旅帰りのアリス。

 棚の上で笑うレイチェルの写真。


 ここにあるものが穏やかだからこそ、外で起きているかもしれない違和感が、胸の奥に残る。


 杞憂であればいいと思うほど。



「お父さん?」



 アティが首を傾げる。


 アッシュはすぐに笑った。



「何でもないよ」


「疲れてる?」


「少しだけ。でも、アティの顔を見たら元気になった」


「ほんと?」


「本当」



 アティは嬉しそうに笑った。


 アリスがキッチンから顔を出す。



「じゃあ、ご飯食べたらもっと元気になるね!」


「安全なものならね。君は台所に立たれると怖いから出てね」


「ちょっとどういう意味?!」



 アティが笑い、クロが足元で短く鳴く。


 リビングには、いつもより少し賑やかな夕方が戻っていた。


 アッシュはその音を聞きながら、もう一度だけ胸の奥に残った違和感を押し込める。


 今はまだ、形になっていない。

 けれど、見落とすつもりもなかった。



「手を洗ってくるよ」


「はーい!」



 アティの明るい返事を聞きながら、アッシュは洗面所へ向かう。


 その背中を、レイチェルの写真が静かに見守っていた。


 夕食を終える頃には、窓の外はすっかり夜になっていた。


 リビングの灯りは柔らかく、食卓にはまだ温かい食事の匂いが残っている。

 アリスが帰ってきた日の家は、いつもより少し音が多い。


 旅先の話。

 学院での講義の話。

 アティが食堂で見た、アリスの皿の数。

 ユエが虫料理の話を止めに来た時のこと。


 どれも他愛ない話なのに、アティはずっと楽しそうだった。


 けれど、一日中学院で過ごし、放課後もアリスと話し続けていたせいだろう。

 食後にソファへ座った頃には、少しずつ瞬きがゆっくりになっていた。



「アティ、眠い?」



 アッシュが声をかける。


 アティは膝に乗せたクッションを抱きしめたまま、首を横に振った。



「……眠くない」


「そうかい」


「まだ、アリスお姉ちゃんの話……聞く……」



 言葉の最後が、ふわりと溶ける。


 アリスはソファの背に肘をつきながら、くすっと笑った。



「私はしばらくいるから、明日も話せるわよ」


「……ほんと?」


「ほんとほんと。だから今日は寝よ?」


「ん……」



 アティは頷いた。


 けれど立ち上がる前に、こくりと頭が揺れる。


 アッシュは小さく笑って、アティの前に膝をついた。



「部屋まで行ける?」


「……いけるもん」


「うん。無理そうだね」



 アッシュはアティをそっと抱き上げた。


 アティは半分眠ったまま、アッシュの胸元に頬を寄せる。

 腕が弱く首元に回り、安心したように息を吐いた。



「お父さん……」


「うん?」


「今日ねぇ……アリスお姉ちゃん、先生だった……」


「聞いたよ。すごかったんだろう?」


「うん……すごかった……」


「そっか」



 アッシュの声が少しだけ柔らかくなる。


 アリスはその様子を見て、何も言わずに微笑んだ。


 アッシュはアティを抱えたまま階段を上がる。


 アティの部屋に入ると、机の上には今日のノートがきちんと置かれていた。

 端には、アリスの講義で書いたのだろう、少し大きめの文字が見える。


 【変だと思ったら、はなれる。】

 【困ったら、先生やお店の人に言う。】

 【ちゃんと帰ってくる。】


 アッシュはそれを一度だけ見て、静かに目を細めた。


 ベッドへ寝かせると、アティは小さく身じろぎする。



「……明日も、いる?」


「アリスかい?」


「うん……」


「いるよ」


「……よかった」



 それだけ言うと、アティはすぐに眠りへ落ちていった。


 アッシュは布団をかけ、額にかかった淡い金色の髪をそっと払う。



「おやすみ、アティ」



 返事はない。


 代わりに、穏やかな寝息が聞こえる。


 その時、開けたままだった扉の隙間から、黒猫のクロが音もなく入ってきた。



「クロ」



 アッシュが小さく呼ぶと、クロは当然のようにベッドへ飛び乗った。

 そして、アティの足元で丸くなる。



「今日はそこで寝るのかい?」



 クロはゆっくり瞬きをしただけだった。


 アッシュは笑って、クロの背を一度撫でる。



「アティをよろしくね」



 クロは小さく喉を鳴らし、そのまま目を閉じた。


 アッシュは部屋の灯りを落とし、静かに扉を閉める。


 階段を下りると、リビングにはテレビの低い音だけが流れていた。

 アリスはソファに座り、マグカップを両手で包んでいる。



「寝た?」


「うん。クロも一緒に」


「そっか。ふふ、可愛いなぁ」



 アリスの声も、少し小さくなっていた。


 家の中で子どもが眠った後の時間には、独特の静けさがある。

 さっきまで明るかったリビングも、今は少しだけ呼吸を潜めているようだった。


 アッシュはテーブルの端に置いていた鞄から、薄いファイルを取り出した。


 アリスはその動きに気づき、少し首を傾げる。



「仕事?」


「少しだけね」


「家で?」


「普段は、できるだけ持ち込まないようにしてるんだけど」



 アッシュはファイルを開き、数枚の資料をテーブルに置いた。



「今日は、少し気になることがあって」



 アリスはマグカップを置いた。


 アッシュはそれを横目に、苦笑する。



「そんな顔をしなくても大丈夫だよ。まだ、何かが起きたと決まったわけじゃない」


「でも、アッシュが家で資料見るくらいには気になるんでしょ?」


「うん」



 アッシュは否定しなかった。


 普段の彼なら、仕事は署で終わらせる。

 どれだけ忙しくても、アティが帰る時間にはできるだけ家へ戻る。

 どうしても無理な日は連絡を入れ、食事や寝る時間の確認をする。


 それは、レイチェルが亡くなってから、彼が自分に課してきた約束でもあった。


 けれど、アリスが帰ってきている間だけは、少し違う。


 アティの夕食を一緒に見てくれる人がいる。

 帰宅した時に『おかえり』と言ってくれる人がいる。

 夜、アティが怖い夢を見た時に、隣の部屋からすぐ気づいてくれる人がいる。


 だからアッシュは、その期間だけ、ほんの少し仕事へ踏み込める。



「アリスが帰ってきている間はね」



 アッシュは資料を整えながら言った。



「署の人たちも少し空気が変わるんだ」


「空気?」


「うん」



 アッシュは困ったように笑う。



「“アリス期間が来たぞ”って」


「何それ」


「僕が少し残業できたり、難しい案件をまとめて片づけたりする期間、らしいよ」



 アリスは一瞬ぽかんとした。


 それから、吹き出す。



「え、なによ。私、季節の行事みたいになってるの?」


「署では、かなり貴重な時期らしい」


「えぇー」


「でも、みんな分かってるよ。アティに何かあったら、僕は即帰るって」


「そこは揺るがないんだね」


「揺るがないね」



 アッシュは静かに答えた。


 その声に、冗談はなかった。


 アリスは少しだけ表情を柔らかくする。



「じゃあ、今回も私はアリス期間担当として頑張りますか」


「助かるよ」


「任せて。アティのことはちゃんと見るから」


「うん」



 アッシュは短く頷いた。


 その返事は、信頼そのものだった。


 その時、テレビの音声が切り替わる。



『続いてのニュースです。市内ではここ数週間、未成年者の行方不明相談が相次いでおり、警察は家出や迷子の可能性も含めて確認を進めています』



 アリスの視線が、自然と画面へ向いた。


 映っているのは駅前の雑踏だった。

 夕方の通り。

 人の流れ。

 どこにでもあるような街の景色。


 その普通さが、かえって少しだけ気味悪く見えた。



『現時点で事件性は確認されていませんが、保護者に対しては、子どもだけでの夜間外出を避けるよう注意を呼びかけています』



 アリスはしばらく画面を見つめていた。


 それから、ゆっくりアッシュを見る。



「……それ?」



 アッシュは答えを急がなかった。


 資料の一枚を指先で押さえ、テレビの音量を少し下げる。



「関係あるかもしれない」


「かもしれない?」


「まだ線になっていない。点がいくつかあるだけだよ」



 アリスはテーブルの資料を見た。


 名前や細かい情報は伏せられている。

 けれど、日付と場所だけでも、何となく嫌な感じは伝わった。



「子どもが多いの?」


「うん」


「目撃が少ない?」


「そう」


「……今日、私が授業で話したことみたいだね」


「だから余計に気になる」



 アッシュの声は低かった。


 怒っているわけではない。

 焦っているわけでもない。


 けれど、アリスには分かる。


 これは、アッシュが静かに警戒している時の声だった。



「グレンにも聞いたの?」


「聞いた」


「なんて?」


「まだ確定した話はない。けれど、向こうでも拾うって」


「そっか」



 アリスは少し黙った。


 テレビはもう別のニュースへ切り替わっている。

 けれど、さっきの映像だけが、リビングの空気に残っている気がした。



「確か、アティたちの修学旅行、近いんだよね」


「うん」


「……心配?」


「心配だよ」



 アッシュはあっさり認めた。



「でも、心配だから全部止めるわけにはいかない。アティには、ちゃんと世界を見てほしい。友達と楽しい思い出も作ってほしい」


「うん」


「だから、危ないものがあるなら、先に見つけたい」



 アリスはマグカップを両手で包み直した。


 その指先に、少しだけ力が入る。



「私にできることある?」


「アリスは帰ってきたばかりじゃないか」


「それはそれ」


「旅で疲れているんだから、君は休んだ方がいいよ」


「それもそれ」



 アリスは、まっすぐアッシュを見た。



「だって、アティのことだけじゃないんでしょ?」



 アッシュは黙った。


 けれど、その沈黙が答えだった。


 アリスはふっと表情を柔らかくする。



「今日、授業で言ったんだ。楽しい旅にするためには、ちゃんと帰ってくることが一番大事だって」


「いい言葉だね」


「だから、帰ってこられない子がいるかもしれないなら、放っておけないよ」



 アッシュは小さく息を吐いた。



「けど、アリス」


「無茶はしないもん」


「本当に?」


「……なるべく」


「アリス」


「ここにいる間は、ちゃんと相談するし」


「うん。それなら助かるよ」



 アリスは少しだけ笑う。



「でも、アッシュもだよ」


「僕も?」


「そう。アンタ、妙なところで意地っ張りだし、ひとりで抱え込まない。変だなって思ったら、ちゃんと言う。誰かに頼る」



 アッシュは少しだけ目を瞬かせる。


 それから、困ったように笑った。



「今日の講義みたいだね」


「旅の注意点は、大人にも効くんだよ」


「それは困ったな」


「困って」



 アリスは少しだけ得意げに言った。


 アッシュは資料へ視線を戻す。


 まだ、何も断定できない。

 けれど、見落とせない違和感がある。


 リビングの奥では、レイチェルの写真が静かに二人を見守っている。

 二階では、アティがクロと一緒に眠っている。


 この家の静けさと、外にあるかもしれない不穏さ。


 その差が、ひどく鮮明だった。



「明日、もう踏み込んで少し調べるよ」


「うん」


「僕がいない間、アリスは、アティたちのそばにいてくれる?」


「ふふ、もちろん」



 返事は早かった。

 迷いもなかった。



「任せて。旅人先生だからね」



 アッシュは少しだけ笑う。



「頼もしいね」


「でしょ?」



 アリスは胸を張った。


 けれど、その瞳はいつものように笑っていながら、奥に少しだけ真剣な光を宿していた。


 夜のリビングに、テレビの音が小さく流れている。


 穏やかな家の中で、まだ名前のつかない不安だけが、静かに輪郭を持ち始めていた。

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