消えた白い鳥:修学旅行のしおり
夜の街を歩きながら、アッシュは小さく息を吐いた。
店の灯りも、人の流れも、車のヘッドライトも、いつもと変わらない。
けれど、捜査は思ったよりも進んでいなかった。
駅裏。
商業区の端。
港方面へ向かう道。
それから、中心街から少し離れた市場周辺。
気になる点はある。
けれど、どれも細い。
声かけの噂。
不審な車両らしき影。
子どもが話した曖昧な記憶。
追えば消える。
見ようとすれば、普通の景色に紛れる。
こちらが巡回を厚くすれば、別の場所で薄い話が出る。
まるで、こちらの動きを読んでいるようだった。
「……嫌な動き方だな」
小さく呟いた声は、夜の空気に溶けた。
焦っているわけではない。
けれど、胸の奥には重いものが残っている。
時間がかかればかかるほど、被害が増える可能性がある。
まだ相談で済んでいるうちに、線を掴まなければいけない。
しかも、グレンからも決定的な連絡はない。
普通の半グレ程度なら、グレンは一日もかけずに尻尾を掴む。
それができていない。
それだけで、相手が普通ではないことが分かる。
アッシュは家の前で足を止めた。
玄関の向こうには、アティがいる。
アリスもいる。
ここに仕事の顔を持ち込みたくはなかった。
深く息を吐き、いつもの柔らかな表情を作る。
それから扉を開けた。
「ただいま」
リビングの方から、ぱたぱたと明るい足音がした。
「お父さん!」
アティが玄関まで駆けてくる。
その後ろから、アリスも顔を出した。
けれど、アティはいつもの言葉ではなく、胸を張って言った。
「ウェルカムホーム!」
アッシュは靴を脱ぎかけたまま、ぴたりと固まった。
「……」
ほんの一瞬。
仕事の疲れも、捜査の苛立ちも、頭の中の情報も、全部止まった。
アティはにこにこしている。
「アリスお姉ちゃんに教えてもらったの! 海外のおかえりなんだって!」
アリスが得意げに笑う。
「ふふん。なんて言ったって旅人先生だからね!」
アッシュは瞬きをして、それからふっと笑った。
「……あははっ。ただいま、アティ」
「発音、合ってた?」
「うん。とても可愛かったよ」
「可愛いじゃなくて、かっこいいがよかった」
「じゃあ、とてもかっこよくて可愛かった」
「両方?」
「うん。両方」
アティは嬉しそうに笑った。
その笑顔だけで、胸の奥に残っていた重さが少しだけほどける。
クロも足元へやってきて、短く鳴いた。
「ただいま、クロ」
アッシュがしゃがんで頭を撫でると、クロは喉を鳴らした。
アティはじっとアッシュの顔を見る。
「お父さん、疲れてる?」
アッシュは一瞬だけ目を細めた。
「少しだけね」
「お仕事、大変だった?」
「うん。でも、大丈夫だよ」
アッシュはアティの前に膝をつき、目線を合わせる。
「君の顔を見たら、だいぶ元気になった。さっきの『ウェルカムホーム』で、かなりね」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、明日も言う!」
「それは楽しみだ」
アリスが横から身を乗り出した。
「他の国のおかえりも教えようか?」
「うん!」
「アリス」
アッシュが穏やかに呼ぶ。
「でも、発音が難しすぎないものにしてあげてね」
「分かってるよ!」
「あと、意味が危ない言葉じゃないもの」
「そんなの教えないよ?!」
「念のためだよ」
「また念のため! 信頼がうっすい!」
「信頼してるから言ってるんだよ」
「ん? どういう意味の信用?」
「あははっ、さぁ?」
大人二人のやりとりにアティがくすくす笑った。
玄関の空気が温かくなる。
アッシュは上着をハンガーにかけ、リビングへ入った。
テーブルの上には、一冊の冊子が置かれている。
淡い色の表紙。
学院の紋章。
丸い文字で書かれた題名。
【修学旅行のしおり】
アティがそれを両手で持ち上げた。
「お父さん、見て!」
瞳がきらきらしている。
「明後日、修学旅行なんだよ!」
「そうだね。もう明後日か」
「今日、最終確認もしたの。班も決まったよ。シオンと一緒!」
「それは心強いね」
「でしょ!」
アティは嬉しそうにしおりを開いた。
一日目。
博物館見学。
宿泊施設でのレクリエーション。
二日目。
少し離れた町にある、リュミエール大市場の見学。
班行動と集合時間。
基本はリュミエール大市場の見学がメインでしかも当日はイベントもある。
アッシュの視線が、そこでほんの一瞬だけ止まる。
リュミエール大市場。
観光客も多く、修学旅行や校外学習の見学先としてもよく使われている場所だ。
人目もある。
店も多い。
引率の教師がいれば、危険な場所とは言いにくい。
けれど、この数日の捜査で、その周辺からも行方不明相談がいくつか出ていた。
港町側ほど明確ではない。
目撃も曖昧で、場所もばらけている。
家出や迷子として処理されても不自然ではない程度のもの。
止めるには弱い。
けれど、見過ごすには少しだけ気になる。
アッシュは、わずかに息を整えた。
アティは楽しみにしている。
この旅行のために、何日も前から準備していた。
それを、不安だけで奪いたくはなかった。
「じゃあ当日は班行動では、先生の指示をちゃんと聞かないとダメだね」
「分かってるよ」
「シオンちゃんと離れないこと」
「うん」
「何か変だなと思ったら、すぐ先生か近くのお店の人に言うこと」
「それはアリスお姉ちゃんの授業でも習った!」
アティは得意げに胸を張る。
「変だなって思ったら、相手に悪いかなって思う前に離れる!」
「うん。よく覚えてるね」
アッシュは優しく笑って、アティの頭を撫でた。
「えらいね」
アティは嬉しそうに目を細める。
それから、しおりを胸に抱えて、ぱっと顔を上げた。
「ねぇ、お父さん」
「うん?」
「お土産、何がいい?」
アッシュは少しだけ目を瞬かせた。
「僕に?」
「うん! リュミエール大市場、いろんなお店があるんだって。お父さんにお土産買ってくる!」
その言葉に、アッシュの表情が柔らかくなる。
「そうだね……アティが選んでくれるなら、何でも嬉しいよ」
「何でもだと迷っちゃうよ」
「じゃあ、普段使えるものがいいかな」
「普段使えるもの……」
アティは真剣にしおりの余白へメモを取り始める。
「お父さん、甘いものは?」
「好きだよ」
「じゃあ、お菓子も候補!」
「でも、無理に食べ物じゃなくていいからね」
「うん!」
アリスが横から勢いよく手を挙げた。
「私は屋台ご飯がいい!」
「アリスお姉ちゃんのお土産?」
「ううん、現地で食べる分!」
「自分用なんだ」
「市場の屋台ってね、普通のお店で食べるより美味しいことが多いんだよ! 目の前で焼いてくれて、湯気が出てて、匂いがして、歩きながら食べるともう最高で!」
アリスの目がきらきらしていく。
「だからね、リュミエール大市場に行ったら、屋台は一番端から順番に制覇するのがいいと思う!」
「制覇?」
アティが目を丸くする。
「うん! 一から順番に!」
アッシュが静かに口を挟んだ。
「アリス」
「なぁに?」
「修学旅行中の小学生に、屋台制覇を勧めない」
「えー! でも市場の楽しみ方としては正しいよ!」
「アティには決められた範囲と時間があるからね」
「じゃあ、見るだけ制覇!」
「それなら……まあ、班から離れなければ」
「やった!」
「ただし、買う時は先生に確認してから」
「はーい」
アリスが返事をすると、アティも真似をするように手を挙げた。
「はーい!」
アッシュはその二人を見て、小さく笑った。
「あははっ。二人とも、元気だね」
「市場の話だからね!」
「楽しみだもん!」
アティはしおりを開き直し、余白に『お父さんのお土産』、『アリスお姉ちゃんのお土産』、『見るだけ屋台』と書き込んでいく。
「アリスお姉ちゃんには食べ物以外は何がいい?」
「私はねぇ、現地のおすすめ!」
「虫は?」
「虫は今回はなし!」
アリスは即答した。
アッシュが少しだけ感心したように見る。
「珍しいね」
「いや、私だって虫は得意じゃないもん!」
「へぇ、よく食べてるイメージがあるのに?」
「そりゃ勧められたら食べる! 地元文化としては大事なのよ!」
「へぇ、今回は?」
「今回は屋台ご飯!」
「やっぱりご飯なんだ」
アティが笑いながら、しおりに小さく丸をつけた。
「じゃあ、アリスお姉ちゃんには美味しそうなもの。お父さんには普段使えるものか甘いもの」
「うん。楽しみにしてるよ」
「絶対いいの選ぶ!」
アティの声は、本当に弾んでいた。
アッシュはその横顔を見つめる。
楽しみにしている娘。
守りたいと思う気持ち。
まだ掴めないまま動いている影。
その三つが胸の中で重なる。
けれど、不安は顔には出さない。
「いっぱい楽しんでおいで」
静かにそう言った。
アティはぱっと顔を上げる。
「うん!」
それからアティとアリスは、持ち物確認に戻った。
「歯ブラシは?」
「入れた!」
「ハンカチは?」
「二枚!」
「おやつは?」
「決められた分だけ!」
「えらい!」
「アリスお姉ちゃんは、決められた分で足りる?」
「足りないね!」
「アリスお姉ちゃん」
「はい」
アティに真顔で呼ばれ、アリスが背筋を伸ばす。
そのやり取りに、アッシュは小さく笑った。
その笑顔のまま、リビングの端へ移動する。
スマホを取り出し、画面を開いた。
宛先は、グレン。
アッシュは少しだけ考えてから、短く文章を打つ。
念のため確認したい。
アティたちの修学旅行先に、リュミエール大市場が入っていた。
そちらの周辺でも、ここ数日で未成年の行方不明相談がいくつか出ている。
港町側ほど明確ではないけれど、気になっている。
そちらで拾っている件と関係がありそうかな。
送信。
どうせ、彼のことだからすぐには既読はつかない。
アッシュは画面を見続けず、スマホを伏せてテーブルの端へ置いた。
それにグレンなら、もう知っているかもしれない。
アティの行き先と少しでも重なるなら、念のため確認せずにはいられなかった。
アリスは、その一連の動きを見ていた。
けれど、何も聞かなかった。
アッシュが家に仕事の顔を持ち込みたがらないことを、知っているからだ。
だからアリスは、スマホの行き先を察しても、今は踏み込まない。
ただ、アティの前で明るく言った。
「じゃあ、リュミエール大市場で買っていいお土産リスト、ちゃんと分けよう!」
「分ける!」
「食べ物、雑貨、見るだけ、あと高すぎるもの!」
「高すぎるもの?」
「見て楽しむだけ!」
「なるほど!」
アティは真剣な顔で、しおりの余白にメモを増やしていく。
アッシュはその様子を見て、静かに目を細めた。
まだ、止める理由にはならない。
けれど、目を離す理由にもならない。
楽しみにしている娘にむやみに不安を与えるのも、よくない。
だから今は、見守る。
疑いは胸の奥に置いたまま。
アティの笑顔を、曇らせないように。
◇
翌朝。
アティは、いつもより少し早く起きてきた。
「おはよう!」
階段を下りてきた声は、朝からよく弾んでいる。
明日の修学旅行。
その言葉だけで、胸の中に小さな羽が生えたみたいに、そわそわしているのだろう。
制服に着替え、髪を整え、朝食を食べている間も、アティの視線は何度もしおりの方へ向いていた。
テーブルの端には、昨夜何度も開いた修学旅行のしおりが置かれている。
余白には、アティの丸い字で、
【お父さんのお土産】
【アリスお姉ちゃんのお土産】
【見るだけ屋台】
【高すぎるものは見るだけ】
と書き足されていた。
ほかにもいっぱい書いてある。それだけでも楽しみだということが伝わる。
アッシュはそれを見て、少しだけ笑う。
「楽しみだね」
「うん!」
アティはパンを頬張りながら、大きく頷いた。
「明日、修学旅行だもん! シオンともね、昨日の夜mineしたの。どのお店を見るか、ちゃんと相談したんだよ」
「えらいね」
「あと、アリスお姉ちゃんが言ってた屋台も見る!」
「見るだけ?」
「見るだけ!」
アリスが横から少しだけ不満そうに口を尖らせた。
「見るだけでも楽しいけど、やっぱり市場は食べ歩きが醍醐味なんだよねぇ」
「アリス」
「分かってるって! 小学生の修学旅行で屋台制覇はしない!」
「しない、じゃなくて、勧めない」
「……勧めない!」
少し間があった。
アッシュは静かにアリスを見る。
アリスはそっと視線を逸らした。
「……強くは勧めない」
「アリス、昨日も言ったよね?」
「はい! 勧めません!」
アティがくすくす笑う。
クロはテーブルの下で尻尾を揺らし、三人の会話を聞いているように丸くなっていた。
朝食を終えると、アティは鞄を持って玄関へ向かう。
アッシュも、今日はまだ家にいた。
いつもなら少し早めに出ることもある時間だが、今日はアティを送り出してから署へ向かうつもりだった。
玄関で靴を履くアティの背中を、アッシュは静かに見守る。
「ハンカチは?」
「持った!」
「連絡用のスマホは?」
「鞄の内ポケット!」
「寄り道は?」
「しない!」
「何かあったら?」
「すぐ連絡!」
答えは全部、迷いなく返ってくる。
アッシュは満足そうに頷いた。
「よし」
アリスも横から手を振る。
「いってらっしゃい、アティ! 今日も元気に!」
「うん! 行ってきます!」
アティは扉を開ける。
朝の光が玄関に差し込んだ。
その明るさの中で、アティは一度振り返る。
「お父さん、今日は帰り遅い?」
「少しだけね。でも、昨日よりは早く帰れるようにするよ」
「ほんと?」
「本当」
アッシュは柔らかく笑う。
「だから、アティもまっすぐ帰っておいで」
「うん!」
アティはぱっと笑って、元気よく外へ飛び出した。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい!」
アッシュとアリスは、門の外へ向かうアティの背中を見送る。
アティは途中で一度振り返り、大きく手を振った。
アッシュも手を振り返す。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで、二人は玄関先に立っていた。
扉が閉まる。
家の中が、少しだけ静かになった。
さっきまでアティの声で満ちていた空気が、ゆっくりと落ち着いていく。
アリスはその静けさの中で、ちらりとアッシュを見た。
「……あんまり、うまくいってない?」
声は明るくない。
けれど、重くしすぎないように気をつけている響きだった。
アッシュは少しだけ目を伏せる。
「そう見える?」
「見えるよ。昨日からずっと、アティの前では笑ってるけど、目の奥が仕事してる」
「困ったなぁ」
「困っていいわよ」
アリスは小さく笑う。
アッシュは玄関脇に置いていた鞄を取り、リビングへ一度戻った。
テーブルの端に置かれたスマホを見る。
グレンからの返信は、まだ来ていない。
「正直、難航してる」
アッシュは短く言った。
「警察側でも、点は増えている。でも、線にならない。巡回を増やせば避けられる。聞き込みを広げると、今度は別の場所で薄い話が出る」
「わざと?」
「たぶんね。攪乱のためかなんなのか。困ったものだよ」
アッシュは上着を手に取りながら、静かに息を吐く。
「だから、今日は、自分でも少し外に出るつもりだよ。署で資料だけ見ていても、見えないものがあるからね」
「現場を見る?」
「うん。駅裏と商業区、それからリュミエール大市場の周辺も、できれば直接見たい」
「グレンは?」
「昨夜mineを送ったけど、まだ返事はないかな」
アリスの目が、ぱちりと瞬いた。
「え、ついに?」
アッシュはすぐに首を横に振った。
「いやいや、グレンだよ。まずない」
「だよねぇ。むしろ今、何かやってそうだもん」
「んー……警察としては、なんとも言えないけど」
アッシュは少しだけ困ったように笑った。
「友人としては、そうだねぇ、と思っちゃうよ」
「グレンが返信しない時って、返信できないんじゃなくて、返信するより先に動いてる時が多いもんね」
「そうだね」
「しかも、アッシュのmineを未読なら、それなりの理由がある」
「深いところに入っているのかもしれない」
アリスは少しだけ眉を寄せた。
「心配?」
アッシュは少し黙った。
それから、柔らかく笑う。
「グレンのことを?」
「うん」
「もちろん、心配していないわけじゃないよ」
そこでアッシュは、少しだけ視線を逸らした。
「ただ、グレンが本当に深いところまで行っているなら……心配すべきは、相手の方かもしれないね」
「……だよねぇ」
アリスは、妙に納得した顔で頷いた。
「グレンがそこまで潜るってことは、犠牲になってる人がいるか、想像もつかないようなことが裏で起きてる可能性があるってことだもんね」
「うん」
「それでグレンが静かに動いてるなら……」
「止まらないだろうね」
「止まらないねぇ」
二人はしばらく黙った。
心配していないわけではない。
けれど、グレンという人物を知っているからこそ、ただ無事を案じるだけでは済まない。
あの人が本気で裏に潜る時。
たいていの場合、危険なのはグレンだけではない。
グレンに見つかった側もまた、危険なのだ。
アッシュはスマホを手に取り、画面を一度確認してからポケットにしまった。
「グレンと連絡がついたら、できれば今日中に会うつもりだよ」
「直接?」
「うん。文字で済ませるより早い」
「それ、警察官として?」
「半分は」
「もう半分は?」
「友人として、だね」
アリスは少しだけ目を細めた。
「そっか」
「ただ、アティには言わないでおいて」
「分かってるわよ」
アリスは即答した。
「アティは明日の修学旅行を楽しみにしてる。そこに余計な不安は置かない」
「ありがとう」
「その代わり」
「うん?」
「アッシュも、ひとりで抱え込んだらダメよ」
アッシュは少しだけ目を瞬かせた。
昨日も言われた言葉だった。
けれど、アリスは今日も同じように、まっすぐ言う。
「私は警察じゃないし、グレンみたいに裏のことも分からない。でも、アティのそばにいることはできる。アッシュが外を見るなら、私はこっちを見るの」
アッシュは静かにアリスを見る。
いつもの明るい旅人の顔。
けれど、その奥には、ちゃんと腹を括った色がある。
「あははっ、頼もしいね」
「でしょ?」
アリスは少し得意げに笑った。
「私はみんなの旅人先生だからね」
「うん」
アッシュは柔らかく笑う。
「じゃあ、アティをお願い」
「任せて」
アッシュは玄関へ向かい、靴を履く。
扉に手をかけたところで、アリスが声をかけた。
「アッシュ」
「うん?」
「疲れた顔、玄関の前に置くのはいいけど、帰ってきた時に拾い忘れないでね」
アッシュは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「どういう意味かな」
「置きっぱなしにしてたら、あとでどこかに積もるでしょ」
「……君らしい言い方だね」
「つまり、ちゃんと休めってこと。わかってるの?」
「分かったよ」
「ほんと?」
「なるべく」
「またそれ。絶対しないやつじゃないの」
アリスが頬を膨らませる。
アッシュは小さく笑い、扉を開けた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
朝の光の中へ、アッシュは出ていく。
その背中は、いつも通り穏やかだった。
けれどアリスは知っている。
あの背中の奥で、いくつもの不安と責任が静かに積み重なっていることを。
だからこそ、アリスは扉が閉まるまで見送った。
そして、リビングへ戻ると、テーブルの上に置かれた保護者用の修学旅行のしおりへ視線を落とす。
リュミエール大市場。
アティが楽しみにしている場所。
アリスはその文字を見つめ、そっと息を吐いた。
「……ちゃんと、帰ってこようね」
それは、昨日自分が子どもたちに教えた言葉だった。
楽しい旅にするために。
ちゃんと帰ってくること。
アリスはしおりを閉じ、いつもの明るい顔に戻った。




