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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:学院に落ちる影

 朝の通学路には、柔らかな光が差していた。


 家々の窓に朝日が反射し、通りの木々が風に揺れている。

 学院へ向かう生徒たちの声が、少しずつ道に増えていく時間だった。


 アティは鞄を肩にかけ、いつもより少し弾むように歩いていた。


 明日の修学旅行。


 それを考えるだけで、胸の奥がむずむずして、何度も鞄の中を確認したくなる。


 しおりは入っている。

 ハンカチも入っている。

 筆記用具も、おやつも、ちゃんと入っている。


 それなのに、少し歩くたびに「本当に入ってたかな」と気になってしまう。


 不安というより、楽しみすぎて落ち着かないのだ。



「シオン!」



 バス停の近くで黒髪の少女を見つけると、アティはぱっと顔を明るくした。


 シオンも本を抱えたまま顔を上げる。



「おはようございます、アティ」


「おはよう! 明日だよ!」


「はい。明日です」



 シオンはいつも通り静かに頷いた。


 けれど、その手はすぐに鞄の外ポケットへ伸びる。

 そこから出てきたのは、修学旅行のしおりだった。



「あっ、シオンもしおりすぐ出せるところに入れてる!」


「はい。すぐ確認できます」


「私も!」



 アティは嬉しくなって、自分もしおりを取り出した。


 二冊のしおりを並べる。


 同じ表紙。

 同じ予定表。


 でも、書き込みの場所は少し違っていた。



「見て見て、私ここに書いたの」



 アティはしおりの余白を指差す。


【お父さんのお土産】

【アリスお姉ちゃんのお土産】

【見るだけ屋台】


 丸い字で書かれたメモに、シオンは真剣な顔で頷いた。



「大事な項目です」


「でしょ!」


「私はここです」



 シオンも自分のしおりを見せる。


 市場の地図の端に、小さく丸が三つついていた。



「お土産屋さん?」


「はい。三つあります。入口、中央通り、噴水の近くです」


「三つもあるんだよね!」



 アティの声が弾む。



「じゃあ最初に入口のお店見て、それから中央通り行って、時間があったら噴水のところ!」


「効率的です」


「効率的!」



 意味を確認するように、アティは少し得意げに繰り返した。


 それがなんだか楽しくて、二人は顔を見合わせて笑う。



「でも、こっちの屋台通りも見たいんだよねぇ」


「見るだけ屋台です」


「そう! 見るだけ屋台!」


「見るだけなら、たぶん行けます」


「ほんと?」


「歩く速さによります」


「じゃあ早歩きする?」


「走ってはいけません」


「そうだった!」



 アティは慌てて口元を押さえる。


 けれど、すぐにまた笑ってしまう。



「じゃあ、すごく速い歩き」


「それは、走るの手前です」


「手前ならセーフ?」


「たぶん、先生に見つかったらアウトです」


「じゃあ普通に歩く!」


「はい」



 シオンは真面目に頷く。


 真面目なのに、どこか少しずれている。


 アティはそれが楽しくて、また笑った。


 普段なら、二人とも通学路ではちゃんと前を見る。

 信号の前では足を止めるし、横断歩道を渡る時には左右を確認する。


 でも今日は、少しだけ違った。


 明日の修学旅行のことを考えるだけで、頭の中がきらきらした予定でいっぱいになっていた。



「お父さんのお土産、何がいいと思う?」


「普段使えるもの、でしたよね」


「うん。でも普段使えるものって難しいよね」


「ペン」


「ペンかぁ。お仕事で使うかな」


「使います」


「じゃあ候補!」


「甘いものも候補です」


「お父さん、甘いもの好きだもんね」


「では、ペン型のお菓子」


「それ食べづらくない?」


「たしかに」



 二人は真剣だった。


 とても真剣に、お土産のことを考えていた。


 アティはしおりを覗き込み、シオンは小さく首を傾げながら地図を見る。

 その姿は、少し大人びた相談をしているようでいて、内容はとても子どもらしかった。



「アリスお姉ちゃんには?」


「美味しそうなもの」


「屋台の匂いがするもの?」


「持って帰る頃には冷めます」


「そっかぁ」


「でも、冷めても美味しいものはあります」


「じゃあ、それ!」


「あと、虫ではないもの」


「虫はなし!」



 アティがきっぱり言うと、シオンも同じように頷いた。



「虫はなしです」


「アリスお姉ちゃん、虫は苦手なのに文化だからって持って帰ってくるんだもん」


「文化は難しいです」


「難しいねぇ」



 二人はまた、くすくす笑った。


 しおりの中の地図が、二人の世界の中心になっていく。


 入口のお店。

 中央通り。

 噴水。

 見るだけ屋台。

 お土産。

 甘いもの。

 虫ではないもの。


 話したいことが多すぎて、前を見る時間が少しずつ減っていた。


 学院はもう近い。


 白い石造りの門も、少し先に見えている。

 周りには同じ学院の生徒たちもいる。


 だから、ほんの少しだけ安心してしまった。



「シオン、ここ見て。集合場所、噴水の前だって」


「はい。噴水は重要地点です」


「迷ったら噴水!」


「迷わないのが一番です」


「そうだった!」



 二人はしおりを覗き込みながら、横断歩道の手前へ差しかかった。


 信号は青だった。


 だから、足が自然に前へ出る。


 曲がり角の向こうから、車が入ってきた。


 速度はそれほど速くない。

 けれど、二人との距離は近い。


 クラクションが鳴るより早く。


 ふわり、と身体が浮いた。



「え?」


「……?」



 アティは、何が起こったのか分からなかった。


 さっきまで手元にあったしおりの文字が揺れる。

 地面が少し遠くなる。

 朝の風が頬を撫でる。


 次の瞬間には、自分とシオンの身体が、横断歩道の手前から少し離れた安全な場所に移されていた。


 背中を支えていた腕は細く、けれど驚くほど安定している。



「おはようございます」



 柔らかな声がした。


 アティが顔を上げる。


 そこにいたのは、シエルだった。


 長い白髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。

 澄んだ青い瞳は、いつも通り穏やかだった。


 あまりにも自然にそこにいるものだから、今この瞬間まで抱えられていたことの方が不思議に思えるほどだった。



「シ、シエル先生……?」


「おはようございます、アティさん。シオンさん」


「お、おはようございます……」



 シオンも、少しだけ目を丸くしたまま挨拶を返した。


 横断歩道の手前では、車が止まっている。

 運転手が慌てたようにこちらへ頭を下げていた。


 シエルは二人をそっと地面へ下ろす。


 それから、膝を折るようにして目線を合わせた。



「二人とも、怪我はありませんか?」


「だ、大丈夫です」


「私も、大丈夫です」


「よかったです」



 シエルは安心したように微笑んだ。


 けれど、その微笑みはすぐに、ほんの少しだけ先生の顔になる。



「ですが、しおりを見ながら歩くのは危ないですよ」



 声は優しい。

 怒ってはいない。


 けれど、ちゃんと胸に届く声だった。


 アティはしおりをぎゅっと持つ。



「……はい」



 シオンも静かに頷いた。



「すみません。明日のことを考えていました」


「楽しみなのは、とても良いことです」



 シエルは穏やかに言った。



「でも、楽しいことを考えている時ほど、足元や周りを忘れてしまうものです。車がある場所では前を見ること。信号が青でも、周りを確認すること。特に横断歩道では、必ず一度顔を上げてくださいね」


「はい。気をつけます」


「私も、気をつけます」


「ええ。二人なら大丈夫です」



 シエルは柔らかく笑う。


 そして、少しだけ冗談めかすように続けた。



「ここが学院の近くだったから、私もすぐに気づけました。でも、そうでない場所では、先生でも助けに行けないことがあります。だから、自分たちでもちゃんと気をつけてくださいね」


「はい」



 アティは素直に頷いた。

 シオンも真面目に頷く。


 けれど、ほんの少しだけ、二人は顔を見合わせた。


 言葉にはしない。


 でも、たぶん同じことを思っていた。


 シエル先生は、学院の近くじゃなくても来てくれそう。


 図書館でも。

 中庭でも。

 食堂でも。


 誰かが本当に困っている時ほど、なぜかそこにいる。


 だから、今の言葉は正しいと分かっているのに、二人には少しだけ不思議な説得力のなさがあった。


 シエルは二人の表情を見て、くすりと笑う。



「何か言いたそうですね」


「い、いえ」



 アティは慌てて首を振った。


 シオンは少しだけ考え、静かに言う。



「シエル先生は、遠くでも来られそうだなと思いました」


「シオンちゃん……!」



 アティが小声で慌てる。


 シエルは困ったように、それでいて楽しそうに微笑んだ。



「私は、どこにでも行けるわけではありませんよ」


「そうなのですか?」


「そうですよ」



 シエルは優しく答える。



「だからこそ、二人が自分で気をつけてくれると、とても安心します」



 その言葉に、アティとシオンは改めて頷いた。



「はい」


「気をつけます」


「よろしいです」



 シエルは立ち上がり、二人のしおりを軽く見る。



「明日の修学旅行、楽しみですね」


「はい!」



 アティの顔がぱっと明るくなる。



「リュミエール大市場で、お父さんのお土産を探すんです!」


「まあ。素敵ですね」


「シオンと一緒に、ちゃんと班から離れずに見ます!」


「ええ。それが一番大事です」



 シエルは満足そうに頷いた。



「では、そろそろ行きましょうか。朝の会に遅れてしまいます」


「はい!」


「はい」



 二人はしおりを鞄にしまい、今度はちゃんと顔を上げて歩き出した。


 シエルはその少し後ろを、静かに歩く。


 まるで最初からそこにいたかのように。


 朝の会が始まっても、教室の空気はいつもより少し浮ついていた。


 机の上には教科書とノート。

 黒板には今日の予定。

 窓の外には、いつもと同じ学院の中庭。


 けれど、子どもたちの視線は、どうしても机の端に置かれた修学旅行のしおりへ向いてしまう。



「明日の集合時間、何時だったっけ?」


「朝早いよ。遅れたら大変だって先生言ってた」


「おやつって、どこまで持ってきていいんだっけ?」


「しおりに書いてあるよ」


「リュミエール大市場で何買う?」


「私はお母さんにお茶!」


「僕は弟に木のキーホルダー!」



 小さな声が、あちこちからこぼれている。


 担任の先生は出席簿を閉じ、苦笑しながら教卓に手を置いた。



「みなさん、明日の修学旅行が楽しみなのは分かりますが、今日はまだ授業がありますよ」


「はーい」



 返事はちゃんと返る。


 けれど、その声もどこか弾んでいた。


 アティはその様子を見て、少しだけ嬉しくなる。


 自分だけじゃない。

 みんなも楽しみなのだ。


 昨日の夜から何度もしおりを見返してしまったこと。

 お土産のことを考えすぎて、なかなか寝つけなかったこと。

 朝、シオンと話しながらはしゃぎすぎて、シエルに助けられてしまったこと。


 少しだけ恥ずかしい。


 けれど、教室の中のみんなも同じようにそわそわしているのを見ると、その恥ずかしさも柔らかくなった。



「アティ」



 隣の席のシオンが、小さく声をかける。



「何?」


「お土産候補、増えました」


「えっ、いつ?」


「今、みなさんの話を聞いていて」



 シオンはノートの端をそっと見せた。


 そこには小さな文字で、


【お茶】

【木のキーホルダー】

【市場限定のお菓子】

【割れないもの】


 と書かれている。



「すごい、増えてる」


「割れないものは大事です」


「たしかに。持って帰る時に割れたら悲しいもんね」


「はい。悲しいです」



 シオンは真面目な顔で頷く。


 アティはくすっと笑った。



「じゃあ、お父さんには割れないものも候補だね」


「はい。お父さん用は、割れない、使える、甘い、です」


「条件が増えてる!」


「選びやすくなりました」


「そうかなぁ」



 二人で小さく笑っていると、担任の先生がこちらを見た。



「アティさん、シオンさん」


「は、はい」


「修学旅行の相談は休み時間にしましょうね」


「はい……!」


「すみません」



 アティとシオンは慌てて前を向く。


 けれど、先生は怒っているわけではなかった。


 明日のことを楽しみにしているのは、先生にも伝わっているのだろう。

 口元が少しだけ笑っている。


 午前の授業は、そんな空気のまま進んでいった。


 国語の時間、例文を読んでいる途中で誰かが『旅』という単語に反応してしまい、教室が少しざわつく。

 算数の時間、班ごとの人数を使った問題が出ると、『明日の班と同じだ』と誰かが言う。


 先生はそのたびに『今は授業です』と言いながらも、どこか楽しそうだった。


 そして、三時間目。


 体育の時間になった。


 体育館へ移動すると、いつもより少し空気が違っていた。


 床は綺麗に磨かれていて、中央には跳び箱が置かれている。

 その横には、マットが何枚も重ねられていた。


 子どもたちは体育館に入るなり、わっと声を上げる。



「今日、跳び箱?」


「えー、苦手」


「私、三段なら跳べる!」


「僕、五段いける!」



 アティも跳び箱を見る。


 苦手ではない。

 けれど、得意と言い切れるほどでもない。


 シオンは跳び箱をじっと見ていた。



「シオン、跳び箱どう?」


「跳べる時と、跳び箱に止められる時があります」


「止められる?」


「前に進む気持ちはあるのに、体が止まります」


「あー……分かるかも」



 アティが頷いた時、体育の先生が笛を軽く鳴らした。



「はい、集合してください」



 子どもたちが並ぶ。


 体育の先生は、いつもより少し嬉しそうだった。



「今日は、みなさんに特別な先生を紹介します。跳び箱や体の使い方について、実演を交えて教えてくださいます」



 その言葉に、子どもたちがざわついた。



「特別な先生?」


「誰だろ」


「跳び箱の先生?」



 体育館の入口が開く。


 入ってきたのは、ひとりの女性だった。


 紺色の短い髪。

 琥珀色の瞳。

 動きやすいスポーツウェアの上から、軽く羽織をかけている。


 表情はあまり変わらない。


 けれど、立っているだけで体の軸がまったくぶれないのが分かった。


 アティは目を丸くする。



「……リリィさん?」



 小さく呟いた声に、リリィの視線が一瞬だけこちらを向いた。


 そして、ほんのわずかに頷く。


 本当に少しだけ。


 けれど、アティには分かった。


 挨拶してくれたのだ。


 体育の先生が紹介する。



「こちらはリリィ先生です。体操競技の世界大会にも出場されている、とてもすごい方です」



 その瞬間、体育館がざわっと沸いた。



「世界大会!?」


「テレビで見るやつ?」


「すごい人じゃん!」


「なんで学院に来てくれたの?」



 リリィは騒ぎに動じない。


 淡々と前に立ち、短く頭を下げた。



「リリィです。今日は、跳び箱を教えます」



 短い。


 それだけだった。


 子どもたちは一瞬きょとんとする。


 けれど、そのあまりの短さに、逆に興味を持ったようだった。


 体育の先生が笑って補足する。



「リリィ先生は、難しい技を見せに来たわけではありません。今日は、みなさんでも使える体の動かし方を見せてくれます」



 リリィは跳び箱の横へ歩く。


 そして、置かれていた三段の跳び箱を軽く見た。



「高く跳ぶ必要はない」



 リリィは静かに言った。



「怖い時は、体が止まる。止まると、もっと怖くなる」



 シオンが小さく瞬きをした。


 さっき自分が言ったことと似ていたからだ。


 リリィは助走位置へ下がる。



「大事なのは、手をつく場所。目線。踏み切る足」



 言葉は短い。


 けれど、分かりやすい。


 リリィは軽く走り出した。


 足音はほとんど響かない。


 跳び箱の前で踏み切り、両手をつき、ふわりと身体が浮く。


 子どもたちが息を呑んだ。


 派手な技ではない。

 高く跳びすぎてもいない。


 けれど、その動きはあまりにも滑らかだった。


 まるで、跳び箱が最初からそこになかったみたいに、リリィの身体が自然に向こう側へ抜けていく。


 着地の音も、ほとんどしなかった。



「すごい……」



 誰かが呟いた。


 アティも目を輝かせる。



「リリィさん、すごい」



 リリィは振り返り、淡々と言う。



「今のは、子どもでもできる」


「えぇー!?」



 子どもたちが一斉に声を上げた。


 リリィはまばたき一つしない。



「できる。段を低くして、順番にやればいい」



 体育の先生が笑う。



「では、今日はリリィ先生に、怖くない跳び方を教えてもらいましょう」



 リリィは跳び箱の前に立ち、まず手の位置を示した。



「手はここ。近すぎると詰まる。遠すぎると届かない」



 次に、目線。



「跳び箱の上だけ見ない。向こうを見る」



 それから、踏み切り。



「強く蹴るより、止まらないこと」



 子どもたちは真剣に聞いていた。


 リリィの説明は多くない。

 でも、余計なことがないから分かりやすい。


 何より、さっきの動きを見た後だ。


 みんな、自分も少しだけできそうな気がしていた。


 最初に挑戦した子は、三段の跳び箱の前で少し足を止めた。


 リリィは横に立ち、短く言う。



「向こうを見る」


「はい!」


「止まらない」


「はい!」



 子どもは助走をつけ、跳んだ。


 少し形は崩れたけれど、向こう側へ下りる。



「できた!」



 体育館に拍手が起きる。


 リリィは小さく頷いた。



「今のでいい」



 その一言だけで、跳んだ子はぱっと笑顔になった。


 次々と子どもたちが挑戦していく。


 アティの番が近づくと、アティは少しだけ緊張した。



「アティ、がんばってください」



 シオンが小さく言う。



「うん」



 アティは助走位置に立つ。


 跳び箱の向こう側を見る。

 手を置く場所を思い出す。

 止まらない。


 そう言い聞かせた時、リリィが近くで短く言った。



「アティ」


「はい」


「怖いなら、段を下げる」


「……大丈夫です」


「無理はいらない」


「はい。でも、やってみます」



 リリィの琥珀色の瞳が、少しだけ柔らかくなる。



「じゃあ、向こうを見る」


「はい!」



 アティは走り出した。


 踏み切る。

 手をつく。

 身体がふわりと前に出る。


 少しだけ足が引っかかりそうになったが、勢いは止まらなかった。


 マットの上に着地する。



「できた!」



 アティがぱっと顔を上げる。


 リリィは小さく頷いた。



「よくできた」



 たったそれだけ。


 でも、アティは嬉しくて頬が緩んだ。



「ありがとうございます!」



 リリィは少しだけ目を逸らす。



「別に」



 その耳元が、ほんの少し赤くなっているように見えた。


 アティはそれに気づいて、ますます嬉しくなる。


 その後、シオンも挑戦した。


 助走は少し慎重だったが、リリィの『止まらない』という声に合わせて、最後まで進む。


 着地したシオンは、自分の足元を見た。



「跳び箱に止められませんでした」


「うん! 跳べたね!」



 アティが嬉しそうに言う。


 リリィも頷いた。



「止まらなかった。いい」


「ありがとうございます」



 シオンは少しだけ照れたように目を伏せた。


 体育館には、子どもたちの歓声が響いている。


 明日の修学旅行で浮き足立っていた空気は、そのまま別の形のわくわくへ変わっていた。


 アティはマットの端に座りながら、リリィを見る。


 世界大会に出るようなすごい人。

 でも、今は自分たちの目の前で、三段の跳び箱を教えてくれている。


 難しいことを見せびらかすのではなく、子どもでも届くところまで下りてきてくれる。


 それが、なんだかすごくかっこよかった。



「リリィさん、かっこいいね」



 アティが小さく言うと、シオンも頷いた。



「はい。跳び箱が道みたいでした」


「道?」


「向こうへ行くための」


「……なんか分かるかも」



 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。


 その様子を、リリィは少し離れたところから見ていた。


 アティが笑っている。


 アリスが大事にしている子。

 アッシュが守ろうとしている子。


 それを知っているから、リリィはほんの少しだけ目を細めた。


 けれど、すぐにいつもの無表情へ戻る。



「次」



 短い声に、次の子どもが元気よく返事をした。



「はい!」



 体育館には、子どもたちの明るい声が続いていた。


 体育の授業が終わる頃には、体育館の中には子どもたちの熱気が残っていた。


 跳び箱を跳べた子は嬉しそうに友達へ話し、まだ少し苦手な子も、次はもう少しできそうだとマットの上で足を揺らしている。


 アティも、まだ胸の中が少し弾んでいた。


 跳べた。


 ほんの少し足が引っかかりそうになったけれど、止まらなかった。


 向こうを見る。

 手をつく場所を決める。

 止まらない。


 リリィが教えてくれた通りにしたら、本当に跳べた。



「アティ、跳べてました」



 シオンが隣で静かに言う。



「シオンも跳べてたよ!」


「はい」



 シオンは自分の両手を見下ろした。



「手をつく場所を決めたら、跳び箱が少しだけ小さく見えました」


「分かる! さっきより怖くなかったよね!」


「はい。……ちょっと、楽しかったです」



 いつもより少しだけ声が弾んでいた。


 アティはぱっと笑う。



「シオン、もう一回跳びたい?」



 シオンは少し考えた。



「……少しだけ」


「だよね!」


「でも、二回目で失敗したら悔しいです」


「それも分かる!」



 二人は顔を見合わせて、くすくす笑った。


 体育の先生が片付けの指示を出し、子どもたちは順番にマットを運んでいく。


 その時、リリィがアティたちの方へ歩いてきた。


 相変わらず表情はほとんど動かない。

 けれど、さっきまで跳び箱の前で見せていた鋭さは、少しだけ薄れている。



「アティ」


「はい、リリィさん!」


「跳べてた」


「ありがとうございます!」



 アティが嬉しそうに笑うと、リリィはほんの少しだけ頷いた。



「止まらなかった。いい」


「リリィさんが教えてくれたからです」


「私は言っただけ。跳んだのはアティ」



 短い言葉だった。


 けれど、それがアティにはすごく嬉しかった。


 リリィは次にシオンを見る。



「シオンも」


「はい」


「止まらなかった」


「……はい。跳び箱に止められませんでした」


「それでいい」



 リリィが淡々と頷く。


 シオンは少しだけ照れたように、体操服の裾をぎゅっとつまんだ。



「ありがとうございます」



 アティはそれを見て嬉しくなる。


 自分が褒められたのも嬉しいけれど、シオンが嬉しそうなのも嬉しかった。


 リリィはそこで、少しだけ視線を横へ向けた。


 何かを言おうとしているようで、でも少しだけ迷っているようにも見える。



「……アリス」


「え?」


「帰ってきてる?」



 アティはぱっと顔を明るくした。



「はい! 昨日から家にいます!」



 その瞬間。


 リリィの表情は、ほとんど変わらなかった。


 けれど、空気だけが明らかに変わった。


 ぴん、と。

 見えない耳が立ったみたいに。


 ふわっ、と。

 見えない尻尾が揺れたみたいに。


 無表情のままなのに、リリィの周りだけ少し明るくなった気がした。


 アティは思わず瞬きをする。


 リリィさん、今、すっごく嬉しそう。


 シオンも隣で小さく目を丸くしていた。

 きっと同じことを感じたのだろう。



「そう」



 リリィは短く言った。


 けれど、声の温度が少しだけ上がっている。



「アリス、元気?」


「すごく元気です。昨日もいっぱい食べてました」


「いつも通り」


「はい!」



 アティが笑うと、リリィはほんの少しだけ目を細めた。



「リリィさん、アリスお姉ちゃんに会いたいんですか?」


「……別に」



 リリィはすぐに答えた。


 けれど、ほんの少しだけ間があった。

 しかも、その視線が体育館の出口へ一瞬だけ向いた。


 アティはにこにこする。



「会いたいんですね」


「……」



 リリィは目を逸らした。


 その横で、シオンが小さく呟く。



「今、見えないしっぽが出口を向いた気がしました」


「シオン」



 リリィが静かに名前を呼ぶ。


 シオンははっとして、少しだけ背筋を伸ばした。



「すみません」


「……別に」



 怒ってはいないらしい。


 ただ、少しだけ耳のあたりが赤くなっている気がした。



「授業は終わった。シエルに挨拶したら、少し時間がある」


「じゃあ、家に来ますか?」



 アティが言うと、リリィはすぐには答えなかった。


 少しだけ、慎重に確認するようにアティを見る。



「行っていい?」


「リリィさんなら大丈夫だと思います。アリスお姉ちゃんも喜ぶと思うし、この時間ならたぶんまだ家にいます」


「アッシュは?」


「お仕事です」


「そう」



 リリィは頷いた。



「なら、シエルに挨拶してから行く」


「はい! アリスお姉ちゃん、びっくりすると思います!」


「びっくりするアリスは面白い」



 ぽつりとリリィが言った。


 アティは思わず笑ってしまう。



「リリィさん、やっぱりアリスお姉ちゃんのこと好きですね」


「好き」



 今度は即答だった。


 あまりにも迷いがなくて、アティは目を丸くする。

 シオンも、ぱちぱちと瞬きをした。


 リリィは何でもないことのように続ける。



「アリスは大事」


「……はい」



 アティは少しだけ胸が温かくなった。


 リリィにとって、アリスは本当に特別なのだ。


 それが言葉の少なさの中から、ちゃんと伝わってきた。



「アリスさん、喜ぶと思います」



 シオンが言う。



「リリィさんが来たら、たぶん声が大きくなります」


「分かる!」



 アティが笑うと、リリィは少し考えた。



「なら、驚かせる」


「やっぱり好きですね」


「好き」



 また即答だった。


 今度はアティもシオンも、揃って小さく笑ってしまった。


 リリィは体育の先生に短く挨拶をして、体育館を出ていった。


 その背中を見送りながら、シオンがぽつりと言う。



「リリィさん、表情はあまり変わりませんでした」


「うん」


「でも、空気が少し跳ねました」


「空気が跳ねた?」


「はい。跳び箱みたいに」



 シオンが真面目に言うので、アティはまた笑ってしまった。



「今日のシオン、ちょっと楽しそう」


「はい」



 シオンは少しだけ目を伏せた。



「跳べたので」


「そっか!」



 二人は並んで、体育館を出た。


 四時間目の授業へ向かうため、子どもたちは校舎へ戻っていく。


 廊下には、体育の後らしい少し浮いた空気が残っていた。



「跳び箱、楽しかったね」


「はい」


「明日も楽しみだし、今日もなんかすごい日だね」


「はい。楽しいことが多い日です」



 シオンがそう言った時だった。


 アティはふと、窓の外へ視線を向けた。


 校舎の二階の廊下からは、学院の正門近くが見える。


 白い石造りの門。

 通りを歩く人。

 外の木陰。


 その木陰に、人影があった。


 黒っぽい帽子。

 顔を隠すようなマスク。

 襟元を上げた上着。


 その人は、道を歩いているわけではなかった。


 門の方を見ている。


 学院の中を、見ている。


 アティの足が、少しだけ止まった。



「アティ?」



 シオンが気づいて、同じように窓の外を見る。



「……あの人」



 アティは小さく言った。



「ずっと、こっち見てる?」



 シオンも目を細める。



「分かりません。でも、歩いていません」



 ただの通行人かもしれない。


 日差しが眩しくて、帽子を深く被っているだけかもしれない。

 風邪をひいていて、マスクをしているだけかもしれない。

 誰かを待っているだけかもしれない。


 でも。


 アティの胸の奥が、少しだけざわついた。


 お父さんなら、どうするだろう。


 そう思った。


 アッシュはいつも言っている。


 変だと思ったら、無理に確かめに行かないこと。

 子どもだけで判断しないこと。

 大人に伝えること。


 それに、アリスも授業で言っていた。


 変だなと思ったら、相手に悪いかなと思う前に離れる。



「シオン」


「はい」


「ユエ先生に言おう」



 シオンはすぐに頷いた。



「はい。その方がいいです」



 二人は窓から離れ、廊下を早足で進んだ。


 走らない。


 でも、急ぐ。


 職員室の近くまで行くと、ちょうどユエが資料を持って廊下へ出てきたところだった。



「アティさん、シオンさん。どうしました?」



 ユエは二人の表情を見て、すぐに声を柔らかくした。



「何かありましたか?」



 アティは一度息を整える。



「正門の近くに、ちょっと変な人がいました」


「変な人?」


「帽子とマスクで顔が見えなくて、歩いてる感じじゃなくて……学院の方を見てたんです」



 シオンも頷く。



「木陰に立っていました。通行人にしては、少し長く同じ場所にいたと思います」



 ユエの表情は変わらなかった。


 けれど、目だけが少しだけ真剣になる。



「教えてくれてありがとうございます」



 その声は落ち着いていた。


 ユエは優しく微笑む。



「大丈夫ですよ。二人はよく知らせてくれました。怖がらなくて大丈夫です」


「見に行きますか?」


「はい。ただし、二人は教室へ戻ってください。次の授業に遅れてしまいますから」


「でも……」


「大丈夫です」



 ユエはもう一度、穏やかに言った。



「先生が確認します。二人は、自分たちで近づかずに知らせてくれました。それが正しい行動です」



 アティは少しだけほっとして頷いた。



「はい」


「シオンさんも、ありがとうございます」


「はい」



 ユエは近くにいた別の教師へ短く声をかける。



「四年生の廊下を少し見ていてください。私は正門の方を確認します」


「分かりました」



 ユエはすぐに歩き出した。


 走らない。

 けれど、足取りは早い。


 アティとシオンは教室へ戻る途中、もう一度だけ窓の外を見た。


 ユエが正門の方へ向かっているのが見える。


 だが、木陰にはもう誰もいなかった。



「あれ……」



 アティが小さく呟く。


 さっきまで、確かにいた。


 帽子を深く被り、マスクで顔を隠し、学院の方を見ていた人。


 でも今は、ただ木の影が揺れているだけだった。


 通りには何人か歩いている。

 けれど、あの人はいない。


 ユエも周囲を確認しているようだったが、すぐに何かを見つけた様子はなかった。



「いなくなりました」



 シオンが静かに言う。



「うん……」


「見間違いでしょうか」


「分からない」



 アティはしおりを抱える手に、少しだけ力を込めた。


 見間違いだったらいい。

 ただの通行人だったなら、それでいい。


 けれど、胸の奥のざわつきは完全には消えなかった。



「でも、言ってよかったよね」


「はい。言ってよかったです」



 二人は頷き合い、教室へ戻った。


 四時間目の授業が始まる。


 黒板には、いつも通りの文字が並ぶ。

 先生の声も、友達の声も、変わらない。


 けれど、アティは一度だけ窓の外へ視線を向けた。


 木陰には、もう誰もいない。


 子どもには見えた。

 大人が動いた時には、消えていた。


 それが、ただの偶然なのか。


 それとも。


 アティは小さく息を吸い、前を向いた。


 明日の修学旅行。


 楽しみな気持ちは、まだちゃんとある。


 けれど、その明るさの端に、ほんの少しだけ影が落ちた気がした。

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