消えた白い鳥:帰ってきた旅人
一方その頃。
港町の到着口で、ひときわ大きなリュックを背負った女性が、両腕を空へ突き上げていた。
「帰ってきたぁー!」
潮風が吹き抜ける。
真っ白な髪がふわりと揺れ、その毛先だけが、ルビーの瞳と同じ赤色に染まっている。
背中まで流れる長い髪。
首元には、古びた意匠のネックレス。
白いワンピースの上には、ワインレッドの羽織。
歩くたびに、肩から下げた土産袋や小さなポーチが、がさがさと音を立てた。
アリス。
世界中を歩き回り、美味しいものと面白いものを探す旅人だった。
ただ観光地を巡るだけではない。
見たことのない朝焼けを追いかける。
知らない市場で、知らない果物を買う。
現地の人に混ざって食卓につき、料理名も分からない皿を前に目を輝かせる。
危ない道も、迷いやすい路地も、言葉の通じない土地も、アリスにとっては全部が旅の一部だった。
背負ったリュックは、今にも弾けそうなほど膨らんでいる。
両手には紙袋。
腕には布袋。
肩からは小さな革袋がいくつも下がっている。
どこからどう見ても荷物が多い。
だが、本人はまったく気にしていなかった。
「これはアティに見せるでしょ。これはシオンちゃんにあげたいし、こっちはアッシュに……いや、アッシュは絶対に中身を聞いてから食べるなぁ」
アリスは少し考えた。
「じゃあ、先に食べてもらえばいいかな!」
良くない。
しかし、アリスは本気で名案だと思っている顔をしていた。
スマホを取り出すと、mineにはアティからのメッセージが残っている。
アリスお姉ちゃん、今度帰ってきたら旅の話を聞かせてね。
シオンにも聞かせたいです。
アリスの顔が、一気に緩んだ。
「もー、アティは可愛いなぁ! もちろんもちろん! お姉ちゃん、いっぱい話しちゃうよー!」
返信を打とうとしたところで、ぽん、と新しい通知が入る。
差出人は、ユエだった。
アリスさん、お帰りなさい。
それから、お土産ありがとうございました。
近々、初等部で修学旅行の事前授業があります。
よければ、旅の注意点や、知らない土地での過ごし方について、臨時講師としてお話しいただけませんか?
アリスは目を瞬かせた。
「……私が?」
もう一度、画面を見る。
臨時講師。
旅の注意点。
知らない土地での過ごし方。
「私が、先生……?」
アリスは少しだけ背筋を伸ばした。
そして、きりっとした顔を作る。
「なるほど……ついに私の旅知識が、未来ある子どもたちの役に立つ時が来たわけね!」
すぐに顔が緩む。
「アティもいるかな? シオンちゃんもいるかな? いるよね? 初等部だもんね?」
アリスは勢いよく返信を打った。
行く!
旅のことなら任せて!
迷子にならない方法と、美味しいお店の見つけ方と、危ない食べ物の見分け方も教えるね!
送信。
数秒後、ユエから返事が来た。
ありがとうございます。
とても助かります。
ただし、危ない食べ物の見分け方はぜひお願いしますが、食べて確認する方法は教えないでください。
「……」
アリスは画面を見つめた。
「ユエ先生、私のこと分かってるなぁ」
少しだけ不満そうに頬を膨らませる。
その直後、また通知が鳴った。
あと、今回の講義で虫料理のお話はしないであげてくださいね。
子どもたちが少し驚いてしまうと思うので。
アリスはぴたりと止まった。
それから、両手いっぱいの土産袋のうち、一つを見る。
マドラキア地方の小さな印がついた袋。
中には、現地の人が『ぜひ持って帰って!』と笑顔で包んでくれた名物が入っている。
虫の燻製。
「……いや、私だって虫は得意じゃないよ?」
アリスは誰に言うでもなく呟いた。
「でも、せっかくの名物だし。その土地の人が美味しいって言ってくれたものだし。ちゃんと持って帰って、みんなで文化を知るのも旅の醍醐味というか……」
ぽん。
しないでくださいね。
「追撃が早い!」
港町の到着口で、アリスの声が元気よく響いた。
周囲の人がちらりと見る。
アリスは慌てて口元を押さえ、それからこほんと咳払いする。
「……うん。先生だもん。落ち着き、大事」
そう言って、もう一度mineを見る。
ユエからの文章は丁寧だった。
丁寧すぎるくらい丁寧で、そのぶん逃げ道がなかった。
アリスは少しだけ唇を尖らせる。
「虫料理の話、面白いと思うんだけどなぁ……」
けれど、すぐにぱっと表情を明るくした。
「まあいっか! 旅の話なら他にもいっぱいあるし!」
危ない橋の渡り方。
知らない土地で親切な人を見分ける方法。
変な屋台に引っかからない方法。
迷子になった時の戻り方。
あと、美味しい匂いのする通りはだいたい正義。
話したいことは山ほどある。
「よーし! まずはアッシュの家に荷物を置いて、お土産だけ持って、それから学院に行こ!」
アリスは大きなリュックを背負い直した。
袋が、がさりと揺れる。
「アティ、会えるかなぁ。シオンちゃんもいるかなぁ。ふふっ、びっくりするかなぁ」
楽しそうに笑いながら、アリスは歩き出す。
潮風を背に、港町の人混みへ。
その足取りは軽い。
まるで、これから始まることが、ただの楽しい再会と授業だけだと信じているように。
◇ ◇ ◇
セレスティア総合学院は、街の中心から少し離れた高台にあった。
白い石造りの正門。
広い並木道。
手入れの行き届いた花壇。
遠くには、初等部から大学部までの校舎がいくつも並んでいる。
ただの学校というより、ひとつの小さな町のようだった。
図書館。
講堂。
研究棟。
食堂。
中庭。
寮。
制服姿の生徒たちが、昼休みの時間に合わせて校舎の間を行き来している。
その中を、荷物をある程度置いているはずなのに、巨大なリュックと大量の土産袋を抱えたアリスが、きょろきょろと見回しながら歩いていた。
「相変わらず広いなぁ……。これ、初めて来た子は絶対迷うよね」
そう言いながらも、アリスの足取りは軽い。
門の警備員に来校目的を伝えると、すでに話は通っていたらしく、すぐに中へ案内された。
さすがシエルの学院だと思う。
余計な確認はない。
けれど、必要なところはちゃんと見ている。
自由に見えて、守られている。
そんな場所だった。
受付のある校舎に入ると、涼しい空気が頬を撫でた。
床は磨かれていて、窓から差し込む光が淡く反射している。
壁には生徒たちの絵や研究発表のポスターが並び、どれも初等部のものとは思えないくらい丁寧だった。
「おぉ……すごい。これ、アティも見て回るの楽しいだろうなぁ」
アリスが感心していると、廊下の奥から一人の青年が歩いてきた。
白に近い柔らかな髪。
穏やかな顔立ち。
そして、光の加減で淡く色を変える、曹灰長石色の瞳。
ユエだった。
落ち着いた色合いの教師用ジャケットを羽織り、腕には数冊の資料を抱えている。
柔らかく微笑む姿は優しげだが、その目だけは不思議と深い。
人を見るというより、色を見るような目。
アリスは、いつ見ても少しだけ不思議な気持ちになる。
「アリスさん。お帰りなさい」
「ユエ先生! ただいま!」
アリスは満面の笑みで手を振った。
その拍子に、肩から下げた土産袋ががさがさと鳴る。
ユエはその荷物の量を見て、少しだけ目を細めた。
「……かなり、持ち帰りましたね」
「うん! みんなに渡そうと思って!」
「その中に、例のマドラキア地方のものも?」
アリスは一瞬だけ視線を逸らした。
「……文化交流って大事だよね」
「mineでも言いましたが、講義では出さないでくださいね」
「まだ何も言ってないのに!」
「顔に出ていました」
「ユエ先生、そういうところあるよねぇ」
アリスはむぅ、と頬を膨らませる。
ユエは穏やかに笑ったまま、資料を抱え直した。
「旅の話は、子どもたちも楽しみにしています。特に、知らない土地で気をつけることや、困った時に周りへ助けを求める方法は、ぜひ話していただきたいです」
「任せて! 道に迷った時の戻り方とか、怪しい屋台の見分け方とか、美味しい匂いのする通りの探し方とか!」
「最後のものは、ほどほどでお願いします」
「大事だよ?」
「大事ではありますが、修学旅行の事前授業ですから」
「はーい」
その時、廊下の向こうから、ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。
「アリスお姉ちゃん!」
アリスが振り向くより早く、淡い金色の髪が視界に飛び込んでくる。
アティだった。
昼休みになったばかりなのだろう。
制服姿のまま、手には教科書を抱えている。
瑠璃色と翡翠色の瞳が、ぱっと輝いていた。
「アティ!」
アリスは荷物を落とさないようにしながら、両腕を広げた。
アティはそのまま駆け寄り、ぎゅっと抱きつく。
「帰ってきたんだ!」
「帰ってきたよー! ただいま、アティ!」
「おかえりなさい!」
アティは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、アリスの顔もとろけるように緩んだ。
「もー、可愛い! 朝のmine見たよ! 旅の話、いっぱいするからね!」
「うん! シオンにも聞かせたい!」
「もちろん!」
その名前が出た直後、廊下の少し後ろから、黒髪の少女が本を抱えて歩いてきた。
シオンだ。
黒い髪はさらりと肩に落ち、白銀色の瞳は静かにアリスを見つめている。
大人しげな雰囲気だが、どこかぽわぽわした柔らかさがある。
腕には、昼休みに読むつもりだったのだろう、一冊の本を抱えていた。
「アリスさん、おかえりなさい」
「シオンちゃん! ただいま!」
アリスが手を振ると、シオンは小さく微笑んだ。
「旅から帰ってきた人は、物語の続きみたいです」
「えっ、なんか素敵なこと言うね!?」
「でも、荷物は物語より多いです」
「そこは現実だった!」
アティがくすくす笑う。
ユエは微笑ましそうに三人を見てから、軽く手元の資料を確認した。
「アリスさん、講義は午後の二限目です。それまで少し時間がありますね」
「じゃあ、お昼一緒に食べてもいい?」
アリスが目を輝かせる。
アティもぱっと顔を上げた。
「食堂行こう! シオンも一緒に!」
「うん」
シオンは静かに頷いた。
「今日は新しいデザートがあります」
「えっ、ほんと!?」
アリスの反応が、誰よりも早かった。
ユエは少しだけ苦笑する。
「食べすぎないようにしてくださいね。午後は講義ですから」
「大丈夫! 食べた方が元気出るから!」
「その理論はアリスさんだけです」
「そんなことないよね、アティ!」
「私は……普通の量なら……?」
「アティまで!」
そんなやり取りをしながら、三人は食堂へ向かった。
セレスティア総合学院の食堂は、昼休みの生徒たちで賑わっていた。
大きな窓から光が差し込み、長いテーブルがいくつも並んでいる。
奥のカウンターには、日替わりランチ、スープ、サンドイッチ、焼き菓子、デザートが並んでいた。
アリスはそれを見た瞬間、目を輝かせた。
「すごい! 学校の食堂なのに、種類多い!」
「学院の食堂、美味しいんだよ」
アティが少し得意げに言う。
「マカオさんのカフェとはまた違うけど、こっちも好き」
「へぇー! じゃあ全部ちょっとずつ食べたい!」
「全部?」
シオンが静かに首を傾げる。
「全部は、全部ですか?」
「うん!」
「小説での物語なら、宴ですね!」
「そう! 旅人の帰還祝い!」
アリスは勢いよくトレーを手に取った。
そして、数分後。
アティとシオンの前には、普通の昼食が並んでいた。
アティは日替わりランチとスープ。
シオンはサンドイッチと小さなデザート。
そしてアリスの前には、なぜかトレーが三つあった。
日替わりランチ。
パスタ。
サンドイッチ。
スープ。
サラダ。
焼き菓子。
プリン。
季節のタルト。
食堂の職員が二度見する量だった。
アティは目を丸くする。
「アリスお姉ちゃん、それ全部食べるの?」
「もちろん!」
「午後、講義あるよ?」
「だから食べるんだよ!」
シオンはプリンを見つめながら、ぽつりと言った。
「燃料補給」
「そう! シオンちゃん分かってる!」
「でも、たぶん車より燃費が悪いです」
「えっ、私そんなに?」
アティが笑いをこらえきれず、肩を震わせる。
アリスは気にした様子もなく、まずスープを一口飲んだ。
「おいしい!」
その後の速度は、見ていて気持ちいいほどだった。
話しながら食べる。
笑いながら食べる。
アティに旅の話を振られれば、身振り手振りを交えて答え、その合間にパスタを巻き取る。
「それでね、マドラキア地方は市場がすごくて!」
アティが身を乗り出す。
「どんな市場?」
「色んな香辛料が山みたいに積んであってね。色も匂いも全然違うの。あと、燻製屋さんが多くて――」
アリスはそこまで言って、ほんの一瞬だけ口を止めた。
ユエのmineが脳裏をよぎる。
虫料理のお話はしないであげてくださいね。
「……燻製屋さんが多くて、いろんな文化を感じました!」
かなり無理矢理だった。
シオンはサンドイッチを両手で持ったまま、ゆっくり瞬きをする。
「文化を感じる燻製……」
「うん! 文化!」
「魚ですか?」
「えっ」
「お肉ですか?」
「えーっと……」
シオンは少しだけ首を傾げた。
「それとも、物語によく出てくる保存食のような……硬い何か?」
「硬い何か……かな?」
「噛むと音がするタイプですか?」
アリスの目が泳いだ。
「し、しそうな気はするけど……」
「からから?」
「シオンちゃん、音の解像度が高いね!?」
アティが不思議そうにアリスを見る。
「アリスお姉ちゃん、何の燻製だったの?」
「えーっと、それはねぇ……」
アリスが笑顔で押し切ろうとした、その時だった。
「アリスさん」
すぐ横から、穏やかな声がした。
アリスの肩がびくっと跳ねる。
いつの間にか、ユエが立っていた。
「ユ、ユエ先生……いつからそこに?」
「“燻製屋さんが多くて”のあたりからです」
「だいぶ前!」
ユエはにこりと微笑む。
「文化を知ることは大切です。ですが、初等部の昼食中に共有するには、少し早い文化もあります」
アリスは視線を逸らした。
「……まだ何も言ってないよ?」
「だから、助かりました」
「止めに来たんだね?!」
「はい」
即答だった。
アティはきょとんとしている。
「ユエ先生、何の話?」
ユエは穏やかにアティへ向き直る。
「午後の講義で、アリスさんがとても興味深い話をしてくれるという話です」
「ほんと?」
「はい。ただし、食堂で聞くより、教室で聞いた方がいい話ですね」
シオンはサンドイッチを見つめながら、ぽつりと言った。
「食堂では聞かない方がいい食べ物の話……」
ユエは微笑む。
「シオンさん。それ以上は、午後まで本のしおりのように挟んでおきましょう」
「しおり」
シオンは少し考えた。
「分かりました。今は閉じておきます」
「ありがとうございます」
アリスが小さく拍手する。
「シオンちゃん、表現が可愛い!」
「閉じました」
「ほんとに閉じた!」
アティがくすくす笑う。
ユエはアリスの前に並んだ皿の山へ視線を落とした。
「ところで、アリスさん」
「はい」
「講義前に、まだ召し上がりますか?」
アリスは満面の笑みで答えた。
「デザートをもう一個だけ!」
ユエは少しだけ沈黙した。
「……午後、眠くならない範囲でお願いします」
「大丈夫! 食べた方が元気出るから!」
シオンが静かに言う。
「アリスさんは、食べると充電される生き物」
「シオンちゃん、私、人間だよ!?」
「では、充電式の人間」
「新しい!」
アティはもう笑いを堪えきれなかった。
ユエも小さく目を細める。
食堂のざわめきの中、三人の周りだけが少しだけ明るくなったようだった。
それからしばらくして。
アリスは本当に、デザートをもう一つ食べた。
アティはその食べっぷりを感心したように見つめ、シオンはぽつりと呟いた。
「午後の授業、先生が眠くなる可能性」
「ならないよ?!」
アリスは慌てて否定する。
けれど、その顔は楽しそうだった。
これから話す旅のこと。
アティやシオンが目を輝かせて聞いてくれること。
それを思うだけで、胸が弾む。
今はまだ、ただ楽しい昼休みだった。




