消えた白い鳥:黒兎
港町へ向かう大通りの手前に、古いカフェ兼雑貨店がある。
観光客向けの焼き菓子と、港町らしい小物を置いた小さな店だ。
表の通りからは明るく見えるが、裏口は細い路地に繋がっている。
人が入る。
荷物が出る。
配達員が通る。
観光客が道を尋ねる。
何気ない会話が落ち、噂が紛れ、誰かの視線が残る。
情報を拾うには、悪くない場所だった。
店の奥からは、焼き菓子の甘い匂いと、淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。
カウンターの奥には、大柄な店主が立っていた。
マカオ。
ピンク色の髪をふわりと整え、糸のように細い目元には濃い化粧。
大きな身体に派手なエプロンを身につけた、見るからに印象の強い人物だった。
話し方も仕草も艶やかで、初対面の客はたいてい一度は目を奪われる。
けれど、その料理の腕は確かだ。
焼き菓子も、軽食も、コーヒーも、この通りでは評判がいい。
マカオはアッシュのことも、グレンのことも知っている。
だからこそ、二人がこの店に顔を出しても、余計なことは聞かない。
今も、カウンターでカップを拭きながら、ちらりと入口へ視線を向けるだけだった。
店内では、小柄な青年が木箱を抱えて棚を整理していた。
ブロンドの短髪。
ツァボライト色の瞳。
見た目だけなら、実年齢よりかなり幼く見える。
ノア。
今は、この店の臨時アルバイトという顔をしている。
もう一人、カウンターの側には黒髪の青年が立っていた。
ユキ。
前髪は長く、目元が隠れるほどに落ちている。
けれど髪の隙間から、赤い瞳がちらりと覗く。
静かで落ち着いた雰囲気の青年だった。
接客用の柔らかい笑顔を浮かべながら、カップを丁寧に並べている。
だが、その視線はただ客を見ているだけではない。
誰が何を注文したか。
誰が店の外を気にしているか。
どの客が会話を聞いているか。
それとも、聞いていないふりをしているだけか。
ユキは、そういう小さな違和感を自然に拾う。
ノアはよく動く。
ユキはよく見る。
だから、二人がこの店に入っている時、ここはただのカフェではなく、街の情報が集まる小さな窓口にもなる。
入口のベルが、ちりん、と鳴った。
ノアは反射的に顔を上げる。
そして、入ってきた人物を見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。
「……げ」
黒いコート。
深い赤色のマフラー。
紫色の髪に、黄金色の瞳。
グレンは店内を一瞥し、ノアへ視線を向けた。
「挨拶がなっていないな」
「いや、今のは独り言。客向けじゃねぇ」
ノアは慌てて周囲を確認する。
観光客が二組。
カウンターにはマカオ。
そしてユキ。
マカオはグレンを見て、糸目のままにっこりと笑った。
「あらぁ、グレンちゃぁーん。いらっしゃい。今日も物騒な顔してるわねぇ」
「元からだ」
「やぁねぇ。否定しないところ、嫌いじゃないわ」
マカオはくすりと笑うと、ユキに軽く顎をしゃくった。
「ユキちゃん、お願いね。アタシは奥の焼き上がり見てくるから」
「はい」
マカオはそれ以上踏み込まなかった。
グレンが来た時点で、ただの客ではないと分かっている。
そして、そういう時はノアとユキに任せた方がいいことも知っていた。
ユキはグレンに向き直り、ほんの少しだけ眉を動かした。
「いらっしゃいませ。……また面倒な人が来ましたね」
「接客に本音を混ぜるな」
「失礼しました。ご注文は?」
「情報だ」
「メニューにはありません」
ユキはにこやかに返す。
後ろから入ってきたナギが、小さく笑った。
「ええ返ししますねぇ」
グレンはノアへ視線を戻す。
「おい、黒兎」
その瞬間、ノアが勢いよく手を振った。
「あーあーあー! バイト中にそれ出すなっての!」
ノアは口元に人差し指を当てて、必死に声を落とす。
「しーっ! 今の俺らは普通のバイト! 健気に働く一般人! 分かる?」
「一般人?」
「そこ疑問形にすんな!」
「健気?」
「そこも拾うな!」
ユキがカップを拭きながら、静かに言った。
「ノア、声が大きいです」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「グレンですね」
「分かってんなら止めろよ!」
「無理です。止まる人ではありません」
「諦め早すぎんだろ!」
観光客の一人がちらりとこちらを見る。
ユキはすぐに営業用の笑顔へ戻った。
「申し訳ありません。在庫確認で少し揉めておりまして」
「あ、そうなんですね」
「はい。よくあることです」
よくはない。
ノアはそう言いたげな顔をしたが、何とか黙った。
そこで、ユキはカップを置き、接客用の笑顔のままグレンを見た。
「それにしても、ボスもなかなかいい性格をしていますね」
ノアがぎょっとした顔をする。
「おいユキ、今それ言うか?」
ナギが口元を押さえ、肩を震わせた。
「ええ度胸してますねぇ」
グレンは怒らなかった。
むしろ、少しだけ口元を上げる。
きれいな笑みだった。
ただし、黄金色の瞳はまったく笑っていない。
「ぴょんぴょんと飛ぶ兎は美味いと聞くが、どう思う?」
ノアの顔が引きつった。
「おいこら、俺を見ながら言うな」
「見て言っている」
「余計悪いわ!」
冗談。
普通なら、そう流せる言葉だった。
けれど、言ったのがグレン・ヴェスペディウスとなると話が変わる。
表向きは探偵。
けれど、街の裏側にも顔が利く人物。
そのグレンが、笑って『兎は美味い』と言う。
ノアからすれば、笑えない。
笑った瞬間、そのまま何かに巻き込まれそうだった。
ユキは笑顔のまま、少しだけ視線を逸らす。
「……そうですね。食文化としては地域差があるかと」
「ユキ、真面目に返すな!」
「でも、先ほど虫の燻製の話もありましたし」
「繋げんな! 虫と兎を並べんな!」
ナギが肩を震わせる。
「今日の食卓、なかなか賑やかっすねぇ」
「食卓に乗せるな!」
グレンは何事もなかったように、カウンター席へ腰を下ろした。
「話が逸れたな」
「逸らしたのはあんただろ!」
「そうだったか?」
「そうだよ!」
ユキは一度だけ小さく息を吐き、改めてメニュー表を差し出した。
「それで、ご注文は?」
グレンはメニュー表へ目を落とす。
「コーヒー」
「かしこまりました」
ユキがカウンター内で準備を始める。
ノアは箱を棚へ置き直し、嫌そうな顔のままグレンを見た。
「つーか、いつもみてぇにナギだけよこしゃあいいだろ」
「内容が内容だからな」
「内容?」
グレンはカウンターに肘を置き、声を落とした。
「子どもの行方不明の件。何か知らないか?」
ノアの表情から、ふざけた色が少し消えた。
「……軽い噂程度だな、そりゃあ」
「話せ」
「その前に、それだけならグレンがわざわざ顔出す理由かよ」
ノアが目を細める。
ユキもコーヒーを淹れながら、さりげなく耳を傾けていた。
グレンは短く答える。
「アッシュからだ」
その名前に、ノアは『あー』と、どこか納得したような声を漏らした。
「てことは、娘絡み?」
「いや」
グレンは即答した。
「だったらmineだけで終わらせないだろ」
「……まあ、それはそうだな」
ノアは苦い顔で頷いた。
アティに何かあったなら、アッシュが静かに連絡だけしてくるはずがない。
その時は、もっと直接、もっと早く、もっと危険な形で動く。
それをノアも知っている。
「アイツは勘だけはいい」
グレンは続けた。
「子どもが狙われているかもしれない。自分の娘のことも、他の親のことも頭にある。その上で、表の情報だけでは足りないと思ったから、こちらに聞いてきたんだろう」
ユキが淹れたコーヒーを、静かにグレンの前へ置いた。
「つまり、まだ表に出るほどではないけれど、放っておくには危ない、と」
「ああ」
グレンはカップに手を伸ばす。
コーヒーの香りを一度だけ確かめ、口をつけた。
そして、ノアとユキを順に見る。
ノアは街を歩く。
配達を装えば、表通りも裏道も自然に移動できる。
小柄で、軽く、気配を薄くするのが上手い。
相手から警戒されにくい代わりに、相手の油断も拾いやすい。
ユキは店に立つ。
言葉少なに接客しながら、客の声、視線、間の取り方を見ている。
誰が嘘をついたか。
誰が何かを隠したか。
誰が店の外を気にしたか。
そういうものを、自然に見落とさない。
だから使う。
ただ便利だからではなく、この二人なら薄い違和感を拾えると知っているからだ。
「だから、お前たちを使う」
「便利に使いやがって」
「使えるからな」
「否定できねぇのが腹立つ」
ナギがにこにこと口を挟む。
「それに、ノアはんには借りもありますしねぇ」
「出たよ、それ!」
ノアは心底嫌そうに顔を歪めた。
「いつまで言うんだよ。もうだいぶ返しただろ」
「まだ足りんな」
「どんだけ高利貸しなんだよ!」
「命拾いの借りは高いっすからねぇ」
「ナギまで乗るな!」
ユキは少し考えるように目を伏せる。
「駅の裏通りや商業区の端で、知らない大人に声をかけられた子がいる、という話なら聞いたことがあります」
「内容は」
「道を聞かれた。写真を撮ってほしいと言われた。落とし物を一緒に探してほしいと言われた。どれも単体なら、事件とは言い切れません」
ノアも口を挟む。
「港方面に向かうバス停でも、見慣れない大人が立ってるって話はある。ただ、観光客も多いからな。怪しいって言い切るには弱ぇ」
「弱くていい」
グレンは短く言う。
「薄い話を拾え。顔、時間、場所、声をかけられた子の年齢。分かる範囲でいい」
「へいへい」
「ただし、深追いはするな」
ノアが片眉を上げる。
「俺にそれ言う?」
「言う。お前は小柄だから狙われる可能性がある」
「子ども扱いすんな」
「狙う側がどう見るかだ」
ノアは言い返そうとして、口を閉じた。
「……分かったよ」
ユキも静かに頷く。
「こちらでも客の話を拾っておきます」
「ああ」
グレンはコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
そして立ち上がりかけて、一度だけノアを見る。
「黒兎」
「だからバイト中に——」
「ユキを置いて一人で動くな」
ノアの文句が止まる。
ユキも少しだけ目を丸くした。
グレンはそれ以上何も言わず、扉へ向かう。
ナギもそれに続き、去り際にノアとユキへ軽く手を振った。
「ほな、気ぃつけて」
「……言われなくても」
ノアは小さく舌打ちした。
「分かってるっつの」
ユキはその横で、少しだけ柔らかく笑った。
扉が閉まる。
カフェの中に、客の話し声とカップの音が戻った。
さっきまでの空気が嘘のように、甘い焼き菓子の匂いが店内を満たしていく。
ノアは棚に置いた箱を持ち直し、奥へ声をかけた。
「マカオー! 悪い、次のバイトあるから上がるわ!」
奥から、マカオの明るい声が返ってくる。
「はぁい。行ってらっしゃい、ノアちゃん。ユキちゃんも気をつけるのよぉ」
「分かってる」
「はい。ありがとうございます」
ユキはエプロンを外し、カウンターの端へきちんと畳んで置いた。
ノアは窓の外を見る。
黒いコートの背中と、赤いマフラーが人混みに消えていく。
「ほんと、面倒なことになりそうだな」
「でも、放っておけないでしょう?」
「……まぁな」
ノアは短く笑った。
「アティに何かあったら、あいつら全員洒落にならねぇし」
「そうですね」
ユキの声も、静かに低くなる。
「その前に止めましょう」
「了解。じゃあ、まずは配達ついでに探るか」
そう言って、ノアは店の裏口へ向かった。
カフェの裏口を出ると、表通りの賑やかさが少し遠のいた。
細い路地には、店から出た空き箱や配達用の台車が並んでいる。
昼の光は建物の隙間から細く落ちて、石畳の上にまだらな影を作っていた。
ノアは配達用の鞄を肩にかけ直し、面倒くさそうに息を吐く。
「ったく。よりによってグレン直々かよ」
隣で、ユキが前髪の隙間から赤い瞳を覗かせる。
「それだけ、気にしているということでしょう」
「分かってるよ。分かってるけどさぁ」
ノアは舌打ちする。
「あいつに“黒兎”呼びされると、だいたいロクな仕事じゃねぇんだよ」
「今回は子どもの件です」
「だから余計にロクじゃねぇんだろ」
ユキは否定しなかった。
ノアは配達用の帽子をかぶり直し、路地の奥へ視線を向ける。
「まずは駅裏か?」
「はい。声かけの話が多い場所から確認しましょう」
「港方面のバス停は?」
「後で。明るいうちは駅裏、夕方にバス停の方が自然です」
「なるほどな」
ノアは短く笑った。
「やっぱユキがいると話早ぇ」
「ノアが一人で動くと、たまに突っ走りますから」
「たまにだろ」
「わりと」
「おい」
ユキは何も言わず、にこりと笑った。
「否定しろよ」
「嘘はよくありません」
「そこだけ真面目かよ」
ノアは呆れたように肩をすくめた。
小学生くらいの子ども。
目撃情報が少ない。
知らない大人からの声かけ。
まだ点でしかない。
でも、グレンが動いた。
アッシュが違和感を拾った。
なら、放っておくには遅い。
「よし」
ノアは配達用の鞄を軽く叩く。
「黒兎、仕事しますか」
「次のバイトは?」
「今は休憩中」
「便利ですね」
「便利じゃなきゃ、やってらんねぇよ」
二人は路地を抜け、駅裏へ向かって歩き出した。
表通りの賑やかさの裏側へ。
誰かが見落とした、小さな違和感を拾うために。




