消えた白い鳥:ヴェスペディウス探偵事務所
その頃。
港町から少し離れた路地裏に、一軒の古いBARがあった。
黒い木製の扉。
磨かれた真鍮の取っ手。
昼間だというのに、窓には薄いカーテンが引かれている。
夜になれば、そこは静かなBARとして開く。
常連がふらりと立ち寄り、店主が磨いたグラスに酒を注ぐ。
大きな看板も、派手な灯りもない。
ただ、知っている者だけが知っている店。
外から見れば、それ以上のものには見えない。
けれど、昼の間だけ、扉の横には別の札が掛かる。
【ヴェスペディウス探偵事務所】
ある探偵が、この場所を使う時間だけ。
そのBARは、探偵事務所になる。
少なくとも、表向きは。
店内には、まだ客はいなかった。
カウンターにはグラスが整然と並び、壁際の棚には酒瓶が静かに光を受けている。
古い木の床には、昼の薄い光が細く落ちていた。
その床の上で、男がひとり正座していた。
いや、正座させられていた。
額からは血が滲み、頬は腫れ、唇の端は切れている。
両手は後ろで拘束され、白いシャツには赤黒い染みが点々と散っていた。
息をするたびに肩が震える。
痛みのせいか、恐怖のせいか。
おそらく、その両方だった。
男の前では、ひとりの人物がカウンター席に腰かけている。
紫色の髪。
黄金色の瞳。
中性的な顔立ち。
後ろ髪は短めに整えられているが、左側の横髪だけが長く、肩口へ流れるように垂れている。
黒い長袖の上着。
その下には、黒のノースリーブのタートルネック。
無駄のないすらりとした姿は、静かにしていれば美しいと形容される類のものだった。
ただし、その黄金色の瞳は、今はひどく冷たい。
グレン・ヴェスペディウス。
昼の札に書かれた探偵事務所の主である。
グレンは細い煙草を片手に、正座させられた男を見下ろしていた。
「それで」
声は低く、淡々としている。
「貴様は、私の管理下の店で薬を流そうとしたうえ、断った従業員に刃物を向けた」
男の肩が跳ねた。
「ち、違……っ、俺はただ、上に言われて……!」
「誰に言われたかは後で聞く。私が今聞いているのは、貴様が何をしたかだ」
「……っ」
「答えろ」
怒鳴ったわけではない。
それでも、グレンの一言で男の顔色は一気に悪くなった。
目の前にいる人物が何をするか、すでに身をもって知っているからだ。
男は震える声で言葉を漏らす。
「……薬を、渡そうとしました」
「従業員を脅したな」
「……はい」
「刃物を出したな」
「……はい」
「しかも、貴様は【ヴェスペディウス】の名を、私の許可なく使ったな」
そこで、男は黙った。
【ヴェスペディウス】は探偵として、迷子や浮気調査など何でも受け持つ探偵屋。
だが、それは表向きの話だ。
グレンの瞳が、すっと細くなる。
「返事は」
「……はい」
「貴様、自分が何を売ったか分かっているのか」
「ただの遊び用だって……」
次の瞬間、グレンの煙草を持つ手が止まった。
店内の空気が、冷える。
「ただの?」
男の喉が鳴った。
「い、いや、その……」
「薬に“ただの”をつけるな」
グレンの声は静かだった。
「遊びで済むなら、私が今ここで貴様を座らせていると思うか?」
「す、すみませ……」
「謝罪は私にするものではない」
カウンターの内側で、女性が深くため息をついた。
緑色の髪に、同じく緑色の瞳。
柔らかそうな顔立ちをしているが、目はよく動き、状況を細かく観察している。
ナギ。
グレンの秘書であり、事務所の実務の大半を捌いている人物だった。
ナギはタブレットを片手に、床の血を見て眉を下げる。
「グレンはん。床、まぁーた汚れてますやん」
「私は汚していない」
「結果として汚れてます」
「そいつが勝手に汚した」
「いや、殴られた側の血ですやん」
「自業自得だ」
「否定はしませんけど、掃除するんはうちなんですわ」
「業者を呼べ」
「この状況で呼べる業者なんて、清掃業者いうより処理班っすわ。事務所の一部分だけ真新しくなりますやん」
正座している男は、そのやり取りを聞きながらさらに青ざめていた。
ここは探偵事務所。
扉の横には、確かにそう書いてあった。
けれど、今の男の目には、そこが探偵事務所にもBARにも見えていない。
どちらかといえば、裁判所か処刑場だった。
その時、扉が三度、低く叩かれた。
ナギが顔を上げる。
「来ましたわ」
「入れ」
扉が開く。
黒いスーツ姿の男たちが数人、静かに入ってきた。
全員、表情は硬い。
店内の状況を見ても、誰一人として驚かない。
先頭の男が、グレンを見るなり頭を下げた。
「ボス、お呼びでしょうか」
その瞬間。
グレンの黄金色の瞳が、男を射抜いた。
「おい」
部屋の温度が一段下がる。
「……ここで、何と呼べと言った」
男の背筋が、目に見えて伸びた。
「し、失礼しました」
グレンは煙草を灰皿へ押しつける。
「せめてこの事務所では、【先生】、だろ」
「はい。先生」
床に正座していた男が、絶望したような顔でそのやり取りを見る。
黒服たちがこの人物を【ボス】と呼び、本人が【先生】に訂正させた。
もう、どう考えても普通の探偵ではない。
「連れていけ」
グレンが言う。
黒服の一人が頷いた。
「どこまで?」
グレンは少しだけ考えた。
「指は残せ。念書を書く手は必要だ」
男の顔から血の気が引いた。
「ま、待ってください! もうしません! 本当に!」
「その言葉を信じるには、貴様は遅すぎる」
「先生!」
「……貴様が、私をそう呼ぶな」
グレンの声が、さらに低くなる。
「弟子でもなく、顧客でもない人間が気安く話しかけるな」
黒服たちが男を立たせる。
男は抵抗しようとしたが、すぐに肩を押さえられ、情けない声を漏らした。
ナギが淡々と告げる。
「弁償、謝罪文、今後の出入り禁止、薬の出どころ。全部吐いてもらいますわ」
「そ、それだけですか……?」
ナギはにこっと笑った。
「それだけで済むよう、祈っとき」
男は完全に黙った。
その時、カウンターの上に置かれていたスマホが、軽く震えた。
ぽん。
mineの通知音だった。
グレンの視線が、そちらへ向く。
画面には、【黒猫】と名前の書かれた人物からの短い文章が表示されていた。
少し聞きたいことがある。
最近、未成年の行方不明相談が増えている。
そちらで何か変な噂は聞いていないかな。
グレンの表情が、わずかに変わった。
先ほどまで冷えていた瞳が、さらに奥へ沈む。
怒りではない。
苛立ちでもない。
もっと静かで、鋭い何かだった。
ナギも、その変化に気づくとスマホの画面を覗き見る。
「……子どもの件ですか?」
「らしいな」
黒服たちに連れられていく男が、ちらりとこちらを見た。
次の瞬間、グレンの視線が男へ戻る。
「何を見ている」
「ひっ……」
「さっさと連れていけ。そいつにはもう用はない」
男たちが出ていくと、店内に一瞬の静寂が落ちた。
グレンはナギへスマホを差し出す。
「調べろ」
「未成年の行方不明相談、ですね」
「ああ。件数、場所、年齢層、保護された子の証言。表に出ていない噂も拾え」
「了解っす」
ナギはすぐに自前のタブレットを操作し始めた。
緑色の瞳が、画面の文字を素早く追う。
「表の情報では、家出か迷子か事件か判別しづらそうな内容ばかりやて」
「だから黒猫がこちらに聞いてきた」
黒猫というのは、アッシュのことだ。
誰が、いつ、どこで、何を聞いているか分からない。
そのため、部下も含め、表の仕事をする時以外はなるべくそう呼んでいる。
彼が警察という立場上、その方が都合がいいからだ。
「黒猫はんが聞いてくるってことは、何か引っかかってるんでしょうねぇ」
「そうだろうな」
ナギは数件の情報を開き、眉を寄せる。
「ここ最近、確かにちょこちょこありますね。大きく報道されるほどではないようですけど」
「場所は」
「駅周辺が多め。あとは商業区の端、バス停近く。港町方面に繋がるルートも一部あり」
「年齢は」
「十代前半から小学生くらいまで。保護済みもあります。ただ、怖がって詳しく話してへん子もいそうですわ」
グレンの黄金色の瞳が、冷たく細まった。
「子どもばかりか」
「まだ断定はできませんよ」
「断定は後でいい。先に拾え」
「はいはい」
グレンはスマホへ返信を打った。
まだ確定した話はない。
こちらでも拾う。
子どもが絡むなら、ただの家出で済ませるな。
無茶はするな。
送信。
ナギが画面を覗き込む。
「最後の一文、黒猫はんに言います?」
「言う」
「グレンはんが?」
「何だ」
「いやぁ、同族嫌悪やなぁと思いまして」
「黙れ」
ナギは楽しそうに笑った。
グレンはスマホをしまい、カウンターから立ち上がる。
港町へ続く大通りが、窓の向こうに見えていた。
未成年の行方不明。
目撃情報の少なさ。
アッシュが感じた違和感。
まだ、形にはなっていない。
だが、嫌な匂いはする。
「店を閉めろ」
ナギの表情から、軽さが消えた。
「……探偵として、ではなく?」
「ああ」
グレンは扉の方を見る。
「ここからは、探偵ではなく、裏として動く」
ナギは静かに頷いた。
「了解です」
ナギが扉へ向かい、入口の看板に手をかける。
カタン。
小さな音を立てて、看板が裏返った。
OPEN
だった文字が、
CLOSE
へ変わる。
店内の空気が、わずかに沈む。
昼間の探偵事務所としての顔が、そこで閉じた。
ナギは扉から戻ると、さっきまでの秘書の顔を消し、静かにグレンへ向き直った。
「では、ボス。どこから洗います?」
「子どもが通る道からだ。学校、駅、バス停、商業区の端。表に出ない目撃も、些細なものでもすべて拾え」
「了解っす」
「それと、学院周辺も薄く見ておけ」
「子猫ちゃんのですか」
「ああ」
「……そら心配っすよねぇ。むしろ黒猫はんもボスもそっちのほうが本命やろ」
グレンは答えなかった。
ただ、黄金色の瞳だけが少し鋭くなる。
「念のためだ」
「はい。念のため、ですね」
ナギはそれ以上からかわなかった。
子どもの件で、グレンが冗談を好まないことを知っているからだ。
けれど、その空気は長くは続かなかった。
ナギがタブレットに指示を打ち込みながら、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、ボス」
「何だ」
「アリスはんから、土産が届いてますよ」
グレンの動きが止まった。
黄金色の瞳が、ゆっくりとナギを見る。
「……どこからだ」
「ええと、たしか……マドラキア地方やったと思います」
その名前を聞いた瞬間、グレンの顔からわずかに温度が引いた。
煙草を持つ指が止まり、眉間にほんの少しだけ皺が寄る。
普段なら怒りでも大して揺れない瞳が、明らかに『面倒なものを思い出した』と言っていた。
「……昔、立ち寄ったことがある」
「どんなところです?」
「虫料理が有名な地域だ」
ナギの手が止まる。
「……虫」
「ああ」
「ちなみに、届いた箱には“燻製”と書いてあります」
グレンは沈黙した。
長い沈黙だった。
半グレを脅していた時より、薬の話を聞いた時より、よほど深刻そうな沈黙だった。
ナギの口元が、じわじわと上がる。
「ボス?」
「いらん」
即答だった。
「まだ中身見てませんよ」
「いらん」
「アリスはんの手紙には、“意外と香ばしくておいしいよ!”って」
「なら本人に食わせろ」
「たぶん食べた上で送ってきてますねぇ」
「なお悪い」
グレンの顔が、さらに嫌そうに歪んだ。
ほんのわずかだ。
他人が見れば気づかない程度かもしれない。
だが、ナギには分かる。
これは相当嫌がっている。
ナギは箱を持ち上げ、軽く振った。
中で、からからと軽い音がする。
グレンの視線が、その箱からすっと逸れた。
「朝食にどうです?」
「虫は食わん」
あまりにも真顔だった。
ナギが小さく吹き出す。
「ボスにも普通に嫌なもんあるんですねぇ」
「普通、虫は食わん」
「地域によっては食文化ですやん」
「私の食文化ではない」
「なるほど」
ナギは楽しそうに笑いながら、近くにいた黒服の一人へ箱を差し出した。
「ほな、これは?」
グレンはその黒服へ視線を向ける。
嫌そうな顔のまま、箱を指先で押しやった。
触れるのも最小限だった。
「処分は任せる」
「……はい?」
黒服の男は、反射的に箱を受け取った。
だが、受け取ってから顔色が変わる。
任された。
ボスから直々に。
だが、中身は虫の燻製。
男の視線が、箱とグレンの顔を行き来する。
「ボス、これは……」
「私はいらん」
「ですが、アリス様からの贈り物を、私が処分してよろしいのでしょうか」
「任せると言った」
「……承知しました」
男は箱を両手で持ったまま固まった。
捨てるわけにはいかない。
だが、虫の燻製だと言われた。
食べるべきなのか。
誰かに回すべきなのか。
それとも、贈答品として丁重に保管するべきなのか。
どの選択肢も、妙に間違っている気がした。
男の顔には、現場で半グレを回収する時よりも深い迷いが浮かんでいた。
ナギが肩を震わせる。
「めっちゃ困ってますやん」
「知らん」
「ボスから直々に渡された虫の燻製。なかなか重い贈り物っすねぇ」
「贈っていない。処分を任せた」
「それが一番困るんですわ」
黒服の男は、箱を抱え直した。
神妙な顔だった。
まるで危険な証拠品でも預かったかのように、背筋を伸ばす。
「……責任を持って、処分いたします」
その声には、妙な覚悟があった。
グレンは短く頷く。
「そうしろ」
ナギがぼそりと呟く。
「これ、食べる流れっすねぇ……」
黒服の男の肩が、ぴくりと揺れた。
グレンはそちらを見ない。
「聞こえているぞ」
「聞かせてます」
「悪趣味だな」
「ボスの嫌そうな顔が珍しかったもんで」
「黙れ」
ナギは楽しそうに笑った。
ほんの少しだけ、店内の空気が緩む。
けれど、グレンの視線はすぐに窓の外へ戻った。
「ナギ」
「はい、ボス」
「虫はどうでもいい。子どもの件を優先しろ」
「了解っす」
「調査班は駅周辺、商業区、港町方面へ。学院周辺は目立たんよう薄く見ろ」
「はいはい」
「子猫には知らせるな」
「黒猫はんには?」
「必要な分だけ返した」
「了解っす」
黒服の男は、虫の燻製らしき箱を抱えたまま、静かに店を出ていく。
その背中は、先ほど半グレを連れていった時よりも重そうだった。
扉が閉まり、店内に短い静けさが落ちる。
グレンは窓の外へ視線を向けたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「子どもに手を出す馬鹿でなければいいがな」
低く呟いた声には、先ほどまでの軽さはなかった。
グレンはカウンターの脇へ手を伸ばした。
そこに掛けてあった黒のコートを掴み、ばさりと肩へ羽織る。
続けて、慣れた手つきで拳銃ホルダーを腰へ装着した。
最後に手に取ったのは、深い赤色のマフラーだった。
グレンはそれを一度だけ静かに見つめ、それから首元へ巻く。
黒に統一された装いの中で、その赤だけがひどく鮮やかだった。
ナギはタブレットを片手に、拾い上げた情報を確認する。
「駅周辺、商業区、港町方面。今んとこ、どこも薄いっすね」
「薄いから拾う」
「まあ、そらそうですけど。表に出てへん話を拾うなら、人の出入りが多いとこからですかね」
「ああ」
グレンは煙草の箱を手に取りかけて、やめた。
その代わり、ほんの少しだけ口元を歪める。
「……情報を拾うなら、いい兎がいるな」
ナギが一瞬だけ目を細める。
それから、すぐに察したように笑った。
「あー……黒兎ですか」
「ああ」
「嫌がりますよ、あの子ら」
「関係ない」
「バイト中やと、余計に嫌がりますって」
「なら、なおさら行く」
「性格悪いっすねぇ」
ナギは笑いながらタブレットを閉じる。
「でも、ノアはんとユキはんが今おる店、ちょうど商業区の端ですね。配達もやってるし、人の流れを見るには悪くないです」
「借りもある」
「まだそれ使います?」
「返し終わるまでは使う」
「一生終わらんやつやないですか」
「知ったことか」
ナギは肩をすくめた。
「準備ええんですね、ボス」
「ああ」
黄金色の瞳が、静かに細められる。
もうそこに、昼の探偵事務所の空気はない。
グレンは扉の方へ向き直った。
「ナギ、出るぞ」
ナギは小さく口元を上げ、すぐに後へ続く。
「了解っす」
カウンターの上には、使い終えた灰皿だけが残っていた。
そして、CLOSEへ裏返された看板の向こうで、古いBARは静かに口を閉ざす。




