消えた白い鳥:出勤
アティの姿が見えなくなるまで、アッシュは窓辺に立っていた。
とはいえ、小さな子どもの姿はすぐに消えていく。
見えるのは、いつも通りの朝の道と、少しずつ動き始める町だけだった。
「……さて」
アッシュは小さく息を吐く。
腕の中では、クロが当然のような顔で撫でられている。
「クロ。僕も仕事に行かないと」
「にゃあ」
「引き止めてもだめだよ」
「にゃ」
「アティみたいに言うね」
クロは返事をするように、アッシュの手に頭を擦りつけた。
アッシュは苦笑しながら、もう一度だけクロを撫でる。
それから、リビングのテーブルを片付けた。
アティが慌てて食べた後の皿。
飲みかけだったスープの器。
端に置かれた、小さなパンくず。
その一つ一つを見るだけで、さっきまでここにいた娘の気配が残っている気がする。
アッシュは食器を流しへ運び、手早く洗った。
最後に、レイチェルの写真の前へもう一度視線を向ける。
海を背景に笑う、銀髪の女性。
「今日も、行ってくるね」
そう告げてから、アッシュは自室へ戻った。
乱れた長い金色の髪を整え、シャツに袖を通す。
ネクタイを締め、スーツの上着を羽織る。
瑠璃色の瞳が、鏡の中の自分を見返していた。
眠気はまだ少し残っている。
けれど、家を出る頃には、その顔から柔らかな父親の眠たさは薄れていた。
代わりにそこにいるのは、警察官としてのアッシュ・アウロラフラムだった。
鏡を見ながら、穏やかに笑う。
けれど、目の奥はよく見ている。
人の嘘も、隠しも、わずかな違和感も見逃さない。
アッシュは鞄を持ち、玄関へ向かう。
「クロ、留守番お願いね」
「にゃあ」
「テーブルに乗らないこと」
「にゃ」
「今の返事、信用していいのかな」
クロはしっぽを揺らしながら、すでにリビングの方へ戻っていった。
アッシュは小さく笑って、家の鍵を閉める。
朝の町は、アティが出ていった時より少しだけ賑やかになっていた。
近所の人が挨拶をする。
「アッシュさん、おはようございます」
「おはようございます」
「アティちゃん、今日も元気に行きましたね」
「ええ。今朝も元気いっぱいでした」
「アッシュさんはちゃんと寝てくださいね」
近所の人の言葉にアッシュは一瞬だけ笑顔を固めた。
「……アティから何か聞きましたか?」
「いえ、顔に出てますよ」
「それは困りましたね」
穏やかに笑いながら、アッシュは軽く頭を下げて歩き出す。
どうやら、娘だけでなく近所にも心配されているらしい。
それは少し気恥ずかしくて、少しだけありがたかった。
◇
署に着くと、すでに中は慌ただしかった。
電話の音。
キーボードを叩く音。
誰かが資料を持って廊下を駆ける音。
警察署の朝は、静かに始まることの方が少ない。
アッシュが刑事課の入口をくぐると、近くの若い職員が顔を上げた。
「おはようございます、アッシュさん」
「おはよう、ルーカス」
ルーカスは、まだ配属されて間もない若手の警察官だった。
真面目で覚えは早いが、少し慌てやすいところがある。
アッシュの隣の席では、クレアが資料を整理していた。
彼女はアッシュと同じ刑事課の同僚で、彼の扱いにかなり慣れている。
クレアはアッシュの顔を見るなり、目を細めた。
「……ちゃんと寝ました?」
「少しは」
「それ、寝てない人の答えですよね」
ルーカスが心配そうに覗き込む。
「またアティちゃんに怒られますよ」
「もう怒られたよ」
「あ、やっぱり」
その一言で、周囲の何人かが小さく笑った。
アッシュは席に鞄を置く。
机の端には、小さな写真立てがあった。
家族写真ではない。
アティが小学校に入学した日に撮った写真だ。
少し大きめの制服。
背中には新しいランドセル。
淡い金色の髪と、瑠璃色と翡翠色の瞳を輝かせて、少し誇らしげに笑っている。
その写真を見たルーカスが、しみじみと言った。
「本当にアティちゃん、本当に可愛いですよね」
「うん。可愛いよ」
即答だった。
迷いがなかった。
クレアが吹き出す。
「アッシュさん、その即答ほんと好きですね」
「事実だからね」
「娘さんの話になると、急に普通のお父さんになりますよね」
「普段も普通だと思うけど」
「いやぁ……」
クレアとルーカスが同時に微妙な顔をした。
アッシュは首を傾げる。
「何かな?」
「仕事中のアッシュさんは、普通のお父さんっていうより、笑顔で犯人の逃げ道を全部塞ぐ人なので」
「言い方がひどいね」
「間違ってはないです」
二人の言葉になんとも言えない顔してしまう。
そこへ、奥の席から上司の声が飛んできた。
「アウロラフラム」
「はい」
声をかけたのは、刑事課をまとめるノーマン課長だった。
厳しいが面倒見はよく、アッシュの能力を誰より評価している。
そして、誰よりも彼の昇格拒否に頭を抱えている人物でもある。
「昨日の報告書、確認した。修正は二箇所だ」
「分かりました」
「それと、今朝の顔色が悪い」
「そうですか?」
「悪い」
ノーマンは書類から目を上げ、じっとアッシュを見る。
「今日、無理はするな」
「通常業務の範囲で動きます」
「お前の通常業務は信用ならん」
刑事課の何人かが頷いた。
周囲と課長の反応にアッシュは苦笑する。
「そこまでですか?」
「そこまでだ」
ノーマンはため息をついた。
「子どもがいるなら、なおさら自分の体調管理をしろ。お前が倒れたら、一番困るのは娘さんだ」
アティと同じことを言われた。
アッシュはほんの少しだけ目を丸くする。
それから、困ったように笑った。
「……今朝も似たようなことを言われました」
「だろうな」
「友人に教わったらしいです」
「ああ、例のあの薬剤師の?」
「はい」
「まともなことを言うな」
「ええ。本当に」
アッシュは椅子に座り、机の上の書類を整理し始めた。
クレアが横から覗き込む。
「今日はアティちゃん、何か予定あるんですか?」
「普通に学校だよ」
「学校好きそうですよね」
「好きだね。特に図書館と、ユエ先生の授業が」
「へぇ。あそこの学院の理事長先生、すごく綺麗な人なんでしたっけ?」
「シエル先生だね」
ルーカスが思い出したように言う。
「シエル先生って、都市伝説みたいな噂ありますよね。どこにでもいるって」
アッシュは少しだけ笑った。
「うん。いるね」
「否定しないんですか」
「否定できる材料がないからね」
クレアが笑う。
「アッシュさんがそう言うと、本当にいそうで怖いんですよ」
「実際、困った時にはいるって娘からもよく聞くからね」
「それはもう都市伝説ですよ」
そんな会話をしながらも、アッシュの手は止まらない。
資料を確認し、付箋を貼り、昨日の記録を整える。
柔らかく会話しながら、仕事の処理は早い。
ルーカスはそれを見て、ぽつりと呟いた。
「仕事できるのに、なんで昇格断るんですかね……」
その声は小さかったが、アッシュには聞こえていた。
アッシュは書類から目を離さずに答える。
「今の働き方が合っているからだよ」
「でも、上に行った方が安定しません?」
「そうだね」
「じゃあ……」
「それに、上に行くと、アティと過ごす時間が減る」
その答えは、あまりにも自然だった。
迷いも、照れも、取り繕いもない。
ルーカスは言葉に詰まる。
アッシュはようやく顔を上げ、穏やかに笑った。
「アティはまだ小学生になったばかりだからね。朝、送り出して、夜、顔を見て、話を聞ける時間は今しかない。僕にとっては、それが一番大事なんだ」
刑事課が少しだけ静かになった。
クレアが肩をすくめる。
「こういう人です」
「なるほど……」
「昇格の話、毎年断ってます」
「毎年?」
「恒例行事です」
奥の席から、ノーマンが低く言う。
「悪いが、今年も話はする」
ノーマン言葉にアッシュはにこりと笑った。
「毎年ありがとうございます」
「礼を言うなら受けろ」
「それは別ですね」
「本当に腹が立つな、お前は」
ノーマンが額を押さえたところで、アッシュは少しだけ首を傾げた。
「それとも、もう一度お話ししますか?」
「何をだ」
「育児中職員の緊急対応集中を防ぐための職場環境改善案です」
刑事課の空気が、一瞬で変わった。
クレアが小声で呟く。
「うわぁ、出た……」
ルーカスが小さく聞き返す。
「出た? 何が出たんすか?」
「アッシュさんの【業務改善】」
「業務改善……?」
「ノーマン課長への合法的な反撃」
そうクレアに言われて、ルーカスはアッシュとノーマンの方へと視線を向けると、ノーマンが渋い顔をする。
「お前、まだその資料を持っているのか」
「更新しています」
「更新するな」
「必要ですから」
「それは昇格を断る口実だろう」
「職場のためです」
「娘さんとの時間を守るためだろう」
「両立しますね」
「開き直るな」
アッシュは穏やかに笑ったまま、机の引き出しへ手を伸ばしかけた。
ノーマンが即座に止める。
「出すな」
「ここに、最新版がありますよ」
「出すな」
「休日対応時の育児配慮、緊急案件の分散、属人化防止、引き継ぎ資料の標準化まで入っています」
「だから出すなと言っている」
クレアが笑いを堪えきれずに肩を震わせた。
「どんだけ娘さんとの時間守りたいんですか」
アッシュは、少しだけ真面目な顔で答えた。
「守りたいよ」
その言葉に、笑いが少しだけ落ち着く。
「でも、仕事を軽く見ているわけじゃない」
アッシュは机の上の書類へ視線を戻した。
「必要な時は出る。緊急なら、夜でも休日でも動く。警察官だからね。そこは譲らない」
声は穏やかだった。
けれど、そこにははっきりとした芯があった。
「ただ、誰かが無理をし続ける前提で回る職場は、いずれ誰かを潰す。僕が倒れたら、アティも困る。僕以外の誰かが倒れても、その家族が困る」
ノーマンは黙った。
アッシュは小さく笑う。
「だから、昇格とは別に、改善案は出します」
「結局出すのか」
「必要なので」
「本当に腹が立つな、お前は」
「よく言われます」
署内に、小さな笑いが戻った。
けれど、ルーカスは少しだけアッシュを見る目を変えていた。
この人は、娘のために仕事を捨てたいわけではない。
仕事を大事にしているからこそ、続けられる形にしたいのだ。
そう分かったからだ。
その時、内線が鳴った。
署内の空気が、すっと仕事のものへ戻る。
アッシュは受話器を取った。
「はい、刑事課。アウロラフラムです」
穏やかな声。
けれど、瑠璃色の瞳はすでに警察官のものになっていた。
「……はい。未成年の家出相談ですね。年齢は。最後に確認された場所はどちらですか?」
ルーカスが慌ててメモを取る。
アッシュは受話器を肩と耳で挟みながら、別の書類へ付箋を貼った。
「駅前だけではなく、バス停とコンビニの防犯カメラも確認してください。移動手段が電車とは限りません」
相手の返答を聞き、少しだけ目を伏せる。
「保護者の方には、『見つけたら叱る前に迎えに行く』と伝えてください。戻る場所が怖いと、子どもは余計に隠れます」
電話の向こうで、誰かが短く返事をした。
「はい。よろしくお願いします」
受話器を置く。
そのまま、アッシュはすぐ次の資料を手に取った。
「ルーカス」
「はい!」
「この件、港湾署に照会をお願いします」
ルーカスが資料を受け取って首を傾げる。
「港湾署ですか? これ、ただの輸入業者の登録確認ですよね?」
「表向きはね」
アッシュは穏やかに答えながら、資料の端を指で示した。
「代表者名は三件とも違う。でも、連絡先の末尾が同じ。倉庫の契約日も近い。登録住所は別々なのに、問い合わせ先は同じ地域に集中している」
「……ほんとだ」
「偶然ならいいけど、偶然じゃない時に困るからね」
「分かりました。港湾署に照会します」
「あと、国際組織犯罪対策班にも共有だけ入れておいてください。まだ大きな案件ではないけど、後から繋がると面倒だから」
「はい」
ルーカスが慌ただしく席へ戻る。
クレアが、隣の席から苦笑した。
「相変わらず、よく見てますね」
「書類が教えてくれるだけだよ」
「普通はそこまで喋ってくれませんって」
アッシュは小さく笑って、また別の報告書へ目を落とした。
その横顔は穏やかで、朝に娘へ起こされていた父親の顔とは少し違っている。
柔らかい。
けれど、隙がない。
ルーカスはその様子を見て、小さく呟いた。
「アティちゃんのことになると、ただのお父さんって感じなのに……仕事してると、やっぱりすごいですね」
クレアが頷く。
「娘さんのことは本当に大切にしてるけどね。仕事もできるから、結局みんな頼るのよ」
「昇格断ってるのに?」
「上に行かないだけで、責任から逃げる人じゃないから」
クレアは、少しだけ声を落とした。
「緊急の時は誰より早い。現場に出たら冷静だし、判断も速い。だから余計に、上も放っておけないんだと思う」
ルーカスは納得したように、アッシュの背中を見た。
娘を大事にする父親。
昇格を断り続ける少し変わった先輩。
それだけではない。
必要な時には、必ず動く警察官。
その時、また別の電話が鳴った。
アッシュは視線を資料から上げる。
「はい、刑事課。アウロラフラムです」
穏やかな声で応じながら、彼の手はすでに新しいメモ用紙へ伸びていた。
昼を少し過ぎても、刑事課の慌ただしさは落ち着かなかった。
朝から鳴り続けていた電話は、少し間隔を空けるようになったものの、机の上の書類は減るどころか増えている。
アッシュは、午前中に入った未成年の行方不明相談の資料を見下ろしていた。
このところ、同じような相談が少しずつ増えている。
大半は、家出や親子喧嘩。
友人宅にいたり、駅の近くで保護されたり、翌日には自分から帰ってくることも多い。
けれど、数が増えれば、その中に本当に危険なものが紛れ込む。
今回の子も、まだ事件とは断定できない。
けれど、簡単に家出で片づけるには、気になる点がいくつかあった。
子どもが多い。
足取りが途中で曖昧になる。
そして、目撃情報が少なすぎる。
最後に確認されたのは、駅前の大通り。
防犯カメラには、本人らしき影が映っていた。
けれど、その後の動きがはっきりしない。
バスに乗った記録はない。
電車の改札を通った形跡もない。
近くのコンビニにも、商店街にも、確かな目撃情報はない。
まるで、町の隙間に入り込んでしまったように。
「……偶然、かな」
アッシュは小さく呟いた。
「何か気になるんですか?」
隣の席で資料を確認していたクレアが、顔を上げた。
「まだ、気になるだけだよ」
「アッシュさんの【気になるだけ】って、だいたい後で何かありますよね」
「それは困るね」
「困ってる顔じゃないです」
アッシュは苦笑する。
クレアは机の上の資料へ視線を落とし、少しだけ表情を曇らせた。
「未成年の相談、最近多いですもんね」
「うん」
「それも多くがアティちゃんも同じくらいの年ですし……心配になりますよね」
その名前に、アッシュの指が一瞬だけ止まった。
アティ。
今朝、元気に家を飛び出していった娘。
淡い金色の髪を揺らして、近所の人たちに挨拶しながら登校していった子。
アッシュは静かに息を吐いた。
「心配だよ」
隠すつもりはなかった。
「でも、それだけで動いているわけじゃない。アティと同じくらいの子が消えているなら、どの子も誰かにとって大事な子だからね」
クレアは少しだけ目を細める。
「……そうですね」
「だから、見落としたくない」
父親としての不安はある。
けれど、それだけではない。
警察官として、消えた子どもを【よくある家出】の中に埋もれさせるわけにはいかなかった。
そこへ、ルーカスが別の資料を手に戻ってくる。
「アッシュさん、追加の確認です。ここ二週間の未成年行方不明相談、駅周辺に寄っているものがいくつかあります」
「件数は?」
「まだ少ないです。ただ、年齢層が低めです。十代前半から、小学生くらいまで。多くが低学年の子が多いみたいです」
クレアの表情がわずかに固くなる。
「低学年?」
「はい。ただ、保護されている子もいます。件数の割には目撃も少ないので、関連があるかはまだ……」
「うん。決めつけるには早いね」
アッシュは資料を受け取り、目を通した。
どの件も、決定的ではない。
保護された子もいる。
自分から帰った子もいる。
家出として処理できるものもある。
けれど、目撃情報の薄さだけが引っかかる。
子どもが一人で歩いていれば、誰かの記憶に残りそうなものだ。
それなのに、どの相談も途中から霧がかかったように曖昧になる。
「ルーカス」
「はい」
「駅周辺の聞き込み範囲を少し広げて。店だけじゃなく、朝夕に同じ場所にいる人にも聞いてみてほしい。清掃員、配達員、屋台、バス停近くの常連。毎日その場所を見る人の方が、変化に気づいていることがある」
「分かりました」
「クレアは、保護された子たちの証言をもう一度確認して。本人たちが怖がって話していないことがあるかもしれない」
「了解」
指示を出した後、アッシュは椅子の背にもたれた。
まだ、証拠はない。
けれど、嫌な感じがする。
こういう時、警察の資料だけでは見えないものがある。
書類には残らない、人の流れ。
町の空気。
普段なら誰かが話すはずなのに、何故か話題にならない違和感。
それを拾うのが上手い人物を、アッシュはひとり知っている。
アッシュは机の端に置いたスマホへ視線を向けた。
連絡先を開けば、すぐに繋がる。
そこにある名前は、グレン・ヴェスペディウス。
ヴェスペディウス探偵事務所の責任者。
そして、アッシュの幼なじみだった。
口は悪い。
態度も柔らかくはない。
必要だと思えば、少し強引な方法も取る。
昔からもうひとつ、分からないこともある。
男なのか。
女なのか。
幼なじみであるアッシュでさえ、いまだによく分かっていない。
本人に聞いても、だいたい返ってくるのは冷たい目と、
『どうでもいいだろ』
の一言だけだった。
だから、深く聞かないことにしている。
性別よりも、グレンがグレンであることの方が、ずっと分かりやすかったからだ。
そして何より、子どもが絡む件でふざける人物ではないことを、アッシュは知っていた。
だからこそ、頼れる。
そして、だからこそ、簡単には頼りたくなかった。
警察官として、民間の探偵に安易に情報を流すべきではない。
それは分かっている。
だが、彼はまた別の理由もあってたまに悩む時がある。
それでも、子どもが絡んでいるかもしれない。
時間が経てば経つほど、見つけるのは難しくなる。
「……聞くだけなら、ね」
アッシュは小さく呟いた。
その声に、クレアがちらりと目を向ける。
「誰にですか?」
アッシュはスマホを伏せた。
「昔からの知り合いだよ」
「知り合い?」
「探偵をしているんだ。色々と物知りでね」
「へぇ、どんな人ですか?」
アッシュは少しだけ考えた。
そして、困ったように笑う。
「頼りがいのある人だよ。少し口は悪いけどね」
「アッシュさんが頼るくらいなら、相当ですね」
「うん。腕は確かだよ」
クレアは、アッシュの手元にあるスマホを見る。
「でも、今その人に連絡するか迷ってるんですね」
「警察官としては、少しね」
クレアはそれ以上、軽く踏み込まなかった。
代わりに、机の上の資料へ視線を落とす。
「でも、子どもが絡んでるかもしれないなら、使える手は多い方がいいと思います」
アッシュは少しだけ目を伏せた。
「そうだね」
アッシュはもう一度、スマホへ視線を落とした。
まだ、かけてはいない。
けれど、心の中ではもう名前が浮かんでいた。
グレンなら、この違和感を別の言葉で説明するかもしれない。
同じ町の、別の顔を見ている彼なら。




