表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/3

消えた白い鳥:出勤

 アティの姿が見えなくなるまで、アッシュは窓辺に立っていた。


 とはいえ、小さな子どもの姿はすぐに消えていく。


 見えるのは、いつも通りの朝の道と、少しずつ動き始める町だけだった。



「……さて」



 アッシュは小さく息を吐く。


 腕の中では、クロが当然のような顔で撫でられている。



「クロ。僕も仕事に行かないと」


「にゃあ」


「引き止めてもだめだよ」


「にゃ」


「アティみたいに言うね」



 クロは返事をするように、アッシュの手に頭を擦りつけた。


 アッシュは苦笑しながら、もう一度だけクロを撫でる。


 それから、リビングのテーブルを片付けた。


 アティが慌てて食べた後の皿。

 飲みかけだったスープの器。

 端に置かれた、小さなパンくず。


 その一つ一つを見るだけで、さっきまでここにいた娘の気配が残っている気がする。


 アッシュは食器を流しへ運び、手早く洗った。


 最後に、レイチェルの写真の前へもう一度視線を向ける。


 海を背景に笑う、銀髪の女性。



「今日も、行ってくるね」



 そう告げてから、アッシュは自室へ戻った。


 乱れた長い金色の髪を整え、シャツに袖を通す。

 ネクタイを締め、スーツの上着を羽織る。


 瑠璃色の瞳が、鏡の中の自分を見返していた。


 眠気はまだ少し残っている。

 けれど、家を出る頃には、その顔から柔らかな父親の眠たさは薄れていた。


 代わりにそこにいるのは、警察官としてのアッシュ・アウロラフラムだった。


 鏡を見ながら、穏やかに笑う。


 けれど、目の奥はよく見ている。

 人の嘘も、隠しも、わずかな違和感も見逃さない。


 アッシュは鞄を持ち、玄関へ向かう。



「クロ、留守番お願いね」


「にゃあ」


「テーブルに乗らないこと」


「にゃ」


「今の返事、信用していいのかな」



 クロはしっぽを揺らしながら、すでにリビングの方へ戻っていった。


 アッシュは小さく笑って、家の鍵を閉める。


 朝の町は、アティが出ていった時より少しだけ賑やかになっていた。


 近所の人が挨拶をする。



「アッシュさん、おはようございます」


「おはようございます」


「アティちゃん、今日も元気に行きましたね」


「ええ。今朝も元気いっぱいでした」


「アッシュさんはちゃんと寝てくださいね」



 近所の人の言葉にアッシュは一瞬だけ笑顔を固めた。



「……アティから何か聞きましたか?」


「いえ、顔に出てますよ」


「それは困りましたね」



 穏やかに笑いながら、アッシュは軽く頭を下げて歩き出す。


 どうやら、娘だけでなく近所にも心配されているらしい。


 それは少し気恥ずかしくて、少しだけありがたかった。



 ◇



 署に着くと、すでに中は慌ただしかった。


 電話の音。

 キーボードを叩く音。

 誰かが資料を持って廊下を駆ける音。


 警察署の朝は、静かに始まることの方が少ない。


 アッシュが刑事課の入口をくぐると、近くの若い職員が顔を上げた。



「おはようございます、アッシュさん」


「おはよう、ルーカス」



 ルーカスは、まだ配属されて間もない若手の警察官だった。

 真面目で覚えは早いが、少し慌てやすいところがある。


 アッシュの隣の席では、クレアが資料を整理していた。

 彼女はアッシュと同じ刑事課の同僚で、彼の扱いにかなり慣れている。


 クレアはアッシュの顔を見るなり、目を細めた。



「……ちゃんと寝ました?」


「少しは」


「それ、寝てない人の答えですよね」



 ルーカスが心配そうに覗き込む。



「またアティちゃんに怒られますよ」


「もう怒られたよ」


「あ、やっぱり」



 その一言で、周囲の何人かが小さく笑った。


 アッシュは席に鞄を置く。


 机の端には、小さな写真立てがあった。


 家族写真ではない。

 アティが小学校に入学した日に撮った写真だ。


 少し大きめの制服。

 背中には新しいランドセル。

 淡い金色の髪と、瑠璃色と翡翠色の瞳を輝かせて、少し誇らしげに笑っている。


 その写真を見たルーカスが、しみじみと言った。



「本当にアティちゃん、本当に可愛いですよね」


「うん。可愛いよ」



 即答だった。


 迷いがなかった。


 クレアが吹き出す。



「アッシュさん、その即答ほんと好きですね」


「事実だからね」


「娘さんの話になると、急に普通のお父さんになりますよね」


「普段も普通だと思うけど」


「いやぁ……」



 クレアとルーカスが同時に微妙な顔をした。


 アッシュは首を傾げる。



「何かな?」


「仕事中のアッシュさんは、普通のお父さんっていうより、笑顔で犯人の逃げ道を全部塞ぐ人なので」


「言い方がひどいね」


「間違ってはないです」



 二人の言葉になんとも言えない顔してしまう。


 そこへ、奥の席から上司の声が飛んできた。



「アウロラフラム」


「はい」



 声をかけたのは、刑事課をまとめるノーマン課長だった。


 厳しいが面倒見はよく、アッシュの能力を誰より評価している。

 そして、誰よりも彼の昇格拒否に頭を抱えている人物でもある。



「昨日の報告書、確認した。修正は二箇所だ」


「分かりました」


「それと、今朝の顔色が悪い」


「そうですか?」


「悪い」



 ノーマンは書類から目を上げ、じっとアッシュを見る。



「今日、無理はするな」


「通常業務の範囲で動きます」


「お前の通常業務は信用ならん」



 刑事課の何人かが頷いた。


 周囲と課長の反応にアッシュは苦笑する。



「そこまでですか?」


「そこまでだ」



 ノーマンはため息をついた。



「子どもがいるなら、なおさら自分の体調管理をしろ。お前が倒れたら、一番困るのは娘さんだ」



 アティと同じことを言われた。


 アッシュはほんの少しだけ目を丸くする。


 それから、困ったように笑った。



「……今朝も似たようなことを言われました」


「だろうな」


「友人に教わったらしいです」


「ああ、例のあの薬剤師の?」


「はい」


「まともなことを言うな」


「ええ。本当に」



 アッシュは椅子に座り、机の上の書類を整理し始めた。


 クレアが横から覗き込む。



「今日はアティちゃん、何か予定あるんですか?」


「普通に学校だよ」


「学校好きそうですよね」


「好きだね。特に図書館と、ユエ先生の授業が」


「へぇ。あそこの学院の理事長先生、すごく綺麗な人なんでしたっけ?」


「シエル先生だね」



 ルーカスが思い出したように言う。



「シエル先生って、都市伝説みたいな噂ありますよね。どこにでもいるって」



 アッシュは少しだけ笑った。



「うん。いるね」


「否定しないんですか」


「否定できる材料がないからね」



 クレアが笑う。



「アッシュさんがそう言うと、本当にいそうで怖いんですよ」


「実際、困った時にはいるって娘からもよく聞くからね」


「それはもう都市伝説ですよ」



 そんな会話をしながらも、アッシュの手は止まらない。


 資料を確認し、付箋を貼り、昨日の記録を整える。

 柔らかく会話しながら、仕事の処理は早い。


 ルーカスはそれを見て、ぽつりと呟いた。



「仕事できるのに、なんで昇格断るんですかね……」



 その声は小さかったが、アッシュには聞こえていた。


 アッシュは書類から目を離さずに答える。



「今の働き方が合っているからだよ」


「でも、上に行った方が安定しません?」


「そうだね」


「じゃあ……」


「それに、上に行くと、アティと過ごす時間が減る」



 その答えは、あまりにも自然だった。


 迷いも、照れも、取り繕いもない。


 ルーカスは言葉に詰まる。


 アッシュはようやく顔を上げ、穏やかに笑った。



「アティはまだ小学生になったばかりだからね。朝、送り出して、夜、顔を見て、話を聞ける時間は今しかない。僕にとっては、それが一番大事なんだ」



 刑事課が少しだけ静かになった。


 クレアが肩をすくめる。



「こういう人です」


「なるほど……」


「昇格の話、毎年断ってます」


「毎年?」


「恒例行事です」



 奥の席から、ノーマンが低く言う。



「悪いが、今年も話はする」



 ノーマン言葉にアッシュはにこりと笑った。



「毎年ありがとうございます」


「礼を言うなら受けろ」


「それは別ですね」


「本当に腹が立つな、お前は」



 ノーマンが額を押さえたところで、アッシュは少しだけ首を傾げた。



「それとも、もう一度お話ししますか?」


「何をだ」


「育児中職員の緊急対応集中を防ぐための職場環境改善案です」



 刑事課の空気が、一瞬で変わった。


 クレアが小声で呟く。



「うわぁ、出た……」



 ルーカスが小さく聞き返す。



「出た? 何が出たんすか?」


「アッシュさんの【業務改善】」


「業務改善……?」


「ノーマン課長への合法的な反撃」



 そうクレアに言われて、ルーカスはアッシュとノーマンの方へと視線を向けると、ノーマンが渋い顔をする。



「お前、まだその資料を持っているのか」


「更新しています」


「更新するな」


「必要ですから」


「それは昇格を断る口実だろう」


「職場のためです」


「娘さんとの時間を守るためだろう」


「両立しますね」


「開き直るな」



 アッシュは穏やかに笑ったまま、机の引き出しへ手を伸ばしかけた。


 ノーマンが即座に止める。



「出すな」


「ここに、最新版がありますよ」


「出すな」


「休日対応時の育児配慮、緊急案件の分散、属人化防止、引き継ぎ資料の標準化まで入っています」


「だから出すなと言っている」



 クレアが笑いを堪えきれずに肩を震わせた。



「どんだけ娘さんとの時間守りたいんですか」



 アッシュは、少しだけ真面目な顔で答えた。



「守りたいよ」



 その言葉に、笑いが少しだけ落ち着く。



「でも、仕事を軽く見ているわけじゃない」



 アッシュは机の上の書類へ視線を戻した。



「必要な時は出る。緊急なら、夜でも休日でも動く。警察官だからね。そこは譲らない」



 声は穏やかだった。


 けれど、そこにははっきりとした芯があった。



「ただ、誰かが無理をし続ける前提で回る職場は、いずれ誰かを潰す。僕が倒れたら、アティも困る。僕以外の誰かが倒れても、その家族が困る」



 ノーマンは黙った。


 アッシュは小さく笑う。



「だから、昇格とは別に、改善案は出します」


「結局出すのか」


「必要なので」


「本当に腹が立つな、お前は」


「よく言われます」



 署内に、小さな笑いが戻った。


 けれど、ルーカスは少しだけアッシュを見る目を変えていた。


 この人は、娘のために仕事を捨てたいわけではない。

 仕事を大事にしているからこそ、続けられる形にしたいのだ。


 そう分かったからだ。


 その時、内線が鳴った。


 署内の空気が、すっと仕事のものへ戻る。


 アッシュは受話器を取った。



「はい、刑事課。アウロラフラムです」



 穏やかな声。


 けれど、瑠璃色の瞳はすでに警察官のものになっていた。



「……はい。未成年の家出相談ですね。年齢は。最後に確認された場所はどちらですか?」



 ルーカスが慌ててメモを取る。


 アッシュは受話器を肩と耳で挟みながら、別の書類へ付箋を貼った。



「駅前だけではなく、バス停とコンビニの防犯カメラも確認してください。移動手段が電車とは限りません」



 相手の返答を聞き、少しだけ目を伏せる。



「保護者の方には、『見つけたら叱る前に迎えに行く』と伝えてください。戻る場所が怖いと、子どもは余計に隠れます」



 電話の向こうで、誰かが短く返事をした。



「はい。よろしくお願いします」



 受話器を置く。


 そのまま、アッシュはすぐ次の資料を手に取った。



「ルーカス」


「はい!」


「この件、港湾署に照会をお願いします」



 ルーカスが資料を受け取って首を傾げる。



「港湾署ですか? これ、ただの輸入業者の登録確認ですよね?」


「表向きはね」



 アッシュは穏やかに答えながら、資料の端を指で示した。



「代表者名は三件とも違う。でも、連絡先の末尾が同じ。倉庫の契約日も近い。登録住所は別々なのに、問い合わせ先は同じ地域に集中している」


「……ほんとだ」


「偶然ならいいけど、偶然じゃない時に困るからね」


「分かりました。港湾署に照会します」


「あと、国際組織犯罪対策班にも共有だけ入れておいてください。まだ大きな案件ではないけど、後から繋がると面倒だから」


「はい」



 ルーカスが慌ただしく席へ戻る。


 クレアが、隣の席から苦笑した。



「相変わらず、よく見てますね」


「書類が教えてくれるだけだよ」


「普通はそこまで喋ってくれませんって」



 アッシュは小さく笑って、また別の報告書へ目を落とした。


 その横顔は穏やかで、朝に娘へ起こされていた父親の顔とは少し違っている。


 柔らかい。

 けれど、隙がない。


 ルーカスはその様子を見て、小さく呟いた。



「アティちゃんのことになると、ただのお父さんって感じなのに……仕事してると、やっぱりすごいですね」



 クレアが頷く。



「娘さんのことは本当に大切にしてるけどね。仕事もできるから、結局みんな頼るのよ」


「昇格断ってるのに?」


「上に行かないだけで、責任から逃げる人じゃないから」



 クレアは、少しだけ声を落とした。



「緊急の時は誰より早い。現場に出たら冷静だし、判断も速い。だから余計に、上も放っておけないんだと思う」



 ルーカスは納得したように、アッシュの背中を見た。


 娘を大事にする父親。

 昇格を断り続ける少し変わった先輩。


 それだけではない。


 必要な時には、必ず動く警察官。


 その時、また別の電話が鳴った。


 アッシュは視線を資料から上げる。



「はい、刑事課。アウロラフラムです」



 穏やかな声で応じながら、彼の手はすでに新しいメモ用紙へ伸びていた。


 昼を少し過ぎても、刑事課の慌ただしさは落ち着かなかった。


 朝から鳴り続けていた電話は、少し間隔を空けるようになったものの、机の上の書類は減るどころか増えている。


 アッシュは、午前中に入った未成年の行方不明相談の資料を見下ろしていた。


 このところ、同じような相談が少しずつ増えている。


 大半は、家出や親子喧嘩。

 友人宅にいたり、駅の近くで保護されたり、翌日には自分から帰ってくることも多い。


 けれど、数が増えれば、その中に本当に危険なものが紛れ込む。


 今回の子も、まだ事件とは断定できない。

 けれど、簡単に家出で片づけるには、気になる点がいくつかあった。


 子どもが多い。


 足取りが途中で曖昧になる。


 そして、目撃情報が少なすぎる。


 最後に確認されたのは、駅前の大通り。

 防犯カメラには、本人らしき影が映っていた。


 けれど、その後の動きがはっきりしない。


 バスに乗った記録はない。

 電車の改札を通った形跡もない。

 近くのコンビニにも、商店街にも、確かな目撃情報はない。


 まるで、町の隙間に入り込んでしまったように。



「……偶然、かな」



 アッシュは小さく呟いた。



「何か気になるんですか?」



 隣の席で資料を確認していたクレアが、顔を上げた。



「まだ、気になるだけだよ」


「アッシュさんの【気になるだけ】って、だいたい後で何かありますよね」


「それは困るね」


「困ってる顔じゃないです」



 アッシュは苦笑する。


 クレアは机の上の資料へ視線を落とし、少しだけ表情を曇らせた。



「未成年の相談、最近多いですもんね」


「うん」


「それも多くがアティちゃんも同じくらいの年ですし……心配になりますよね」



 その名前に、アッシュの指が一瞬だけ止まった。


 アティ。


 今朝、元気に家を飛び出していった娘。

 淡い金色の髪を揺らして、近所の人たちに挨拶しながら登校していった子。


 アッシュは静かに息を吐いた。



「心配だよ」



 隠すつもりはなかった。



「でも、それだけで動いているわけじゃない。アティと同じくらいの子が消えているなら、どの子も誰かにとって大事な子だからね」



 クレアは少しだけ目を細める。



「……そうですね」


「だから、見落としたくない」



 父親としての不安はある。


 けれど、それだけではない。


 警察官として、消えた子どもを【よくある家出】の中に埋もれさせるわけにはいかなかった。


 そこへ、ルーカスが別の資料を手に戻ってくる。



「アッシュさん、追加の確認です。ここ二週間の未成年行方不明相談、駅周辺に寄っているものがいくつかあります」


「件数は?」


「まだ少ないです。ただ、年齢層が低めです。十代前半から、小学生くらいまで。多くが低学年の子が多いみたいです」



 クレアの表情がわずかに固くなる。



「低学年?」


「はい。ただ、保護されている子もいます。件数の割には目撃も少ないので、関連があるかはまだ……」


「うん。決めつけるには早いね」



 アッシュは資料を受け取り、目を通した。


 どの件も、決定的ではない。


 保護された子もいる。

 自分から帰った子もいる。

 家出として処理できるものもある。


 けれど、目撃情報の薄さだけが引っかかる。


 子どもが一人で歩いていれば、誰かの記憶に残りそうなものだ。

 それなのに、どの相談も途中から霧がかかったように曖昧になる。



「ルーカス」


「はい」


「駅周辺の聞き込み範囲を少し広げて。店だけじゃなく、朝夕に同じ場所にいる人にも聞いてみてほしい。清掃員、配達員、屋台、バス停近くの常連。毎日その場所を見る人の方が、変化に気づいていることがある」


「分かりました」


「クレアは、保護された子たちの証言をもう一度確認して。本人たちが怖がって話していないことがあるかもしれない」


「了解」



 指示を出した後、アッシュは椅子の背にもたれた。


 まだ、証拠はない。


 けれど、嫌な感じがする。


 こういう時、警察の資料だけでは見えないものがある。


 書類には残らない、人の流れ。

 町の空気。

 普段なら誰かが話すはずなのに、何故か話題にならない違和感。


 それを拾うのが上手い人物を、アッシュはひとり知っている。


 アッシュは机の端に置いたスマホへ視線を向けた。


 連絡先を開けば、すぐに繋がる。


 そこにある名前は、グレン・ヴェスペディウス。


 ヴェスペディウス探偵事務所の責任者。

 そして、アッシュの幼なじみだった。


 口は悪い。

 態度も柔らかくはない。

 必要だと思えば、少し強引な方法も取る。


 昔からもうひとつ、分からないこともある。


 男なのか。

 女なのか。


 幼なじみであるアッシュでさえ、いまだによく分かっていない。


 本人に聞いても、だいたい返ってくるのは冷たい目と、



『どうでもいいだろ』



 の一言だけだった。


 だから、深く聞かないことにしている。


 性別よりも、グレンがグレンであることの方が、ずっと分かりやすかったからだ。


 そして何より、子どもが絡む件でふざける人物ではないことを、アッシュは知っていた。


 だからこそ、頼れる。


 そして、だからこそ、簡単には頼りたくなかった。


 警察官として、民間の探偵に安易に情報を流すべきではない。


 それは分かっている。


 だが、彼はまた別の理由もあってたまに悩む時がある。


 それでも、子どもが絡んでいるかもしれない。


 時間が経てば経つほど、見つけるのは難しくなる。



「……聞くだけなら、ね」



 アッシュは小さく呟いた。


 その声に、クレアがちらりと目を向ける。



「誰にですか?」



 アッシュはスマホを伏せた。



「昔からの知り合いだよ」


「知り合い?」


「探偵をしているんだ。色々と物知りでね」


「へぇ、どんな人ですか?」



 アッシュは少しだけ考えた。


 そして、困ったように笑う。



「頼りがいのある人だよ。少し口は悪いけどね」


「アッシュさんが頼るくらいなら、相当ですね」


「うん。腕は確かだよ」



 クレアは、アッシュの手元にあるスマホを見る。



「でも、今その人に連絡するか迷ってるんですね」


「警察官としては、少しね」



 クレアはそれ以上、軽く踏み込まなかった。


 代わりに、机の上の資料へ視線を落とす。



「でも、子どもが絡んでるかもしれないなら、使える手は多い方がいいと思います」



 アッシュは少しだけ目を伏せた。



「そうだね」



 アッシュはもう一度、スマホへ視線を落とした。


 まだ、かけてはいない。


 けれど、心の中ではもう名前が浮かんでいた。


 グレンなら、この違和感を別の言葉で説明するかもしれない。


 同じ町の、別の顔を見ている彼なら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ