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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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1/3

消えた白い鳥:夢と朝

 夢を見ていた。


 そこは、どこまでも澄んだ光に満ちた場所だった。


 空なのか、海なのか、世界の果てなのか。

 少女には分からない。


 ただ、そこはとても懐かしかった。


 胸の奥が、少しだけ温かくなるような。

 けれど、目を離したら二度と辿り着けなくなるような。


 そんな、不思議な場所だった。


 少女の前には、何人かの人影が立っていた。


 白く輝く髪の女の人。

 優しく笑っている、よく知っている人。


 紫色の髪をした人。

 どこか不機嫌そうなのに、目だけは静かにこちらを見ている人。


 他にも、知っている気がする人たちがいた。


 名前を呼びたい。


 けれど、声が出ない。



 少女は一歩、前へ出る。



 その奥に、誰よりもよく知っている人がいた。


 蒼い炎を纏った人。


 炎なのに、怖くなかった。

 熱いはずなのに、痛くなかった。


 その人は、少女を見ていた。


 とても優しい目で。

 けれど、どこか泣きそうにも見える顔で。


 少女は、その人を知っている。


 誰よりも知っている。


 胸がぎゅっと苦しくなる。


 その人が、ゆっくりと手を差し伸べた。


 少女も、手を伸ばす。


 あと少し。


 指先が触れそうになった、その瞬間。



 ◇ ◇ ◇



 ——ジリリリリリリリリリリリッ!!


 けたたましいアラームの音が、部屋いっぱいに響いた。



「……んん……」



 少女は布団の中で小さく眉を寄せた。


 まぶたの裏に残っていた光が、朝の日差しに溶けていく。

 夢の中にいた人たちの姿も、蒼い炎も、指先の温度も、少しずつ遠くなっていった。


 何か、大事な夢を見ていた気がする。


 けれど、起きた途端に、ふわふわと形を失ってしまう。


 そのすぐ横で、黒い毛玉がもぞりと動いた。



「にゃ……」



 黒猫のクロだった。


 アティのベッドの端で丸くなって眠っていたクロは、突然のアラームに驚いたのか、びくっと身体を跳ねさせた。


 そして次の瞬間。


 ころん。


 ベッドの端から、見事に床へ落ちた。



「……クロ?」



 アティは眠たい目をこすりながら、床を覗き込む。


 黒猫は何事もなかったように起き上がり、しっぽをぴんと立てて、アティを見上げた。



「にゃあ」


「今、落ちたよね?」


「にゃ」


「えへへ、落ちてないみたいな顔してる」



 クロは返事をするように一度だけ鳴くと、何食わぬ顔で部屋の扉の方へ歩き出した。


 アティは小さく笑って、手を伸ばしてアラームを止める。


 部屋が、急に静かになる。



「……朝」



 窓の外は明るい。


 アティはもそもそと布団から出て、床に降りた。


 足元では、クロがしっぽを揺らしながら待っている。



「はいはい。朝ご飯だよね」


「にゃあ」


「お父さんより先に起きるの、クロの方が偉いね」



 そう言うと、クロは当然だと言いたげに胸を張った。


 アティはくすっと笑い、パジャマのまま洗面所へ向かう。


 冷たい水で顔を洗った。


 眠気が少しだけ遠のいて、鏡の中の自分と目が合う。


 淡い金色の髪。

 そして、左右で色の違う瞳。


 片方は、深い瑠璃色。

 もう片方は、柔らかな翡翠色。


 アティは鏡の中の自分を見つめ、それからにこっと笑った。


 この瞳が、アティは好きだった。


 瑠璃色は、大好きな父と同じ色。

 翡翠色は、大好きな母と同じ色。


 父と母の子どもである、大切な証。


 だから、鏡を見るたびに少しだけ嬉しくなる。

 自分はちゃんと、二人から生まれた子なのだと分かるから。



「今日も大丈夫」



 小さくそう言って、アティは頬を軽く叩いた。


 それから、部屋へ戻る。


 パジャマを脱ぎ、制服に袖を通した。


 小学生になったばかりのアティは、同じ年頃の子より少しだけ落ち着いている。

 けれど、好奇心は人一倍強かった。


 知らない言葉。

 知らない国。

 知らない文化。

 知らない物語。


 そういうものを見つけるたび、胸の奥がきらきらする。


 アティが通っているのは、セレスティア総合学院。

 幼稚園から大学まである、大きな一貫校だ。


 勉強だけでなく、芸術も、スポーツも、研究も、世界の文化も学べる。

 子どもたちが自分の好きなものを見つけられるように作られた、広くて明るい学校。


 アティはその学校が好きだった。


 図書館は大きいし、ユエ先生の授業は面白い。

 理事長先生はとても綺麗で、何故か困った時にいつも近くにいる。


 最初は少し不思議だったけれど、今では学院ではそれが普通になっていた。


 最近のお気に入りは、机の上に置いた旅ノートだ。


 表紙には、【アリスお姉ちゃんの旅ノート】、とアティの字で書いてある。

 世界中を歩き回る大好きな人から聞いた国の言葉や食べ物を、忘れないように書き留めるためのノートだった。


 アティは旅ノートを一度だけ撫でてから、部屋を出た。


 部屋の外では、クロが待ちくたびれたように座っていた。



「にゃあ」


「分かってるってば」



 アティは階段をぱたぱたと降り、台所のあるリビングへと向かう。


 リビングに入ると庭の見える窓のすぐにある棚の上、そこに小さな写真立てが置かれていた。


 銀色の髪をした女性が、写真の中で優しく笑っている。

 翡翠色の瞳は穏やかで、見ているだけで胸の奥があたたかくなる。


 レイチェル。


 アティの母だ。


 病気で亡くなってから、もうしばらく経つ。

 けれど、この家の中から母の気配が消えたことはない。


 父は、週に一度、写真立ての写真を変える。


 笑っている写真。

 料理をしている写真。

 アティを抱いている写真。

 父と並んで、少し照れたようにしている写真。


 そして今週の写真は、海を背景に麦わら帽子をつけた母が撮られたものだった。


 風に銀色の髪を揺らしながら、母はとても優しく笑っている。

 その後ろには、青い海がどこまでも広がっていた。


 アティは写真の前に立ち、そっと両手を合わせた。



「お母さん、おはようございます」



 小さな声で言う。



「今日も、ちゃんと学校に行ってきます。お父さんも、ちゃんと起こします」



 写真の中のレイチェルは、変わらず優しく笑っている。


 アティは少しだけ微笑んだ。



「見ててね」



 そう言ったアティは頭を下げたあと台所へ向かう。


 まずは、クロの器を取った。


 黒猫は足元でそわそわと歩き回りながら、アティの動きをじっと見ている。



「そんなに見てても、量は増えません」


「にゃ」


「鳴いても増えません」



 アティはきちんと量を測って、クロのご飯を器に入れた。


 クロは待ってましたと言わんばかりに顔を近づける。



「はい、どうぞ」



 クロがカリカリと食べ始める。


 それを見届けてから、アティは冷蔵庫を開けた。


 卵。

 食パン。

 サラダ。

 昨日のスープ。



「今日は簡単でいいよね」



 ひとりでそう呟き、今度は自分と父の朝食の準備を始めた。


 小さな手でフライパンを温める。

 卵を割る。

 が、少しだけ殻が入ったので、慌てて箸で取る。



「……セーフ」



 こんがり焼いた食パンを皿に乗せ、温め直したスープを器によそう。

 サラダを小皿に分け、テーブルに並べる。


 二人分の朝食が揃う頃には、アティの顔はすっかり得意げになっていた。


 この家には、アティと父、それから黒猫のクロで暮らしている。


 父の名前は、アッシュ・アウロラフラム。


 長い金色の髪と、深い瑠璃色の瞳を持つ人だ。

 穏やかに笑う顔は優しくて、近所の人にも、アティの友達にも、学校の先生にも評判がいい。


 仕事は警察官。


 制服を着る日もあれば、スーツで出かける日、私服で出かける日もある。

 難しい事件や、急な呼び出しで帰りが遅くなることも多い。


 けれど、どれだけ疲れていても、アティの話だけは必ず聞いてくれる。


 今日学校で何があったか。

 ユエ先生が何を教えてくれたか。

 アリスお姉ちゃんから聞いた言葉が本当に合っているか。

 旅ノートに書いた文字が間違っていないか。


 アッシュは眠そうな日でも、ちゃんと隣に座って見てくれる。


 だからアティは、そんな父を少しでも支えたかった。


 母はいない。

 だからこそ、父をひとりにしたくなかった。


 けれど、父はいつも言う。



『アティが元気でいることが、お父さんにとっては大事なんだよ』



 その言葉は嬉しい。

 でも、やっぱり手伝いたい。


 だって、父はいつも優しくて、少し無理をする人だから。



「よし!」



 準備完了。


 あとは、一番大事な仕事が残っている。


 アティは階段を見上げた。


 二階の奥の部屋。

 そこにいるのは、徹夜明けの父だった。


 昨日、アッシュは遅くまで仕事をしていた。

 寝る前には『すぐ寝るよ』と言っていたけれど、たぶん寝ていない。


 だって、机の明かりがずっとついていたから。


 アティは頬を膨らませる。



「もう……」



 そして、階段をぱたぱたと駆け上がった。


 奥の部屋の前で、一度だけ深呼吸する。


 それから、勢いよく扉を開けた。



「おとーさぁーーーん! おはよう!」



 返事はない。


 ベッドの中で、何かがもそりと動いた。



「んんん……」



 アティは遠慮なく部屋へ入る。


 机の上には、閉じられたノートパソコン。

 積まれた資料。

 飲みかけのコーヒー。


 やっぱり、遅くまで起きていた。


 アティは腰に手を当てる。



「お父さん。朝です」


「……うん……」


「うん、じゃないよ。起きて」


「起きてるよぉ……」


「起きてない」



 アティはベッドの脇を通り過ぎ、カーテンの前に立った。



「いくよ?」


「……待って、アティ。心の準備が……」


「待ちません!」



 シャッ、と勢いよくカーテンを開ける。


 朝日が部屋いっぱいに差し込んだ。



「うぅ……まぶしい……」



 布団の中から、情けない声がする。


 普段は穏やかで、仕事もできて、どんな時でも落ち着いている父。

 でも、徹夜明けの朝だけは、ただの眠そうな人だった。


 アティはベッドの上から布団を少し引っ張る。



「起きろぉー! 朝だよ!」


「うぅん……まだ、寝かせてぇ……」


「だめ! 学校に遅れちゃう!」


「分かってる……分かってるよ……」


「じゃあ起きて!」



 布団の中から、長い金色の髪が少しだけこぼれた。


 アッシュは片目だけを薄く開け、眩しそうにアティを見る。


 瑠璃色の瞳が、朝日に細められる。



「……おはよう、アティ」


「おはよう、お父さん!」


「今日も元気だねぇ……」


「お父さんが元気じゃないだけです」


「手厳しいなぁ」



 アッシュはゆっくりと起き上がろうとして、途中で止まった。



「……あと五分」


「だめ」


「三分」


「だめ」


「一分」


「起きながら言って」


「……はい」



 ようやくアッシュが身体を起こす。


 長い金色の髪は少し乱れていて、目元には疲れが残っている。

 けれど、アティを見る顔だけは柔らかかった。


 眠そうでも、疲れていても、父はアティを見る時だけ必ず優しい顔をする。


 そんな父が鼻をスンスンとさせていると、少し嬉しそうな顔をこちらな向けた。



「朝ご飯、作ったの?」


「うん!」


「いつもありがとう。助かったよ」



 アティは胸を張る。



「ふふーん! 私、もう小学生だからね!」


「うん。頼もしいね」



 そう言って、アッシュはアティの頭を撫でた。


 その手の温かさに、アティはふと夢のことを思い出す。


 蒼い炎。

 差し伸べられた手。


 けれど、目の前の父は炎なんて纏っていない。


 ただ、眠そうで、少し疲れていて、それでも自分を見る時だけ優しく笑う、いつものお父さんだ。



「……お父さん」


「うん?」


「今日は帰ったらちゃんと寝てね」



 アッシュは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、困ったように笑う。



「そうだね。今日は早く帰れるようにするよ」


「ほんと?」


「本当」


「約束?」


「約束」



 アティはじっと父を見る。


 アッシュは微笑んだ。



「嘘じゃないよ」


「ならいいです」



 満足そうに頷いて、アティは部屋の扉へ向かう。



「朝ご飯できてるから、早く来てね!」


「はいはい」


「はいは一回!」


「はい」



 アティは元気よく階段を降りていく。


 その足音を聞きながら、アッシュは少しだけ目を閉じた。


 朝の光が、乱れた部屋に落ちている。


 階下から、アティの声が聞こえた。



「お父さーん! 早くー! スープ冷めちゃうよー!」



 アッシュは小さく笑った。



「今行くよ」



 そして、ようやくベッドから降りた。


 一階へ降りると、温め直したスープの匂いがした。


 焼いた食パンの香ばしい匂いと、ふわりと漂う卵の匂い。

 テーブルには、アティが用意した二人分の朝食がきれいに並んでいる。


 台所の隅では、クロが自分の器に顔を突っ込んで、カリカリと朝食を食べていた。


 アッシュは階段を降りきると、アティと同じようにまずリビングの棚へ向かった。


 そこには、小さな写真立てが置かれている。


 アッシュは写真の前で、そっと手を合わせる。



「おはよう、レイチェル」



 声は静かだった。


 悲しみに沈むというより、毎朝続けている挨拶のように。

 そこにいる人へ、今日も始まったよと伝えるように。


 少しだけ目を伏せてから、アッシュは顔を上げた。


 そして、テーブルへ向かう。



「アティ、朝食ありがとう」


「どういたしまして」



 アティは椅子に座りながら、じっと父を見た。


 アッシュが向かいに座る。

 クロの食器の音だけが、しばらくリビングに響いた。


 アッシュがスープへ手を伸ばそうとした時、アティが口を開く。



「それで?」


「うん?」


「早く寝るって言ったのに、お仕事、何してたの?」



 アティは少しむくれていた。


 頬をほんの少し膨らませて、瑠璃色と翡翠色の瞳でまっすぐ父を見る。


 アッシュはスプーンを持ったまま、困ったように笑った。



「あはは……」


「笑ってごまかさないでください」


「手厳しいねぇ」


「手厳しくもなります」



 アティは食パンを小さくちぎりながら言った。


「お父さん、すぐ『少しだけ』って言うもん。『少しだけ仕事する』って言って、気づいたら夜明け近くまでずっと起きてる」


「……そんなに多いかな」


「多いです」


「そっかぁ」



 アッシュは否定できずに、スープを一口飲んだ。


 温かい。

 少し薄味だけれど、優しい味だった。



「美味しいよ」


「今は味の話じゃないです」


「うん。そうだね」



 アティはむくれたまま、けれど少しだけ視線を落とした。


 警察官である父が簡単に仕事を放り出せないことは分かっている。


 それでも父は、自分のための時間をいつも作ってくれる。どんなに大変でもそれは変わらない。


 だから嬉しくて。

 だからこそ、心配だった。



「お父さん」


「うん?」


「無茶して倒れたら、元の子もないよ」



 アッシュは、なんとも言えない顔をした。


 完全に刺さった顔だった。



「……アティ」


「なに?」


「それ、誰かに教わった?」


「エドお兄ちゃん」


「ああ……」



 アッシュは小さく息を吐いた。



「エドらしいね」


「でも、本当のことでしょ?」


「……本当だね」



 アッシュは少しだけ眉を下げて、困ったように笑った。



「心配かけてごめんね」


「謝るなら、ちゃんと寝てください」


「はい」


「はいは一回」


「はい」



 アティはようやく少しだけ満足そうに頷いた。


 アッシュは食パンを口に運びながら、ふと壁の時計を見る。


 そして、少しだけ目を細めた。



「ところで、アティ」


「なぁに?」


「学院はいいのかい?」


「学院?」


「時間」


「時間?」



 アティは不思議そうに首を傾げ、それから壁の時計を見た。


 数秒、固まる。


 次の瞬間、椅子ががたんと鳴った。



「バス!!」


「うん」


「えっ、待って、もうこんな時間?!」


「そうだね」


「なんで言ってくれなかったの?!」


「今言ったよ」


「もっと早く!」



 アティは慌ててスープを飲もうとして、熱さに少しだけ目を丸くした。



「あつっ」


「落ち着いて。火傷するよ」


「落ち着いてたら間に合わない!」



 食パンを急いで口に運び、サラダを食べ、スープを少し冷ましながら飲む。


 その様子を見て、アッシュはくすくす笑った。



「朝から忙しいねぇ」


「お父さんのせいでもあるからね!」


「そうかな」


「そうです!」



 アティは食べ終えると、皿を流しへ運び、急いでリュックを取りに行った。


 廊下からばたばたと音がする。



「ハンカチよし! ノートよし! 筆箱よし!」


「忘れ物は?」


「たぶんなし!」


「たぶんは少し不安だね」


「大丈夫!」



 玄関で靴を履きながら、アティはリビングを振り返る。



「行ってきます!」


「行ってらっしゃい。気をつけて」


「うん!」



 元気な声と一緒に、玄関の扉が開く。


 朝の光が差し込んで、すぐに扉が閉まった。


 リビングが少し静かになる。


 その直後、クロがとん、と軽い音を立ててテーブルに飛び乗った。



「こら、クロ。テーブルの上はだめだよ」


「にゃあ」



 叱られているはずなのに、クロは気にした様子もなくアッシュの腕にすり寄った。



「君も朝から元気だねぇ」



 アッシュは苦笑しながら、その黒い頭をそっと撫でる。


 玄関の扉が開くと、朝の空気がアティの頬を撫でた。


 まだ少しだけ冷たい。

 けれど、日差しは明るくて、空は高い。



「行ってきます!」



 家の中へ向かってもう一度声をかけると、リビングの方からアッシュの声が返ってきた。



「うん、行ってらっしゃい。走りすぎないようにね」


「はーい!」



 そう返事をしながら、アティはすでに小走りだった。


 淡い金色の髪が朝日に揺れる。

 背中のランドセルが、ぱたぱたと小さく跳ねた。


 家の前の道へ出ると、ちょうど向かいの家の女性が花壇に水をやっていた。



「あら、アティちゃん。おはよう」


「おはようございます!」



 アティは足を止めて、ぺこりと頭を下げる。



「今日も元気ねぇ」


「はい!」


「お父さんは起きられた?」


「起こしました!」


「あら、偉いわね」



 アティは少しだけ胸を張る。


 それから、バス停の方へ向かってまた走り出した。


 途中のパン屋の前では、店主が開店準備をしていた。



「おはよう、アティちゃん」


「おはようございます!」


「今日は寝坊しなかったか?」


「してません!」


「お父さんは?」


「ちょっとしました!」



 店主が笑う。



「アッシュさんらしいなぁ」


「帰ったらちゃんと寝てもらいます!」


「それがいい」



 そんなふうに、アティは近所の人たちと挨拶を交わしながら歩いていく。


 この町の人たちは、アティをよく知っている。


 礼儀正しくて、少し大人びていて。

 けれど、笑うと年相応に無邪気な子。


 そして、少し寝不足になりがちな警察官の父を、毎朝一生懸命起こしている子。


 だから皆、アティを見ると自然に声をかける。


 アティも、それが好きだった。


 自分と父だけではない。

 ちゃんとこの町の中に、自分たちの朝がある。


 そう感じられるから。


 バス停が見えてきた時、先に立っていた少女が本から顔を上げた。


 黒い髪が、朝風にさらりと揺れる。


 白銀色の瞳がアティを見つけて、ゆっくり瞬きをする。



「アティ」


「シオン!」



 アティは嬉しそうに駆け寄った。


 シオンは、同じセレスティア総合学院に通うアティの幼なじみだった。


 黒髪に、白銀色の瞳。

 落ち着いた雰囲気の少女で、同じ年なのに少しだけ大人っぽく見える。


 文学が好きで、いつも鞄の中に一冊は本を入れている。

 休み時間も、窓際の席で静かに本を読んでいることが多い。


 けれど、時々ぽわぽわしたことを言う。


 大人びているのに、どこか天然。

 それがシオンだった。



「今日は少し遅かったね」


「お父さんを起こしてたら、時間なくなっちゃった」


「また徹夜?」


「たぶん」



 アティが頬を膨らませると、シオンは本を閉じて、少しだけ考えた。



「アティのお父さん、夜に生きてる人みたい」


「夜に生きてる人?」


「うん。昼は警察官で、夜は机に住んでる」


「机に住んでるの?」


「住んでるくらい、ずっといる」



 アティは一瞬黙って、それから吹き出した。



「ふふっ、たしかに!」



 シオンは真面目な顔のまま頷く。



「でも、朝はアティが起こすから、ちゃんと人間に戻る」


「お父さん、人間じゃなかったの?」


「半分、資料の妖精」


「妖精?!」



 アティは笑いながら肩を揺らした。


 シオンは自分の言葉の面白さにあまり気づいていないようで、不思議そうに首を傾げる。



「違う?」


「違う……と思うけど、ちょっと分かる」



 アティが笑っていると、シオンはふとアティの顔を見た。



「でも、アティも朝ご飯作ったんでしょ」


「うん!」


「偉いね」


「えへへ」



 褒められると、アティは分かりやすく嬉しそうな顔をする。


 シオンはその表情を見て、白銀色の瞳を少しだけ細めた。



「アティは、朝からちゃんと朝をしてる」


「朝をしてる?」


「うん。顔を洗って、ご飯を作って、お父さんを起こして、猫ちゃんにご飯をあげる」


「クロも大事だからね!」


「うん。家族の朝」



 その言い方が少しだけ嬉しくて、アティはにこっと笑った。



「シオンは朝、何してたの?」


「本を読んでた」


「起きてすぐ?」


「うん」


「朝ご飯は?」


「食べた」


「ちゃんと?」


「たぶん」


「たぶん?」



 アティが心配そうに見ると、シオンは鞄から小さな包みを出した。



「パンを持ってきたから、足りなかったら食べる」


「それ、朝ご飯じゃなくておやつじゃない?」


「物語の中では、旅人はパンを持つよ」


「シオン、登校は旅じゃないよ」


「でも、学校まで行くよ」


「えー、と……ん? たしかに……?」



 二人で首を傾げる。


 そこへ、遠くからスクールバスが見えてきた。


 白を基調にした車体に、セレスティア総合学院の紋章。

 翼を広げた鳥のような意匠が、朝日にきらりと光る。


 アティはそれを見て、ぱっと表情を明るくした。



「バス来た!」


「うん。そうだね」



 バスが停まり、扉が開く。


 運転手がにこやかに声をかけた。



「おはよう、アティちゃん。シオンちゃん」


「おはようございます!」


「おはようございます」



 アティは元気よく。

 シオンは静かに丁寧に。


 二人は並んでバスに乗り込んだ。


 窓際の席に座ると、アティは外を見た。


 家の方角はもう見えない。

 けれど、父はきっと今ごろ、クロを撫でながら自分を見送っている気がした。


 アティは小さく手を振る。


 誰に見えるわけでもない。

 それでも、なんとなく。


 隣でシオンが聞いた。



「アッシュさんに?」


「うん」


「見えてないと思うよ」


「分かってるけど、いいの」


「そっか」



 シオンは少しだけ考える。



「じゃあ、私も振る」


「え?」


「見えない人に振るなら、きっと届くかもしれない」



 そう言って、シオンも小さく手を振った。


 アティは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。



「ありがとう、シオン」


「うん」



 バスがゆっくりと動き出す。


 朝の町を抜けて、セレスティア総合学院へ向かっていく。


 アティはランドセルを膝に乗せ、隣のシオンに笑いかけた。



「今日も楽しみだね!」



 シオンは、鞄の中の本にそっと手を置いた。



「うん。今日は図書室に新しい本が入る日だから」


「シオンは本当に本が好きだね」


「うん。物語は、知らない場所へ連れていってくれるから」



 アティはその言葉に、嬉しそうに頷いた。



「私も、知らない場所好き!」


「知ってる」



 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。


 白いバスは、朝日に照らされながら走っていった。

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