消えた白い鳥:白く天使のような悪魔
◇ ◇ ◇
薄暗い地下室に、低い呻き声が落ちていた。
天井に取り付けられた古い照明は一つしか点いていない。
黄ばんだ光が部屋の中央だけを照らし、その外側には濃い影が沈んでいる。
床は剥き出しのコンクリート。
壁には古い金具が打ち込まれ、排水用の溝が室内の端を走っていた。
煙草。
消毒液。
湿った鉄。
そこへ、新しい血の匂いが混ざっている。
ここは、ヴェスペディウス探偵事務所の地下に造られた部屋だった。
表向きの依頼人は、存在すら知らない。
酒場を訪れる客も、秘書として働くナギ以外の従業員も、誰も足を踏み入れない。
尋ねられても、グレンは答えない。
ナギも笑って誤魔化す。
扉は厚く、外へ声が漏れることもない。
情報を持った敵を招き入れる場所であり、入った者が同じ状態で外へ出られるとは限らない場所だった。
その中央に、モルドが拘束されている。
背もたれのある金属椅子へ座らされ、両腕を後ろへ回された状態で固定されていた。
縄だけではない。
手首と足首には金属製の拘束具が嵌められ、椅子自体も床へ打ち込まれた金具と繋がれている。
両肩と片脚に受けた銃創には、最低限の止血だけが施されていた。
傷を治すためではない。
出血で意識を失わせず、死なせないためだけの処置だった。
濡れた衣服は脱がされ、代わりに薄い布を巻かれている。
冷えた身体は小刻みに震えていた。
それでも、モルドは笑おうとしていた。
腫れた唇の端を持ち上げ、目の前に立つ男へ、自分はまだ折れていないと見せつけようとしている。
グレンは、その笑みを気にした様子もなかった。
赤いマフラーだけが、包帯の巻かれた首元へ掛けられている。
シャツの下には厚い固定具と包帯。
撃たれた脚にも処置が施されていたが、立ち方は明らかに普段と違っていた。
片側へ体重を掛けすぎないよう、無意識に重心を調整している。
呼吸も、普段よりわずかに浅い。
脇腹の傷。
折れた肋骨。
脚の銃創と骨の損傷。
昨夜呼びつけられた闇医者は、グレンの身体を見るなり顔色を変えた。
処置をしながら、何度も安静にするよう訴えた。
最低でも一日は眠れ。
歩くな。
尋問など論外だ。
そう言われたグレンは、三時間ほど目を閉じた。
本人にとっては、十分に指示へ従ったつもりだった。
そして今。
まるで少し寝不足なだけの顔で、モルドの前へ立っている。
壁際に控える部下たちは、誰も声を出さない。
グレンの背中を見る目には、畏怖と呆れが半分ずつ浮かんでいた。
この人は本当に人間なのか。
全員が同じ疑問を抱いている。
だが、それを本人の前で口にできる者はいない。
一人を除いて。
「ボス」
壁へ寄りかかっていたナギが、深いため息とともに口を開いた。
彼の両手には、まだ厚い包帯が巻かれている。
指先を動かすたび痛みが走るのか、時折さりげなく手を開閉していた。
「ほんまに一回寝ただけで尋問始める人、うち初めて見たわ」
「寝た」
グレンはモルドから目を離さずに答える。
「三時間やろ」
「十分だろ」
「仮眠は治療やないんよ」
「医者には見せた」
「見せただけやん」
ナギは呆れきった顔で言う。
「あの医者、帰る時ずっと顔青かったで。医者が患者より顔色悪なるって、なかなかないですやん」
「元から顔色が悪い男だったのだろう」
「ボスの傷を見た直後からや」
「偶然だ」
「どこがやねん」
ナギは額を押さえた。
周囲の部下たちも、内心では全面的にナギへ同意していた。
しかし、グレンは取り合わない。
黄金色の瞳をモルドへ向けたまま、淡々と問いを落とす。
「船へ仕掛けられていた蓄音機」
モルドの目が、わずかに動く。
「あの声の主は誰だ?」
「さぁ、知らないね」
「今まで攫った子どもの最終輸送先は?」
「さあ」
「今回の計画は、お前の組織だけで組んだものか?」
その問いが落ちた瞬間。
モルドの瞳孔が、ほんのわずかに狭まった。
表情は変わらない。
呼吸も乱れていない。
だが、グレンは見逃さなかった。
「今、反応したな」
「おやおや、何の話だい?」
モルドは腫れた唇で笑う。
「少し目を動かした程度で、何もかも分かったつもりか」
「分かったのではない」
グレンの声は平坦だった。
「確認しただけだ」
モルドの笑みが、わずかに硬くなる。
グレンは足元に置かれた灰皿へ煙草の灰を落とした。
「子どもの誘導は、貴様らにしては妙に巧妙だった」
「あれれ、褒め言葉として受け取ろう」
「だが、追い詰められた後が雑すぎる」
グレンは煙を吐き、言葉を続ける。
「拠点を捨てる。部下を爆弾とともに地下道へ送り込む。連絡役を残したまま船を出す。その船には、最初から爆破装置が仕込まれていた」
モルドの目が細くなる。
「モルドという組織の長を名乗る貴様ごと、船を沈める計画だ」
「裏の世界では、よくあることだよ」
「馬鹿を言え」
グレンは冷たく切り捨てた。
「損失が大きすぎるだろ」
モルドの表情を、一つずつ確かめるように見下ろす。
「子どもを運ぶ船、組織の人員、輸送経路、拠点、そして貴様」
一つ挙げるたび、モルドの笑みが薄くなっていく。
「そこまでまとめて切り捨てても構わない者がいる」
グレンの声がさらに低くなる。
「今回の事件は、子どもを攫うことだけが目的ではなかった」
地下室の空気が重く沈む。
「私たちがどう動くのか。どこまで追うのか。何を守り、何を捨てるのか。それを見るために仕組まれた」
モルドは口を閉ざした。
グレンの瞳が冷える。
「誰に見られていた」
「……」
「答えろ」
「答える義理はないね」
「切り捨てられた相手へ、まだ忠義を立てるのか」
「忠義ではないよ」
モルドは、かすれた声で笑った。
だが、その笑いには先ほどまでの余裕がない。
「言ってはいけないことを、言わないだけだ」
「言えば殺されるか」
モルドは答えない。
「言わなくても殺されるからか」
やはり答えない。
グレンはしばらくモルドを見下ろした。
黄金色の瞳に、感情らしいものは浮かんでいない。
それが、かえって周囲を緊張させた。
「そうか」
短い一言。
それだけで、部屋の温度が数度落ちたように感じられた。
ナギが小さく舌打ちする。
「コイツ、まだ粘る気やなぁ。えぇ加減げろってほしいわ」
「見れば分かる」
「せやからボス、一回座りぃや」
「まだ尋問中だ」
「ホンマ、尋問する側の顔色ちゃうって言うてんねん」
「私の顔色は元からこうだ」
「さっきから時々、息止めとるやん」
「気のせいだ」
「医者の前でもそれ言うて、傷口開いて怒られたやろ」
グレンの眉間へ皺が寄った。
「ナギ」
「いや、事実やん」
ナギは肩を竦めた。
その時だった。
厚い扉の向こうから、足音が聞こえた。
地下へ続く階段を、一段ずつ下りてくる音。
急いでいない。
迷ってもいない。
軽く、静かで、一定の間隔を保った足音だった。
この場所には、あまりにも似つかわしくない。
まるで静かな学院の廊下を歩いているような、乱れのない音。
部下の一人が顔を上げる。
誰かが来る予定は聞いていない。
地下の入口には見張りがいる。
許可なく入れる者などいないはずだった。
足音は止まらない。
一段。
また一段。
近づいてくるたび、何故か誰も声を出せなくなる。
扉の前で、足音が止まった。
部下の一人が警戒しながら小窓を覗く。
そして。
その男の身体が、ぴたりと固まった。
「……ボス」
「誰だ」
グレンが視線だけを向ける。
部下は答えられない。
何と説明すればいいのか分からない顔だった。
直後。
扉が、外側から静かに開いた。
薄暗い地下室の中へ、白い姿が入ってくる。
シエルだった。
セレスティア総合学院の理事長。
子どもたちに慕われ、職員から深い敬意を向けられている人。
普段の彼女が立つ場所は、明るい学院の廊下や、礼拝堂、花の咲く中庭だ。
血と煙草と古い鉄の匂いが染みついた地下室など、世界で最も似合わない場所の一つだった。
それなのに、シエルは何の迷いもなく室内へ足を踏み入れた。
白い靴が、汚れたコンクリートの床へ触れる。
一歩。
また一歩。
裾が床の染みへ触れそうになっても、歩みは乱れない。
誰も彼女を止めなかった。
正確には、止められなかった。
侵入者として警戒すべきだと理解している。
地下室へ入れるには、あまりにも場違いな人物だとも分かっている。
それでも、目の前へ立って声をかけるという発想自体が、頭から消えていた。
シエルは、いつも通り微笑んでいる。
柔らかく。
穏やかに。
向かい合った相手を安心させるような微笑みだった。
だが。
彼女が入室した瞬間から、地下室の空気が明らかに変わっていた。
グレンの威圧は、刃物に似ている。
近づけば斬られる。
触れれば血が出る。
敵意を向ければ、その瞬間に喉を裂かれる。
そう本能へ訴える、剥き出しの危険だ。
シエルのそれは、まるで違った。
殺気はない。
敵意も見えない。
声を荒げてもいない。
ただ、清らかだった。
静かで。
澄みきっていて。
何一つ隠す必要のない者だけが持つ、真っ白な気配。
その白さが、地下室に沈むすべての汚れを否応なく浮かび上がらせる。
血。
暴力。
嘘。
隠し事。
罪。
この場にいる者が、誰にも見られたくないと思っていたものを、一つ残らず照らし出す。
逃げ場のない朝日。
目を閉じても、瞼の裏まで焼く光。
優しい。
だからこそ、恐ろしい。
シエルの目の前では、自分が何者なのかを誤魔化せない。
そんな錯覚を、部屋にいる全員が覚えた。
部下たちは、無意識に背筋を伸ばしていた。
床へ落としていた視線を上げることもできず、ただ姿勢だけを正している。
ナギでさえ、すぐには軽口を出せなかった。
「……先生」
グレンが振り返る。
他の者たちと違い、声に怯えはない。
だが、明らかな警戒があった。
シエルはグレンへ微笑みかける。
「伺うと、お伝えしましたから」
「早いな」
「きっとあなたが、私の言葉を聞かずに無茶をしていることは分かっていましたので」
グレンは視線を逸らした。
「最低限の処置は受けた」
「最低限では足りません」
声は柔らかい。
怒っているようには聞こえない。
それなのに、反論を許す余地が一切なかった。
シエルは部屋の隅へ置かれている椅子を一瞥する。
「座ってください」
「今は尋問中だ」
「座ってください」
同じ言葉だった。
声の大きさも変わらない。
笑顔も崩れていない。
それなのに、二度目の声が落ちた瞬間。
部屋の照明が一段暗くなったような錯覚が走った。
モルドの身体が、椅子の上でわずかに震える。
シエルはグレンを見ている。
それでも、その圧は部屋全体へ広がっていた。
部下の一人が、頼まれてもいないのに慌てて椅子を持ってくる。
グレンの背後へ置き、すぐに距離を取った。
グレンは不機嫌そうにシエルを見る。
シエルは変わらず微笑んでいる。
「グレン」
ただ、名前を呼ぶ。
それだけだった。
グレンは数秒黙った。
黄金色の瞳と、穏やかな青い瞳がぶつかる。
先に目を逸らしたのは、グレンだった。
「……はぁ、分かった」
諦めたように息を吐き、椅子へ腰を下ろす。
その動きを見たナギが、思わず小さく噴き出した。
「ふっ」
グレンの視線が、勢いよくナギへ向く。
ナギは即座に口元を引き締めた。
「なぁんも笑ってへんよ」
「ナギ」
「はいはい」
「医者を呼べ」
「最初からそう言うてほしかったわぁ」
ナギは待っていましたとばかりに部下へ振り返る。
「医者呼び戻し! 包帯と消毒も追加! あとボスが逃げんように、扉の前に二人置いといて!」
「はぁ? 誰が逃げる」
「ボスが」
「逃げない」
「信用あらへんわ」
「貴様」
「怒ってえぇん? 先生の前やで?」
ナギがシエルへ目を向ける。
グレンは口を閉ざした。
その様子を見て、モルドが小さく笑った。
痛みに掠れた声だったが、そこには相手を不快にさせようとする悪意が残っている。
「あれあれ、随分と、従順なんだね」
その瞬間。
地下室から、あらゆる音が消えた。
グレンの黄金色の瞳が冷える。
ナギの顔からも、笑みが消えた。
部下たちが、反射的にモルドへ視線を向ける。
誰もが思った。
今のは、余計だった。
だが。
最初に動いたのは、グレンではなかった。
シエルだった。
彼女はモルドへ顔を向ける。
笑顔は変わらない。
穏やかなまま、拘束された男へ向かって歩き始める。
白い靴が床へ触れる。
小さな足音が、一つ。
モルドの笑みは、まだ残っている。
二歩目。
笑みの端が、わずかに引きつる。
三歩目。
モルドの喉が、小さく鳴る。
シエルは何もしていない。
睨んでもいない。
怒りを見せてもいない。
ただ、近づいてくる。
それだけなのに、モルドは無意識に椅子の背へ身体を押しつけていた。
逃げられない。
拘束されているからではない。
もし自由だったとしても、今の彼女へ背を向けることはできなかった。
見られている。
そう感じる。
顔を見られているのではない。
言葉を聞かれているのでもない。
もっと奥。
自分自身が触れないようにしてきた場所。
誰にも知られていないと思っていたもの。
名前。
過去。
恐怖。
後悔。
どれも、すでに彼女の手の中へある。
そんなあり得ない感覚が、モルドの胸を締めつけた。
シエルは、モルドの正面で足を止めた。
「では」
腰を折り、目線を同じ高さまで下げる。
「彼ができない分」
シエルは微笑んだまま言った。
「私から、いくつかお尋ねしてもよろしいですか?」
声は優しい。
学院で迷子になった子どもへ声をかける時と同じものだった。
モルドは、どうにか笑みを作ろうとした。
「……理事長自ら、裏の尋問かい?」
「おや、尋問ではありませんよ」
シエルは穏やかに否定する。
「確認です」
「何を?」
「あなたが、まだ必要な方なのかを」
モルドの笑みが固まった。
シエルの声には、脅しらしい響きはない。
それでも、その言葉が何を意味しているのか。
この場にいる全員が理解した。
価値があるなら残す。
ないなら。
シエルは、ほんの少しだけ顔を近づけた。
そして、モルドにだけ聞こえる声で何かを囁いた。
あまりにも小さな声だった。
ナギにも。
グレンにも。
数歩離れた部下たちにも、内容は届かない。
ただ。
その言葉を聞いた直後のモルドの変化だけは、全員に見えた。
瞳が、大きく見開かれる。
頬から血の気が引く。
唇が震える。
喉が痙攣するように動き、息を吸おうとして失敗する。
「な……」
声が出ない。
数度、口を動かしたあと、ようやく掠れた音が漏れた。
「なんで……」
シエルは答えない。
「なんで、それを……」
モルドの呼吸が速くなる。
「知っている……?」
シエルは、いつもと変わらない笑顔のままだった。
肯定もしない。
否定もしない。
ただ、知っている。
それだけを表情で伝えていた。
モルドは拘束具を鳴らし、わずかに身体を後ろへ引こうとした。
椅子が床へ固定されているため、動かない。
その金属音が、静まり返った地下室へ虚しく響く。
「そ、それは……関係ない!」
モルドは必死に言葉を絞り出す。
「今回の件とは、何も――」
「そうでしょうか?」
シエルが穏やかに問い返した。
その一言で、モルドは黙る。
「あなたは、他人の恐怖を楽しんでいましたね」
シエルは続ける。
「子どもたちが泣く姿を、家族を求める声を、手が届かず、絶望する父親の顔を」
声は一度も荒れない。
「それらを、美しいと仰ったそうですね」
モルドの瞳が揺れる。
シエルが、その場にいなかった会話まで知っている。
誰から聞いたのか。
いつ調べたのか。
どこまで知られているのか。
モルドには分からない。
「でしたら」
シエルの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「今、ご自分が浮かべている顔も、きっと美しいのでしょうね」
モルドの顔が引きつった。
部屋にいる誰も、声を出せない。
ナギですら、笑えなかった。
今まで、グレンの恐ろしさは何度も見てきた。
血を流させる。
骨を折る。
逃げ道を塞ぐ。
それは見慣れている。
だが、シエルは一度も触れていない。
声を荒げてもいない。
それなのに、モルドはグレンの前にいた時以上に怯えている。
「それで、お答えは……?」
モルドは、声が詰まっているのか、それとも……。
黙っているとシエルは目を細める。
「……言えないのですね」
シエルが静かに言う。
「待って、違う」
「いいえ」
シエルは、初めてはっきりと否定した。
「あなたが守っているのは、忠義ではありません」
青い瞳が、モルドの奥を貫く。
「恐怖です」
モルドの喉が詰まる。
「あなたは、あの声の主を恐れている」
「……」
「裏切ることを恐れているのではありません」
シエルの声は柔らかい。
「見つけられることを恐れている」
モルドの瞳が、細かく震えた。
それだけで、答えは十分だった。
シエルはゆっくり身体を起こす。
モルドから離れ、グレンへ向き直る。
その瞬間。
モルドは、ようやく息を吸えたように大きく呼吸した。
だが、安堵はなかった。
むしろ、彼女が自分へ興味を失ったことに、より深い恐怖を覚えている。
シエルはグレンへ微笑みかける。
「どうやら、彼はもう、お話しできる立場にないようです」
グレンの目が細くなる。
「どういう意味だ」
「口にすれば、彼が守ろうとしているものも含め、すべて失う」
シエルは穏やかに答える。
「そう信じ込まされているのでしょう」
「なら、吐かせればいい」
「ええ」
シエルは否定しなかった。
「ですが、長く置けば置くほど、あなた方を危険へ晒します」
モルドが息を呑む。
シエルは一度だけ、彼へ視線を向けた。
「自分が助かるためなら、周囲のすべてを巻き込む方です」
「違う!」
モルドが初めて大きな声を出した。
シエルは視線を戻さない。
「船でも、部下を殺しました」
「違う、あれは――」
「あなた自身が生き残るために」
「黙れ!」
モルドが拘束具を鳴らす。
「お前に何が分かる!」
その叫びに、シエルはゆっくり振り返った。
笑顔は消えていない。
それなのに。
モルドの声は、その瞬間に止まった。
青い瞳の奥。
今まで薄い布で隠れていた何かが、一瞬だけ表へ出た。
怒り。
ただし、燃え上がるようなものではない。
温度を持たない。
揺れない。
相手を憎む必要すらないほど、完全に見切った者の目だった。
人間として説得する価値もない。
言葉を交わす意味もない。
そう結論づけた眼差し。
「黙るのは、あなたです」
小さな声だった。
地下室の誰も、呼吸ができなかった。
「あなたが奪った子どもたちは、今も眠ることができません。目を閉じれば、あなた方の顔を思い出す。足音を聞けば、迎えに来たのではないかと怯える。家族と離れることを怖がり、手を離せずにいる」
一言ずつ。
モルドの顔から、残っていた強がりが消えていく。
「その子たちが安心して眠れるようになるまでに、どれほどの時間が必要になるか」
シエルが軽く首を傾げる。
「あなたは考えたことがありますか?」
モルドは答えない。
答えられない。
「ないのでしょうね」
シエルは、穏やかな口調のまま言い切った。
「でしたら、これ以上、あなたの都合で誰かの時間を奪わせる必要はありません」
グレンがシエルを見る。
「先生」
「はい」
「それは、許可か」
地下室に緊張が走る。
何の許可か。
問うまでもない。
シエルはグレンを見た。
そして、いつもの柔らかな微笑みに戻る。
「私は、何も命じておりません」
「……」
「ただ」
シエルは、拘束されたモルドを一瞥する。
「あなたが必要な情報を得られないと判断した後まで、この方を守る理由を、私は持っていません」
モルドの顔から、完全に血の気が消えた。
直接的な命令ではない。
殺せとも、消せとも言っていない。
だが、何を意味しているのか分からない者はいない。
シエルはグレンへ再び目を向ける。
「あなたの判断にお任せします」
柔らかい声。
穏やかな笑顔。
その言葉が、この地下室で最も冷たい死刑宣告に聞こえた。
グレンはしばらくシエルを見つめたあと、短く息を吐いた。
「了解した」
シエルは小さく頷く。
そして、何事もなかったように話題を変えた。
「それでは、グレン」
「何だ」
「治療は、最後まで受けてくださいね」
「……分かっている」
「本当に?」
「分かっていると言っただろう」
「今のあなたからは、まったく信用できません」
グレンの眉間へ皺が寄る。
ナギが横で肩を震わせた。
シエルはそのまま踵を返す。
白い裾が、薄暗い部屋の中で静かに揺れた。
「また後ほど、様子を確認しに来ます」
グレンがわずかに顔を引きつらせる。
「来なくていい」
「伺います」
「……」
「逃げないでくださいね」
「逃げん」
ナギが横から口を挟む。
「逃げますやん」
「ナギ」
「事実ですね」
シエルはくすりと笑う。
今度の笑みは、いつもの優しいものだった。
「でしたら、お願いしますね、ナギさん」
「お任せください」
「貴様ら」
グレンの低い声を背に、シエルは地下室を出ていく。
扉がゆっくり閉じた。
白い姿が見えなくなる。
足音が階段を上り、少しずつ遠ざかっていく。
完全に気配が消えるまで、誰も口を開かなかった。
やがて。
ナギが、肺に溜めていた空気を全部吐き出すように息を吐いた。
「……ほんま、怖いな。あの人」
部下たちが無言で頷く。
一人は額に汗を浮かべていた。
別の一人は、いつの間にか握り締めていた拳をゆっくり開いている。
グレンは何も答えない。
ただ、椅子へ座ったまま深く息を吐いた。
「ボス」
「何だ?」
「先生、モルドに何言うたんやろな」
「知らん」
「聞こえへんかった?」
「聞こえていない」
「ボスでも?」
「距離の問題だ」
ナギはモルドを見る。
拘束された男は、先ほどまでとは別人のように青ざめていた。
視線が定まらず、口元が小さく震えている。
それでも、何を囁かれたのか答える様子はない。
答えること自体を恐れているようだった。
グレンは、その反応を数秒眺める。
それからナギへ視線を送った。
言葉はない。
だが、それだけでナギは理解した。
「はいはい」
ナギは壁から身体を起こす。
包帯の巻かれた手で、懐から拳銃を抜いた。
「ボスの仰せのままに」
モルドの目が大きく見開かれる。
「ま、待て」
ナギはにこりと笑う。
「何を?」
「ま、まだ、話せる!」
「さっきまで散々黙っとったやん」
「今なら言う! 全部言う!」
モルドは拘束具を鳴らしながら叫ぶ。
「蓄音機の声も、輸送先も、組織のことも――」
「アカンアカン。遅いわ」
ナギの笑顔から、温度が消える。
「自分が助かるためだけに吐く情報は、混ぜ物が多い」
「嘘はつかない!」
「嘘つきは、みんなそう言うんよ」
「待て!」
モルドがグレンを見る。
「お前は情報が欲しいんだろう!」
グレンは椅子へ座ったまま、表情を変えない。
黄金色の瞳だけが、冷たくモルドを見ている。
「欲しかった」
過去形だった。
モルドの喉が鳴る。
「今は違う」
「何故……」
「先生の言葉を聞いていなかったのか」
グレンは淡々と言う。
「貴様を長く置いておく価値がない」
「待て……!」
ナギが銃口を上げる。
モルドは身体を揺らし、必死に逃れようとする。
だが、椅子はびくともしない。
「待て! 話す! 何でも話す!」
「さっき先生も言うてたやろ」
ナギの指が、引き金へかかる。
「もう、アンタの都合で誰かの時間を奪わせる必要はないって」
「やめろ!」
ナギは笑った。
「やめへんよ」
乾いた銃声が、地下室に響いた。




