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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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36/37

消えた白い鳥:白く天使のような悪魔

 ◇ ◇ ◇


 薄暗い地下室に、低い呻き声が落ちていた。


 天井に取り付けられた古い照明は一つしか点いていない。

 黄ばんだ光が部屋の中央だけを照らし、その外側には濃い影が沈んでいる。


 床は剥き出しのコンクリート。


 壁には古い金具が打ち込まれ、排水用の溝が室内の端を走っていた。


 煙草。

 消毒液。

 湿った鉄。


 そこへ、新しい血の匂いが混ざっている。


 ここは、ヴェスペディウス探偵事務所の地下に造られた部屋だった。


 表向きの依頼人は、存在すら知らない。

 酒場を訪れる客も、秘書として働くナギ以外の従業員も、誰も足を踏み入れない。


 尋ねられても、グレンは答えない。


 ナギも笑って誤魔化す。


 扉は厚く、外へ声が漏れることもない。

 情報を持った敵を招き入れる場所であり、入った者が同じ状態で外へ出られるとは限らない場所だった。


 その中央に、モルドが拘束されている。

 背もたれのある金属椅子へ座らされ、両腕を後ろへ回された状態で固定されていた。


 縄だけではない。

 手首と足首には金属製の拘束具が嵌められ、椅子自体も床へ打ち込まれた金具と繋がれている。

 両肩と片脚に受けた銃創には、最低限の止血だけが施されていた。


 傷を治すためではない。


 出血で意識を失わせず、死なせないためだけの処置だった。

 濡れた衣服は脱がされ、代わりに薄い布を巻かれている。

 冷えた身体は小刻みに震えていた。


 それでも、モルドは笑おうとしていた。


 腫れた唇の端を持ち上げ、目の前に立つ男へ、自分はまだ折れていないと見せつけようとしている。


 グレンは、その笑みを気にした様子もなかった。


 赤いマフラーだけが、包帯の巻かれた首元へ掛けられている。

 シャツの下には厚い固定具と包帯。

 撃たれた脚にも処置が施されていたが、立ち方は明らかに普段と違っていた。


 片側へ体重を掛けすぎないよう、無意識に重心を調整している。


 呼吸も、普段よりわずかに浅い。


 脇腹の傷。

 折れた肋骨。

 脚の銃創と骨の損傷。


 昨夜呼びつけられた闇医者は、グレンの身体を見るなり顔色を変えた。


 処置をしながら、何度も安静にするよう訴えた。


 最低でも一日は眠れ。

 歩くな。

 尋問など論外だ。


 そう言われたグレンは、三時間ほど目を閉じた。


 本人にとっては、十分に指示へ従ったつもりだった。


 そして今。


 まるで少し寝不足なだけの顔で、モルドの前へ立っている。


 壁際に控える部下たちは、誰も声を出さない。


 グレンの背中を見る目には、畏怖と呆れが半分ずつ浮かんでいた。



 この人は本当に人間なのか。



 全員が同じ疑問を抱いている。


 だが、それを本人の前で口にできる者はいない。


 一人を除いて。



「ボス」



 壁へ寄りかかっていたナギが、深いため息とともに口を開いた。


 彼の両手には、まだ厚い包帯が巻かれている。


 指先を動かすたび痛みが走るのか、時折さりげなく手を開閉していた。



「ほんまに一回寝ただけで尋問始める人、うち初めて見たわ」


「寝た」



 グレンはモルドから目を離さずに答える。



「三時間やろ」


「十分だろ」


「仮眠は治療やないんよ」


「医者には見せた」


「見せただけやん」



 ナギは呆れきった顔で言う。



「あの医者、帰る時ずっと顔青かったで。医者が患者より顔色悪なるって、なかなかないですやん」


「元から顔色が悪い男だったのだろう」


「ボスの傷を見た直後からや」


「偶然だ」


「どこがやねん」



 ナギは額を押さえた。


 周囲の部下たちも、内心では全面的にナギへ同意していた。


 しかし、グレンは取り合わない。


 黄金色の瞳をモルドへ向けたまま、淡々と問いを落とす。



「船へ仕掛けられていた蓄音機」



 モルドの目が、わずかに動く。



「あの声の主は誰だ?」


「さぁ、知らないね」


「今まで攫った子どもの最終輸送先は?」


「さあ」


「今回の計画は、お前の組織だけで組んだものか?」



 その問いが落ちた瞬間。


 モルドの瞳孔が、ほんのわずかに狭まった。


 表情は変わらない。

 呼吸も乱れていない。


 だが、グレンは見逃さなかった。



「今、反応したな」


「おやおや、何の話だい?」



 モルドは腫れた唇で笑う。



「少し目を動かした程度で、何もかも分かったつもりか」


「分かったのではない」



 グレンの声は平坦だった。



「確認しただけだ」



 モルドの笑みが、わずかに硬くなる。


 グレンは足元に置かれた灰皿へ煙草の灰を落とした。



「子どもの誘導は、貴様らにしては妙に巧妙だった」


「あれれ、褒め言葉として受け取ろう」


「だが、追い詰められた後が雑すぎる」



 グレンは煙を吐き、言葉を続ける。



「拠点を捨てる。部下を爆弾とともに地下道へ送り込む。連絡役を残したまま船を出す。その船には、最初から爆破装置が仕込まれていた」



 モルドの目が細くなる。



「モルドという組織の長を名乗る貴様ごと、船を沈める計画だ」


「裏の世界では、よくあることだよ」


「馬鹿を言え」



 グレンは冷たく切り捨てた。



「損失が大きすぎるだろ」



 モルドの表情を、一つずつ確かめるように見下ろす。



「子どもを運ぶ船、組織の人員、輸送経路、拠点、そして貴様」



 一つ挙げるたび、モルドの笑みが薄くなっていく。



「そこまでまとめて切り捨てても構わない者がいる」



 グレンの声がさらに低くなる。



「今回の事件は、子どもを攫うことだけが目的ではなかった」



 地下室の空気が重く沈む。



「私たちがどう動くのか。どこまで追うのか。何を守り、何を捨てるのか。それを見るために仕組まれた」



 モルドは口を閉ざした。


 グレンの瞳が冷える。



「誰に見られていた」


「……」


「答えろ」


「答える義理はないね」


「切り捨てられた相手へ、まだ忠義を立てるのか」


「忠義ではないよ」



 モルドは、かすれた声で笑った。


 だが、その笑いには先ほどまでの余裕がない。



「言ってはいけないことを、言わないだけだ」


「言えば殺されるか」



 モルドは答えない。



「言わなくても殺されるからか」



 やはり答えない。


 グレンはしばらくモルドを見下ろした。


 黄金色の瞳に、感情らしいものは浮かんでいない。


 それが、かえって周囲を緊張させた。



「そうか」



 短い一言。


 それだけで、部屋の温度が数度落ちたように感じられた。


 ナギが小さく舌打ちする。



「コイツ、まだ粘る気やなぁ。えぇ加減げろってほしいわ」


「見れば分かる」


「せやからボス、一回座りぃや」


「まだ尋問中だ」


「ホンマ、尋問する側の顔色ちゃうって言うてんねん」


「私の顔色は元からこうだ」


「さっきから時々、息止めとるやん」


「気のせいだ」


「医者の前でもそれ言うて、傷口開いて怒られたやろ」



 グレンの眉間へ皺が寄った。



「ナギ」


「いや、事実やん」



 ナギは肩を竦めた。


 その時だった。


 厚い扉の向こうから、足音が聞こえた。


 地下へ続く階段を、一段ずつ下りてくる音。


 急いでいない。

 迷ってもいない。


 軽く、静かで、一定の間隔を保った足音だった。


 この場所には、あまりにも似つかわしくない。


 まるで静かな学院の廊下を歩いているような、乱れのない音。


 部下の一人が顔を上げる。


 誰かが来る予定は聞いていない。


 地下の入口には見張りがいる。

 許可なく入れる者などいないはずだった。


 足音は止まらない。


 一段。

 また一段。


 近づいてくるたび、何故か誰も声を出せなくなる。


 扉の前で、足音が止まった。


 部下の一人が警戒しながら小窓を覗く。


 そして。


 その男の身体が、ぴたりと固まった。



「……ボス」


「誰だ」



 グレンが視線だけを向ける。


 部下は答えられない。


 何と説明すればいいのか分からない顔だった。


 直後。


 扉が、外側から静かに開いた。


 薄暗い地下室の中へ、白い姿が入ってくる。


 シエルだった。


 セレスティア総合学院の理事長。


 子どもたちに慕われ、職員から深い敬意を向けられている人。


 普段の彼女が立つ場所は、明るい学院の廊下や、礼拝堂、花の咲く中庭だ。


 血と煙草と古い鉄の匂いが染みついた地下室など、世界で最も似合わない場所の一つだった。


 それなのに、シエルは何の迷いもなく室内へ足を踏み入れた。

 白い靴が、汚れたコンクリートの床へ触れる。


 一歩。

 また一歩。


 裾が床の染みへ触れそうになっても、歩みは乱れない。


 誰も彼女を止めなかった。

 正確には、止められなかった。


 侵入者として警戒すべきだと理解している。

 地下室へ入れるには、あまりにも場違いな人物だとも分かっている。


 それでも、目の前へ立って声をかけるという発想自体が、頭から消えていた。


 シエルは、いつも通り微笑んでいる。


 柔らかく。

 穏やかに。


 向かい合った相手を安心させるような微笑みだった。


 だが。


 彼女が入室した瞬間から、地下室の空気が明らかに変わっていた。


 グレンの威圧は、刃物に似ている。


 近づけば斬られる。

 触れれば血が出る。

 敵意を向ければ、その瞬間に喉を裂かれる。


 そう本能へ訴える、剥き出しの危険だ。


 シエルのそれは、まるで違った。


 殺気はない。

 敵意も見えない。

 声を荒げてもいない。


 ただ、清らかだった。

 静かで。

 澄みきっていて。


 何一つ隠す必要のない者だけが持つ、真っ白な気配。


 その白さが、地下室に沈むすべての汚れを否応なく浮かび上がらせる。


 血。

 暴力。

 嘘。

 隠し事。

 罪。


 この場にいる者が、誰にも見られたくないと思っていたものを、一つ残らず照らし出す。


 逃げ場のない朝日。

 目を閉じても、瞼の裏まで焼く光。


 優しい。


 だからこそ、恐ろしい。


 シエルの目の前では、自分が何者なのかを誤魔化せない。


 そんな錯覚を、部屋にいる全員が覚えた。


 部下たちは、無意識に背筋を伸ばしていた。

 床へ落としていた視線を上げることもできず、ただ姿勢だけを正している。


 ナギでさえ、すぐには軽口を出せなかった。



「……先生」



 グレンが振り返る。


 他の者たちと違い、声に怯えはない。

 だが、明らかな警戒があった。


 シエルはグレンへ微笑みかける。



「伺うと、お伝えしましたから」


「早いな」


「きっとあなたが、私の言葉を聞かずに無茶をしていることは分かっていましたので」



 グレンは視線を逸らした。



「最低限の処置は受けた」


「最低限では足りません」



 声は柔らかい。

 怒っているようには聞こえない。


 それなのに、反論を許す余地が一切なかった。


 シエルは部屋の隅へ置かれている椅子を一瞥する。



「座ってください」


「今は尋問中だ」


「座ってください」



 同じ言葉だった。


 声の大きさも変わらない。

 笑顔も崩れていない。


 それなのに、二度目の声が落ちた瞬間。


 部屋の照明が一段暗くなったような錯覚が走った。


 モルドの身体が、椅子の上でわずかに震える。


 シエルはグレンを見ている。


 それでも、その圧は部屋全体へ広がっていた。


 部下の一人が、頼まれてもいないのに慌てて椅子を持ってくる。

 グレンの背後へ置き、すぐに距離を取った。


 グレンは不機嫌そうにシエルを見る。


 シエルは変わらず微笑んでいる。



「グレン」



 ただ、名前を呼ぶ。

 それだけだった。


 グレンは数秒黙った。


 黄金色の瞳と、穏やかな青い瞳がぶつかる。


 先に目を逸らしたのは、グレンだった。



「……はぁ、分かった」



 諦めたように息を吐き、椅子へ腰を下ろす。


 その動きを見たナギが、思わず小さく噴き出した。



「ふっ」



 グレンの視線が、勢いよくナギへ向く。


 ナギは即座に口元を引き締めた。



「なぁんも笑ってへんよ」


「ナギ」


「はいはい」


「医者を呼べ」


「最初からそう言うてほしかったわぁ」



 ナギは待っていましたとばかりに部下へ振り返る。



「医者呼び戻し! 包帯と消毒も追加! あとボスが逃げんように、扉の前に二人置いといて!」


「はぁ? 誰が逃げる」


「ボスが」


「逃げない」


「信用あらへんわ」


「貴様」


「怒ってえぇん? 先生の前やで?」



 ナギがシエルへ目を向ける。


 グレンは口を閉ざした。

 その様子を見て、モルドが小さく笑った。


 痛みに掠れた声だったが、そこには相手を不快にさせようとする悪意が残っている。



「あれあれ、随分と、従順なんだね」



 その瞬間。


 地下室から、あらゆる音が消えた。


 グレンの黄金色の瞳が冷える。

 ナギの顔からも、笑みが消えた。


 部下たちが、反射的にモルドへ視線を向ける。


 誰もが思った。



 今のは、余計だった。



 だが。


 最初に動いたのは、グレンではなかった。


 シエルだった。


 彼女はモルドへ顔を向ける。


 笑顔は変わらない。

 穏やかなまま、拘束された男へ向かって歩き始める。


 白い靴が床へ触れる。


 小さな足音が、一つ。


 モルドの笑みは、まだ残っている。


 二歩目。


 笑みの端が、わずかに引きつる。


 三歩目。


 モルドの喉が、小さく鳴る。


 シエルは何もしていない。

 睨んでもいない。

 怒りを見せてもいない。


 ただ、近づいてくる。


 それだけなのに、モルドは無意識に椅子の背へ身体を押しつけていた。


 逃げられない。

 拘束されているからではない。


 もし自由だったとしても、今の彼女へ背を向けることはできなかった。


 見られている。


 そう感じる。


 顔を見られているのではない。

 言葉を聞かれているのでもない。


 もっと奥。


 自分自身が触れないようにしてきた場所。


 誰にも知られていないと思っていたもの。


 名前。

 過去。

 恐怖。

 後悔。


 どれも、すでに彼女の手の中へある。

 そんなあり得ない感覚が、モルドの胸を締めつけた。


 シエルは、モルドの正面で足を止めた。



「では」



 腰を折り、目線を同じ高さまで下げる。



「彼ができない分」



 シエルは微笑んだまま言った。



「私から、いくつかお尋ねしてもよろしいですか?」



 声は優しい。


 学院で迷子になった子どもへ声をかける時と同じものだった。


 モルドは、どうにか笑みを作ろうとした。



「……理事長自ら、裏の尋問かい?」


「おや、尋問ではありませんよ」



 シエルは穏やかに否定する。



「確認です」


「何を?」


「あなたが、まだ必要な方なのかを」



 モルドの笑みが固まった。


 シエルの声には、脅しらしい響きはない。


 それでも、その言葉が何を意味しているのか。


 この場にいる全員が理解した。



 価値があるなら残す。


 ないなら。



 シエルは、ほんの少しだけ顔を近づけた。


 そして、モルドにだけ聞こえる声で何かを囁いた。


 あまりにも小さな声だった。


 ナギにも。

 グレンにも。


 数歩離れた部下たちにも、内容は届かない。


 ただ。


 その言葉を聞いた直後のモルドの変化だけは、全員に見えた。


 瞳が、大きく見開かれる。

 頬から血の気が引く。

 唇が震える。


 喉が痙攣するように動き、息を吸おうとして失敗する。



「な……」



 声が出ない。


 数度、口を動かしたあと、ようやく掠れた音が漏れた。



「なんで……」



 シエルは答えない。



「なんで、それを……」



 モルドの呼吸が速くなる。



「知っている……?」



 シエルは、いつもと変わらない笑顔のままだった。


 肯定もしない。

 否定もしない。


 ただ、知っている。


 それだけを表情で伝えていた。


 モルドは拘束具を鳴らし、わずかに身体を後ろへ引こうとした。

 椅子が床へ固定されているため、動かない。


 その金属音が、静まり返った地下室へ虚しく響く。



「そ、それは……関係ない!」



 モルドは必死に言葉を絞り出す。



「今回の件とは、何も――」


「そうでしょうか?」



 シエルが穏やかに問い返した。


 その一言で、モルドは黙る。



「あなたは、他人の恐怖を楽しんでいましたね」



 シエルは続ける。



「子どもたちが泣く姿を、家族を求める声を、手が届かず、絶望する父親の顔を」



 声は一度も荒れない。



「それらを、美しいと仰ったそうですね」



 モルドの瞳が揺れる。


 シエルが、その場にいなかった会話まで知っている。


 誰から聞いたのか。

 いつ調べたのか。


 どこまで知られているのか。


 モルドには分からない。



「でしたら」



 シエルの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。



「今、ご自分が浮かべている顔も、きっと美しいのでしょうね」



 モルドの顔が引きつった。


 部屋にいる誰も、声を出せない。


 ナギですら、笑えなかった。


 今まで、グレンの恐ろしさは何度も見てきた。


 血を流させる。

 骨を折る。

 逃げ道を塞ぐ。


 それは見慣れている。


 だが、シエルは一度も触れていない。


 声を荒げてもいない。


 それなのに、モルドはグレンの前にいた時以上に怯えている。



「それで、お答えは……?」



 モルドは、声が詰まっているのか、それとも……。


 黙っているとシエルは目を細める。



「……言えないのですね」



 シエルが静かに言う。



「待って、違う」


「いいえ」



 シエルは、初めてはっきりと否定した。



「あなたが守っているのは、忠義ではありません」



 青い瞳が、モルドの奥を貫く。



「恐怖です」



 モルドの喉が詰まる。



「あなたは、あの声の主を恐れている」


「……」


「裏切ることを恐れているのではありません」



 シエルの声は柔らかい。



「見つけられることを恐れている」



 モルドの瞳が、細かく震えた。


 それだけで、答えは十分だった。


 シエルはゆっくり身体を起こす。


 モルドから離れ、グレンへ向き直る。


 その瞬間。


 モルドは、ようやく息を吸えたように大きく呼吸した。


 だが、安堵はなかった。

 むしろ、彼女が自分へ興味を失ったことに、より深い恐怖を覚えている。


 シエルはグレンへ微笑みかける。



「どうやら、彼はもう、お話しできる立場にないようです」



 グレンの目が細くなる。



「どういう意味だ」


「口にすれば、彼が守ろうとしているものも含め、すべて失う」



 シエルは穏やかに答える。



「そう信じ込まされているのでしょう」


「なら、吐かせればいい」


「ええ」



 シエルは否定しなかった。



「ですが、長く置けば置くほど、あなた方を危険へ晒します」



 モルドが息を呑む。


 シエルは一度だけ、彼へ視線を向けた。



「自分が助かるためなら、周囲のすべてを巻き込む方です」


「違う!」



 モルドが初めて大きな声を出した。


 シエルは視線を戻さない。



「船でも、部下を殺しました」


「違う、あれは――」


「あなた自身が生き残るために」


「黙れ!」



 モルドが拘束具を鳴らす。



「お前に何が分かる!」



 その叫びに、シエルはゆっくり振り返った。


 笑顔は消えていない。


 それなのに。


 モルドの声は、その瞬間に止まった。


 青い瞳の奥。


 今まで薄い布で隠れていた何かが、一瞬だけ表へ出た。


 怒り。

 ただし、燃え上がるようなものではない。


 温度を持たない。

 揺れない。


 相手を憎む必要すらないほど、完全に見切った者の目だった。


 人間として説得する価値もない。

 言葉を交わす意味もない。


 そう結論づけた眼差し。



「黙るのは、あなたです」



 小さな声だった。


 地下室の誰も、呼吸ができなかった。



「あなたが奪った子どもたちは、今も眠ることができません。目を閉じれば、あなた方の顔を思い出す。足音を聞けば、迎えに来たのではないかと怯える。家族と離れることを怖がり、手を離せずにいる」



 一言ずつ。


 モルドの顔から、残っていた強がりが消えていく。



「その子たちが安心して眠れるようになるまでに、どれほどの時間が必要になるか」



 シエルが軽く首を傾げる。



「あなたは考えたことがありますか?」



 モルドは答えない。


 答えられない。



「ないのでしょうね」



 シエルは、穏やかな口調のまま言い切った。



「でしたら、これ以上、あなたの都合で誰かの時間を奪わせる必要はありません」



 グレンがシエルを見る。



「先生」


「はい」


「それは、許可か」



 地下室に緊張が走る。


 何の許可か。

 問うまでもない。


 シエルはグレンを見た。


 そして、いつもの柔らかな微笑みに戻る。



「私は、何も命じておりません」


「……」


「ただ」



 シエルは、拘束されたモルドを一瞥する。



「あなたが必要な情報を得られないと判断した後まで、この方を守る理由を、私は持っていません」



 モルドの顔から、完全に血の気が消えた。


 直接的な命令ではない。

 殺せとも、消せとも言っていない。


 だが、何を意味しているのか分からない者はいない。


 シエルはグレンへ再び目を向ける。



「あなたの判断にお任せします」



 柔らかい声。

 穏やかな笑顔。


 その言葉が、この地下室で最も冷たい死刑宣告に聞こえた。


 グレンはしばらくシエルを見つめたあと、短く息を吐いた。



「了解した」



 シエルは小さく頷く。


 そして、何事もなかったように話題を変えた。



「それでは、グレン」


「何だ」


「治療は、最後まで受けてくださいね」


「……分かっている」


「本当に?」


「分かっていると言っただろう」


「今のあなたからは、まったく信用できません」



 グレンの眉間へ皺が寄る。


 ナギが横で肩を震わせた。


 シエルはそのまま踵を返す。


 白い裾が、薄暗い部屋の中で静かに揺れた。



「また後ほど、様子を確認しに来ます」



 グレンがわずかに顔を引きつらせる。



「来なくていい」


「伺います」


「……」


「逃げないでくださいね」


「逃げん」



 ナギが横から口を挟む。



「逃げますやん」


「ナギ」


「事実ですね」



 シエルはくすりと笑う。


 今度の笑みは、いつもの優しいものだった。



「でしたら、お願いしますね、ナギさん」


「お任せください」


「貴様ら」



 グレンの低い声を背に、シエルは地下室を出ていく。


 扉がゆっくり閉じた。


 白い姿が見えなくなる。

 足音が階段を上り、少しずつ遠ざかっていく。


 完全に気配が消えるまで、誰も口を開かなかった。


 やがて。


 ナギが、肺に溜めていた空気を全部吐き出すように息を吐いた。



「……ほんま、怖いな。あの人」



 部下たちが無言で頷く。


 一人は額に汗を浮かべていた。


 別の一人は、いつの間にか握り締めていた拳をゆっくり開いている。


 グレンは何も答えない。


 ただ、椅子へ座ったまま深く息を吐いた。



「ボス」


「何だ?」


「先生、モルドに何言うたんやろな」


「知らん」


「聞こえへんかった?」


「聞こえていない」


「ボスでも?」


「距離の問題だ」



 ナギはモルドを見る。


 拘束された男は、先ほどまでとは別人のように青ざめていた。


 視線が定まらず、口元が小さく震えている。


 それでも、何を囁かれたのか答える様子はない。

 答えること自体を恐れているようだった。


 グレンは、その反応を数秒眺める。


 それからナギへ視線を送った。


 言葉はない。


 だが、それだけでナギは理解した。



「はいはい」



 ナギは壁から身体を起こす。


 包帯の巻かれた手で、懐から拳銃を抜いた。



「ボスの仰せのままに」



 モルドの目が大きく見開かれる。



「ま、待て」



 ナギはにこりと笑う。



「何を?」


「ま、まだ、話せる!」


「さっきまで散々黙っとったやん」


「今なら言う! 全部言う!」



 モルドは拘束具を鳴らしながら叫ぶ。



「蓄音機の声も、輸送先も、組織のことも――」


「アカンアカン。遅いわ」



 ナギの笑顔から、温度が消える。



「自分が助かるためだけに吐く情報は、混ぜ物が多い」


「嘘はつかない!」


「嘘つきは、みんなそう言うんよ」


「待て!」



 モルドがグレンを見る。



「お前は情報が欲しいんだろう!」



 グレンは椅子へ座ったまま、表情を変えない。


 黄金色の瞳だけが、冷たくモルドを見ている。



「欲しかった」



 過去形だった。


 モルドの喉が鳴る。



「今は違う」


「何故……」


「先生の言葉を聞いていなかったのか」



 グレンは淡々と言う。



「貴様を長く置いておく価値がない」


「待て……!」



 ナギが銃口を上げる。


 モルドは身体を揺らし、必死に逃れようとする。


 だが、椅子はびくともしない。



「待て! 話す! 何でも話す!」


「さっき先生も言うてたやろ」



 ナギの指が、引き金へかかる。



「もう、アンタの都合で誰かの時間を奪わせる必要はないって」


「やめろ!」



 ナギは笑った。



「やめへんよ」



 乾いた銃声が、地下室に響いた。


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